中国への侵略戦争の拡大、さらに対米開戦によって破滅の道を歩んでいた戦時中の日本では、徴兵によって国内の労働力が不足し、それを補うため朝鮮人強制連行が行われた。さらにそれに飽きたらず、1942年11月27日東條内閣は「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定し、中国人を強制連行する方針を決定した。秋田県花岡町(現・大館市)の花岡鉱山の土木工事に中国人が動員されたのは1944年8月のことだった。
この鉱山は戦争の拡大に伴い軍部から増産が厳しく要求され、無計画な採掘が行われていた。採掘しつくした坑道を「ジリ」で埋め戻すことも怠るような乱掘を続けた結果、1944年5月29日、「七ッ館坑」が落盤する事故が発生した。
鉱床の真上を流れる花岡川が陥落し、12人の日本人と12人の朝鮮人坑夫が生き埋めになってしまったのである。しかしこの鉱山を経営する花岡鉱業所は被害者を救出せず、陥落した穴を土砂で埋め戻してしまった。つまり労働者たちを生き埋めにしたのである。
同様の事故が起こることを恐れた花岡鉱業所は花岡川の水路変更計画を立て、鹿島組(現・鹿島建設)がこの土木工事を請け負った。その現場に、44年8月から翌年6月にかけて、982人の強制連行された中国人が送り込まれたのである。
■ 彼らは捕虜となった国民党軍の兵士や、三光作戦の一環として拉致された農民たちだった。花岡蜂起を率い、戦後に原告団長となった耿諄(こうじゅん)さん(*2)も、国民党軍の将校だった。
中国各地から連行された中国人たちは下関に上陸したあと、貨物車で三昼夜かけて秋田県花岡まで運ばれ、「中山寮」という飯場に収容された。
そして彼らは連日12時間以上の過酷な土木作業に従事させられたのである。休日は与えられなかった。(さすがに44年の大晦日の午後と翌日は休みだったらしい)。冬でも上下一枚の作業着しか与えられず、腰まで水に浸かる作業が続いた。
食事は煮たフキかゴボウが一本と、一個の饅頭だけだった。その饅頭も次第に小さくなり質も落ちていき、最初は小麦粉製だったがそのうち臭いリンゴのカスが混ぜられ、さらに樹の皮が混ぜられた。こういう食事で過酷な土木工事を課せられたのである。「中山寮から作業場にゆく途中の雑草は、当時俘虜がくい尽くして」しまったという証言もある (*3)。飢えに耐えられない者が同胞の死体を食べる事例もあったという(*4)。
これは【アメリカ国立公文書館蔵 張国通/編著「花岡事件」】に掲載されている、骨と皮のように痩せこけた身体で重労働を強いられていた「中国人労工」たちの写真である。
■ この日本のアウシュビッツと言うべき鹿島組花岡出張所の看守ならぬ「補導員」は、中国人に対し姿勢が悪い、サボっている、腰を伸ばした・・・などと言いがかりをつけて制裁を加えるのである。
45年7月20日の仙台俘虜収容所長から東京の不慮情報局宛の報告書には「華人を取扱ふこと牛馬を取扱ふ如くにして、作業中停止すれば撲たれ部隊行進中他に遅れれば撲たれ彼等の生活は極小量の食料を与へられ最大の要求と撲られることのみと言ふも過言にあらず」とある(*5)。
生ゴミを漁ったり路上の雑草を食べたり、朝鮮人から施しを受けた者は、「中山寮の恥、鹿島組の恥、支那人の恥」などと怒鳴られながら棍棒や皮の鞭で、さらに牛の睾丸を乾かした鞭で殴打された(*6)。国や県から中国人労働者に対しても日本人と同じように配給が行われていたのに、「鹿島組の幹部や中山寮の補導員たち」が自宅で食べるため持ち帰ってしまったり、横流しして飲み食いにあてたという(*7)。
こうして花岡出張所で働かされるために強制連行された986人(うち3人が途中で死亡、1人は通訳)のうち、45年6月30日夜の蜂起(*8)より前に140人が死亡し50人近くが病に臥していた。このようにいつ餓死・病死するか撲殺されるか分からない状況で中国人らが蜂起したのは全く当然のことだろう。耿諄さんも同胞を制止しようとはせず、共に立ち上がることを決意した。(つづく)
