警備所の電話線を切り補導員たちの退路を塞ぐ取り囲む計画だったが、気のあせった仲間たちが、配置が完成しないうちに「漢奸」1人と補導員4人を殺害したため、逃げおおせた補導員によって通報され、食糧の確保も出来ぬまま逃げることになってしまった。鎮圧には警察、憲兵隊や「消防団員、警防団員、在郷軍人、青年学校生」など2万人以上が動員された。
近くの「獅子ヶ森」という山には数百人が立てこもったが、シャベルやツルハシによる抵抗も時間の問題だった。多くの仲間が刀や竹槍で虐殺され、その晩や翌日のうちに捕らえられた数百人は町の中心部の映画館「共楽館」前の広場で縛りつけられ、三日間炎天下に水も与えられず晒し者にされ、警察と地元住民によってなぶり者にされた(*1)。蜂起の鎮圧とこの三日間で100人以上が殺されたという。
■ 蜂起の指導的立場だと疑われた耿諄さんら13人は秋田刑務所に収監され、激しい取調べと拷問を受けた。生き残った中国人たちは中山寮に連れ戻され蜂起の前と同じ過酷な生活を強いられたが、8月17日に内務省主管防諜委員会から「華人労務者の取扱」が通達された。直ちに労務を中止し、賃金を支払い、衣食を支給し、留置されている者は釈放し、死者の遺骨を準備せよという内容だった(*2)。
しかし鹿島花岡出張所はその通達を無視し中国人たちを働かせ続けた。8月28日、B−29がやってきてアメリカ兵捕虜収容所に向かってドラム缶に入った慰問品を投下し、中国人たちも初めて日本の敗戦を知ったのである。(*3)。耿諄さんら秋田刑務所に収監された人々や、事件の証人として残留を命じられた人々、そして重病者以外は、11月に中国に帰ることが出来た。花岡出張所で働かされるために強制連行された986人のうち418人が死亡し、生き残ったのは568人だった。
■ また政府は、中国人を働かせていた135ヶ所の事業所に「華人労務者就労顛末報告」を提出させた(*4)。外務省はこれを元に46年3月付けで「華人労務者就労事情調査報告書」を作成した。中国人への強制労働・虐待の一端を知らしめる重要な資料であるが、政府はこれを公表しなかった。後の国会答弁でも「全部焼却した」と答えている(*5)。
その後鹿島組など中国人を使役していた企業などが構成する「日本建設工業会」は、証拠書類を焼却隠滅するだけでなく、恥知らずにも「国の推薦した中国人労務者を使ったために発生した事業の損失」として国家補償を求めた。そして45年12月30日に「終戦後の損失に対する補償」が閣議決定され、同会に3200万円が支払われた。さらに翌年3月30日付けの商工省令で「終戦前の損害に対する補償」が決定し、545万円が支払われた。鹿島組は346万1545円と58万3471円を受け取っている。しかも同会に「緊急融資」6206万円が与えられ、厚生省は日本興業銀行に対し中国人を使った企業に優先的に融資するように依頼した。(*6)。
「盗人に追い銭」とはまさにこのことではないか?国策とはいえど強制連行された中国人をまともな食事も与えずに酷使し、虐待し、死に追いやったこれら戦争犯罪企業は、被害者に謝罪するどころか抜けぬけと国家補償を受け取っていたのだ。そもそも、元軍人に階級に応じた軍人恩給を与え、戦犯として追及された者らを政界に復帰させ、日本帝国主義の根源である天皇制を温存した日本政府、それを許した日本社会全体が、侵略戦争の反省など意識の外だったと言える。
■ しかしGHQの追及も始まっていた。花岡事件の日本人関係者12人は45年10月に秋田刑務所に収監され、翌年3月には巣鴨拘置所に移され、BC級戦犯法廷で裁かれることになった。また3月24日には鹿島組社長の鹿島守之助が総司令部検事局に収監された。「日本建設工業会」は、もし鹿島守之助が戦犯として裁かれると他の企業にも追及の手が伸びると恐れ、弁護団に多額の謝礼を約束して解決を狙った。
結局、48年3月に絞首刑や終身刑などの有罪判決を受けたのは鹿島組花岡出張所の所長や補導員、大館警察署の所長ら6名だけだった。大館市では彼らの釈放を求める署名運動も行われ、56年までに全員が釈放された。そして大館市役所や秋田県の外郭団体に就職するなど「悠々と暮らしている」。(*7) 。
