2006年02月25日

日本の朝鮮支配の実像 ・・・残忍な刑罰、作付転換の強制

昨年問答有用に投稿したものに少々手を加えて焼き直し。
別の所にも書いたが、日本が支配していた時代の朝鮮には、「笞刑」があった。要するにむち打ちの刑である。
朝鮮笞刑令(1912年3月制令第13号)
第一条 三月以下の懲役又は拘留に処すへき者は其の情状に依り笞刑に処することを得
第二条 百円以下の罰金又は科料に処すへき者左の各号の一に該するときは其の情状に依り笞刑に処することを得
    一 朝鮮内に一定の住所を有せさるとき
    二 無資産なりと認めたるとき
第六条 笞刑は笞を以て臀を打ち之を執行す
第七条 笞刑は笞三十回以下に在りては之を一回に執行し三十迄を増す毎に一回を加ふ
    笞刑の執行は一日一回を超ゆることを得す
(中略)
第十三条 本令は朝鮮人に限り之を適用す
(朴慶植/著 青木書店「日本帝国主義の朝鮮支配 下巻」P-265より)
・・・このように1日30回以下と定められていたにも拘らず、実際はそれ以上の回数が行われることもあり、先端に鉛をつけた笞の激痛で気絶させてしてしまうこともあった。
「執行心得」によると、受刑者の両腕両足を板に縛りつけ、泣き叫ぶ声を抑えるために水を濡らした布で口を塞ぐことが指示されていたという。また「死者に対してはその本籍の面長に通告することになっていた」という(同書上巻P-47より)。この残忍な行為についてはmemoさん投稿している。

また、植民地朝鮮では綿の栽培が進められていた。穀類よりも商品価値が高い作物を奨励するのは植民地経営として当然のことだったと言える。そして貧しい農民に強制するために笞による暴力が利用されたようである。
「全南珍島は古来難治の地方でありましてとても陸地棉栽培など承知しませんので(中略)郡庁に郡守を尋ねて御願い致し栽培者を物色して呼出し必ず播種するよう厳重に申渡して貰ったのです。処が頑固で中々応じない。そこで郡守は之に笞刑を命じ、始めは軽く打たせておりましたが、依然として承諾しないので、段々と強く打たせ二十回臀部を打たせ大分局部が赤く腫れ上がった頃になりますと、愈々兜を脱いで播種することを承諾しました」(久間健一「朝鮮農政の課題」所収、「朝鮮農会報」(農地回顧座談会号)九ノ十一・・・前掲書P-47〜48より)
当時の日本政府にとって輸出品となり得る綿の増産が重要だった。朝鮮総督府は農村の現状など構わずに、この作物の栽培を強制していったのである。
「朝鮮で棉の奨励を始めたのは明治三十九年(1906年)頃であるが、この新来の作物を農民に栽培させることは容易ではなかった。之がため当時は憲兵や巡査まで動員して、強制的に栽培せしめたのであった。のみならず棉を栽培しない農家にして、麦や大豆を作っているものは、強制的に、大豆や麦を足で踏み倒してしまったことも一切ではなかった」
「僕が全北に居る時橘君が農務課長だったが、その時棉の奨励をやったところが面白い。農家に対して、お前の家は来年棉を作るかいくら作るかと云ふので、その作り次第で金を貸してやったのです。そうしてその年いって見ると棉は一つも作って居ない。皆麦を作って居るからその麦を踏み倒して終った。随分強行軍をやったものです」(久間健一「朝鮮農政の課題」・・・前掲書P-86〜87より)
「利益の確実なるときは敢えて導からさるも、之に向かうは人情の自然として、米作の改良の如きは其の一例とす。然るに、毫も利害得失を了解せしむることなく強要せらるるものあり。陸地棉の如きは三年継続して不作なりしに、尚耕作及反別五割を増加せしめらる。斯くの如きは人民の不利益を計るものあり」
「又煙草・棉の共同販売は、其の価格は時価より著しく廉価なるが如きあり」
「少量の繭の共同販売の如きは、販売価格を以て取扱所に往復の経費を償ふに足らさるに拘らす、各個に販売するを得す」
「人参・煙草の耕作は諸種の規則に制限せられ、之に反し政府の都合にて利益とならざる陸地棉・桑畑を強制栽培せしめたるは不条理なり」(朝鮮憲兵隊司令部編「朝鮮騒擾事件状況」)