*1 この投稿群はいくつもの資料を参考にしているが、その中でも次の3点を重視した。
● 野添賢治/著「花岡事件の人たち」評論社、昭和50年7月1日初版
●「尊厳 半世紀を歩いた『花岡事件』」
旻子(ミンズ)/著 山邉 悠喜子/訳 「私の戦後処理を問う」会/編集
日本僑報社 初版: 2005年 8月15日初版第1刷
● 月刊誌「世界」(岩波書店)
2008年1月号「虜囚の記憶を贈る 第5回 人倫としての花岡蜂起」
2008年2月号「虜囚の記憶を贈る 第6回 受難者を絶望させた和解」(野田正彰/著)
関西学院教授・精神科医の野田氏は上記の執筆に先だつ2007年3月、河南省襄城に住む耿諄さんを訪問している。
*2 耿諄(こうじゅん)さんは1914年11月16日、河南省襄城県北大衛で、茶屋を経営する一家の7番目の子として生まれた。祖父が私塾を経営するなど教養のある一家で、耿諄さんも幼いときから勉学に励んでいた。しかし一家は土匪の襲撃によって茶屋を焼失し貧しくなり、耿諄さんは18歳のときに国民軍に入隊、日本軍の捕虜となったときは中隊長に昇格していた。部下が病気になれば身銭を切って面倒をみる性格から「貧乏隊長」「耿善人」と呼ばれ慕われていたという。花岡に連行された際、その経歴を見込まれ中国人を統率する「労工大隊長」に任命された。
*3 「中国人強制連行」(杉原達/著 岩波新書735)P-75
*4 河北の農民「L」は砂運びをしていたが痩せていて体力が無いため、耿諄さんは彼を死体焼却場に配置換えした。飢えに耐えられない「L」はネズミの死体、馬の皮などを密かに食べていたが、ある日ついに焼けた死体を食べてしまった。これに気づいた者らは彼に死を迫ったが、耿諄さんは彼に二度とこのようなことをしないよう諭し、事態を収拾した。もし彼の行為が日本人の「補導員」に発覚すれば、処刑されるか死に至るまで殴られただろう。「尊厳」P-57より。
また「花岡事件の人たち」収録の生存者の対談には、人肉食をした者の実名が出てくる(P-82〜83)。
「耿大隊長が看護隊に来て、死んだ人を焼きに行く人の中で、缶詰のフタで、死体の肉とって食べとる人がいる、これはいかんと言っていた。***の他にも、かなりの人、人間の肉食べたらしい」*5「中国人強制連行」P-76
*6 08年1月号「世界」P-265(人倫としての花岡蜂起)。労働者にまともな食事も休養も与えずに働かせることこそ「鹿島組の恥」ではないか?
*7 「花岡事件の人たち」P-62。
また、同書P-72の対談で生存者の一人の劉智渠さんが次のように述べている。
「私たちのからだ、やせ細って、歩くのもふらふらの状態でしょ。ところが補導員、なにを食べてるか知らないが、みんな元気でしょ。その元気な人たち、わたしたちのこと力一杯に叩くのだから、たまったものでないよ。補導員たちのからだ、肥ってくるほど、わたしたち死に近づいていくような状態だったさ」劉智渠さんは戦後も日本に残り、札幌で事業を興し成功した。ちなみに「労工大隊長」の耿諄さんは鹿島組の職員と同じ食事をするように薦められても断っていたという。
*8 耿諄さんの「訊問調書」では、蜂起が7月1日となっている。鹿島組花岡出張所が外務省に提出した「事業場報告書」も同上である。
しかし大館の気象観測所の記録によると6月30日、7月1日とも降水量ゼロ、7月2日は降水量14.5ミリとなっている。蜂起の翌日(7月1日)に捕らえられた中国人らは全て、その日は炎天下だったと証言している。7月1日の蜂起発生というのは全くあり得ない話だ。
さらに鹿島組の報告書は、殺害された4人の補導員は6月30日付けをもって退職しており「二〇・七・一騒擾事件により殺害さる」としている。退職した人間が翌日も職場にいたというのか?
4人の殺害は鹿島組への怒りではなく私怨だったと印象付けるため、蜂起は7月1日であったという虚偽を記したのではないかと、「中国人強制連行」の筆者・杉原達氏が指摘している。(P-78〜79)