官憲に「国民党政府と通じているのではないか」と疑われ(*8) 、蜂起の責任を追及されていた耿諄さんは、終戦後は国際軍事法廷で証言するため待機させられたが、秋田刑務所で受けた拷問による後遺症のため、一時帰国し静養することを許可され、11月に上海を経由し故郷に帰った。(つづく)
*1 散り散りになって逃げた中国人たちは近隣の村々で捕らえられ、花岡に連れ戻される前に村役場の前に縛りつけられ晒しものにされた人々もいる。ある村では、6kmも離れた小学校(分校)にも、これを見物に来いという役場からの連絡があり、5年生以上の児童が連れ出された。
大人たちが「チャンコロのバカヤロー!」「ぶっ殺してしまエ!」などと罵声を浴びせる中、「中国人は日本人の敵であり、日本人を殺して食った鬼のような人間だということを頭から信じていた」児童たちも、教師の号令に従って「チャンコロの人殺し」と叫びながら駆け回った。その中に、秋田県山本郡藤琴村(現藤里村)出身で当時小学校5年生だった野添賢治氏もいた。
野添氏は劉智渠さんら花岡事件の生存者からの聞き取りの際、この体験を思い出し「私も加害者だったのだ」という自責の念に苛まれたという。(野添賢治/著 評論社「花岡事件の人たち」P-20)。
*2 「花岡事件の人たち」P-97
*3 野添賢治/著 御茶の水書房「花岡事件を追う」P-20よりの引用だが、B−29が飛来して中国人たちが終戦を知ったのは9月中旬だったとする資料もあり、正直なところ不勉強なので分からない。ご容赦を!
*4 この各事業所からの報告を、外務省の指示によって「東亜研究所」が実態調査したところ、虐待殺人を病死と偽るような内容が多かった。これは「現地調査報告書」にまとめられたが、外務省は折角のこの報告書を採用しなかった、という。「尊厳 半世紀を歩いた『花岡事件』」P-273
*5 60年5月3日の第34回衆議院で、外務省アジア局長伊関祐二郎氏が、田中稔議員の質問に対し、
「二十一年の三月に外務省管理局においてそういう調査を作成いたしたそうでございますが、そういう調査がございますと、戦犯問題の資料に使われて非常に多数の人に迷惑をかけるのではないかということで、全部焼却いたしたそうでありまして、現在外務省としては、そうした資料を一部も持っておらない次第であります」と答えている(「花岡事件の人たち」P-129〜130)。しかし1セット(5冊)を民間団体(東京華僑協会)が保存しており、93年に公開された。
それにしても「戦犯問題の資料に使われて非常に多数の人に迷惑をかける」とは、よくぞ言えたものである。戦犯として追及することが「迷惑をかける」ことなのか!
*6 「花岡事件の人たち」P-128〜129
*7 「花岡事件の人たち」P-130〜134
*8 耿諄さんの「訊問調書」は、連合国・中国の国民党軍・八路軍と交戦し空襲まで受けていた日本において、自分たちが逃走すれば「戦時下の労力が減退」し、自分たちを追走するに「捜索隊が出動し生産が著しく底下(ママ)」し、「日本国の敗戦となることを認識して居つたのであります」と記されている(杉原達/著 岩波新書735「中国人強制連行」P-77)。これは昨今の冤罪事件と同様に官憲の都合のいいように作成されたものであろう。
後に耿諄さんは「中国政府が(元国民党軍将校の耿諄さんに)日本転覆の任務を与えたのではないか」という検事の追及に対し、自分はそんな任務を与えられるほどの地位ではない、「(暴動は)ひとえに我が労工の命を救うためです」(同上P-77)と答えている。
たしかに花岡蜂起は日本軍国主義に抗するものだったと言えるが、耿諄さんが言うようにその目的は自分たちの命を救うものだった。これを反日工作であるかのように歪めようとしたのだ。同胞の人権のために闘うダライ・ラマやラディア・カーディルさんに対し「反中勢力に利用されている」「暴動の黒幕ではないか」などと邪推するのと同じ感覚である。
さらに蛇足だが、4人の補導員が殺害されたのでこの蜂起を犯罪行為のように述べる輩もいるだろうが、この劣悪な環境でいつ栄養失調・衰弱で死ぬか虐待で殺されるか分からない中国人にとって、これは正当防衛だったと言えるのではないか?犯罪組織に監禁され仲間が殺されていく状況で、組織のメンバーを殺して脱出するのは咎められることなのか?花岡蜂起は日本帝国主義という巨大な犯罪組織による拉致・監禁から脱出するための、当時の彼らにとって唯一の手段だったのだ。