当然の如く、棉の流通で甘い汁を吸う御用商人も存在した。
「棉花販売施設の規定せられし動機は、稍々貯穀奨励に似たる者あり。
其法たる先ず棉作者三萬数千人を以て棉作組合を組織し、組合員をして決して棉花を仲買人に売る能はざらしめ、然る後棉花販売所を設け、一手にて棉花を買収せしむ。
而して買収人として木浦に於ける朝鮮棉業、天平棉業、木浦棉業の三棉繰会社及び榮山に二人、南平に一人を指定せり。
而かして買収価格は米穀棉の大阪に於ける相場を標準とし、運賃を差引たるものと定めたり。総督府が斯の如き制度を定めたるは、一は棉花栽培者の仲買に苦しめらるるを防ぐ為にして、二は棉花の品質を統一して、市場に於ける聲價を増さんが爲なり。
然るに斯くの如き親切なる施設なるに係らず、農民は之を喜ばずして、却つて棉業者をして獨占的利益を獲ましむるに至れり。
既に買収獨占権を得たる棉業者は棉花の品質を評価するに当り、一等を二等とし、二等を三等に値切る等の専横を逞うし、又棉作者が折角两三日程の遠来より、棉花を販売所に運び来りて、之を売却せんとするに、販売所は役人風を振廻して、時間後れたりなど言ひて之を受附けず、貧困なる栽培者は、既に棉花を運ぶべく两三日を費し、更に販売所に収むべく一二日を費す等の事あり、折角の恩典は仇となりて、彼等は爾来決して棉花を栽培せずと嘆息するに至れり。
勿論棉花販売施設によりて、品質の統一せられし効果は争ふべからず、大正二年に於て朝鮮棉の評判非常に揚り、内地には関東方面にまで売出しせは、該施設の効なりと雖も、折角多年奨励の結果好成績を示せし棉花栽培の利益が農民を利せずして、買収人たる二三の棉繰業者を利するに至るは、是れ総督府の公平なる政治と謂ふ可らず。
而して会社令なるものの存在は、猶一層朝鮮に於ける棉業者の獨占的利益を擁護するものにして、益々吾人をして農民の為に憤慨せしめんずんばあらず」(中野正剛「我が観たる満鮮」)

このように外貨獲得のために暴力的な手段によって農民自身の利益とはならない作付転換が強制され、一方で官と癒着した業者が暴利を貪る・・・という、典型的な植民地経営が行われていた。
しかし朝鮮人を搾取し続けていたにも拘らず、この植民地からは投資に見合った利益を上げることはなかなか困難で、やっと軌道に乗ってきた頃(参考)に自殺的な侵略戦争を起して水泡と帰した、とさ。
posted by 鷹嘴 at 00:43| Comment(7) | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
朝鮮半島版強制栽培制度ですか。これをもってしても右翼は大日本帝国の朝鮮植民地支配は人道的だったと言うんですよね。あきれてものがいえません。
Posted by 右翼討伐人 at 2006年02月25日 01:56
>朝鮮笞刑令(1912年3月制令第13号)

李氏朝鮮時代よりあった一般的な刑罰を流用したものですね。朝鮮人みたいな刑罰を朝鮮人に施したら何か問題なんですか?

>「僕が全北に居る時橘君が農務課長だったが、その時棉の奨励をやったところが面白い。農家に対して、お前の家は来年棉を作るかいくら作るかと云ふので、その作り次第で金を貸してやったのです。そうしてその年いって見ると棉は一つも作って居ない。皆麦を作って居るからその麦を踏み倒して終った。随分強行軍をやったものです」

この朝鮮人は嘘ついてお金借りたんですね。悪党ですね。
Posted by at 2006年02月25日 13:51
上のコメントを拝見して...(私自身、この件に関してあまり知識はありませんが)

>>朝鮮笞刑令(1912年3月制令第13号)
>
>李氏朝鮮時代よりあった一般的な刑罰を流用したものですね。
>朝鮮人みたいな刑罰を朝鮮人に施したら何か問題なんですか?

たしかに、李氏朝鮮にもあったようですね。また実際のところ、日本が近代的な刑罰を導入して むしろ残虐刑は廃止されたのだという見方もできると思います。
しかし、ノンポリさんの引用の中で太字で強調されているように、笞刑は「朝鮮人に限って適用」されており、刑罰が平等ではなかったわけです。

またそれ以上に、この法令が悪用されて拷問まがいのことが行われたのではないか、という点については 日本人としてきちんと検証すべきでしょう。

以上がコメントへのツッコミです。
以下は、余計な意見かも。

ただ、個人的には...やはり
法令の文面を素直に読めば、これは罰金刑を適用できない貧困層の犯罪者に対して対応策を示したものですよね...
この法令そのものに、残虐刑による朝鮮への暴力支配の意図があったと考えるのは ちょっと無理があるような気がします。
(本エントリーで、ノンポリさんがそのような主張をされているわけではありませんが、あちこちのWebサイトで 割とそう書かれてるのが気になってまして)

長文失礼しました。
んなことはとっくにわかってるよ!という方はスルーしてください...
Posted by れじ(とおりすがり) at 2006年02月26日 05:28
私は韓国人です.
朝鮮時代にあった苔刑もお金で代わりをするのが可能だったしその羊は 1744年法によれば 50代当たり綿布一頭であったと言います.
これがどの位の行ってしたからは詳らかに思わなければなりませんが.
Posted by K3 at 2006年03月03日 09:54
久間健一の「朝鮮農政の課題」はどこで読めますか?
Posted by 折口 at 2012年02月01日 14:13
「朝鮮農政の課題」は、東京都立中央図書館で閲覧可能です(閉架)
Posted by 鷹嘴 at 2012年02月03日 18:03
朝鮮笞刑令って、朝鮮の風習が残っただけです。キーセンだって近代化しきれず、日本と同じ法律にできなかった。朝鮮人がキーセン制度を変えるのに反対したので。
Posted by nanashikunn at 2014年09月03日 09:41
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