2010年03月08日

花岡事件と その「和解」(3) 歴史を問い直す

 (2)のつづき。蜂起に失敗し同胞と共に「獅子ヶ森」に立てこもった耿諄さんは、迫りくる敵を前に自決を試みるも捕らえられた。大館の憲兵隊本部で軍事法廷にかけられた後、秋田刑務所に移され激しい拷問を受けた。刑事裁判の法廷で死刑を告げられたが、後の判決文では無期懲役になっていた(他の12人は懲役10年から2年、一人は釈放)。しかし、馬鹿げたことにこの判決日は1945年9月11日である。

 その1ヶ月前に侵略国家・日本は降伏しているのに、この侵略国が行った拉致監禁・奴隷労働に抗った者が、侵略国の法によって裁かれたのだ。百歩譲って、花岡蜂起で4人の補導員が殺された件は刑事事件として裁かなくてはならない、というのなら、「中国人労工」を劣悪な環境で酷使し多くを虐殺した鹿島組と日本帝国主義も裁かれなくてはならない。
 その後も耿諄さんに終戦は知らされず、中国人留学生が見舞いに来たとき初めて日帝が降伏したことを知った。46年4月、東京の中野の刑務所に移され、東京裁判で証言するため待機させられた。しかし秋田刑務所で受けた拷問の後遺症を療養するための一時帰国を許可され、11月に上海を経由して故郷の河南省に戻った。
 47年、再び訪日し法廷で証言するため上海に出向いたが、内戦による混乱のため訪日できず、南京や貴州で待機しているうちに「人民解放軍」が貴州を占領。帰ろうとしたが重慶で足止めされたため建設労働をして生活していた。襄城県霊樹村の妻の元に戻ったのは54年だった。
 その後、耿諄さん夫妻は人民公社で農業をしていたが、66年から文化大革命が始まり、耿諄さんは国民党軍の将校だったため「反革命分子」として糾弾された。「批判闘争会」でつるし上げされ殴られ、便所掃除、肥くみ、雪かきなどの労働を強制された。3人の子供たちもいじめられるため、耿諄さんは一人で離れ小屋で寝起きしていた。文革が終息すると耿諄さんの立場も回復し、84年からは地元の「政治協商会議委員」などを務めた。
 一方日本では、加害者への追及も中途半端に終わり歴史の闇に埋もれかけていた花岡事件を問い直す動きも起きていた。

 墓も作られず埋められただけの花岡事件の犠牲者の遺骨は、戦後掘り出されて寺に預けられたが、多くが山野に放置されていたが(*1) 、50年春、日中の諸団体によって花岡事件の犠牲者の遺骨発掘作業が行われた(*2) 。
 同年11月、東京の浅草本願寺で「在日華僑総会主催花岡殉難四百六十名烈士追悼会」が行われ、生存者の一人で戦後も日本で暮らしていた劉智渠さんも出席した。53年、「中国人捕虜殉難者慰霊執行委員会」が発足し、遺骨の送還事業が始まった(*3) 。
 時代は飛ぶが、ノンフィクション作家・石飛仁氏は劇団生活の傍ら花岡事件を研究していた。83年には劉智渠さん・李振平さんら4名の生存者に委託され、花岡出張所の補導員だった越後谷義勇氏(*4) と共に、鹿島建設に補償を求める交渉を開始した(しかし鹿島は誠意を見せなかった)。84年には「不死鳥劇団」を立ち上げ、花岡事件を題材にした「報告劇」を各地で上演した。85年には大館市では花岡事件40周年慰霊祭が行われた。(同じ日に大館市で石飛氏の劇団が上演し、生存者の劉智渠さんや李振平さんが出演した)。
 この慰霊祭は共同通信が報じ、「参考消息」(新華通信社による外国記事の紹介)にも掲載された。そしてある県政治協商会議の委員がこの記事を知り、耿諄さんに見せた。「これはあなたに関連する事件ではないか?」
 驚いた耿諄さんはかつての同志である劉さんに消息を伝える手紙を出した。劉さんはすぐ返事を書き、その年の11月石飛仁氏とともに河南省を訪れ、耿諄さんと再会した(*5) 。
 そして劉さんと石飛氏は、鹿島が「劉智渠ら3人の工賃は既に支払った。千人近い労工の工賃も既に耿諄に支払った」と主張していることを告げた。言うまでもなくそんな事実はない。石飛氏は耿諄さんに、鹿島と工賃の交渉をするために劉さんを全権代表として委任することを要請、耿諄さんは同意し委任状を書いた(*6) 。

 その年の暮れ、大館市の畠山健次郎市長と市議会議長の菅原勇治氏が連名で、耿諄さんを翌年の慰霊祭に招待する手紙を出したが、中国政府の出国許可が下りなかった。翌年、石飛氏と田中宏氏の依頼を受けた田英夫氏・土井たか子氏ら衆参の国会議員が日中両政府に働きかけ、耿諄さんの出入国の手筈が整った。
 1987年6月26日、耿諄さんは40年ぶりに日本の地を踏んだ。花岡で中国人から「小太君」と呼ばれ慕われていた越後谷義勇氏も既に60歳、耿諄さんを成田に出迎え、大声で泣き出した。耿諄さんの訪日中ずっと付き添っていたという。
 30日、耿諄さんは慰霊祭の前に市長を表敬訪問し、市役所で記者会見を行った。41年前の花岡での奴隷労働、とても重労働に耐えられないような食事を改善するように求めたら大根の葉っぱを出すような鹿島組の対応、そして病に倒れた同胞たちの「帰国のときは骨を持ち帰ってください!」という言葉を語りつつ号泣した。通訳も記者も涙を抑えられなかった。しかし加害者である鹿島建設はこれを黙殺した。(つづく)





*1 45年10月、鹿島組が「鉢巻山」の穴に埋められた遺体を掘り出そうとしているのをアメリカ軍が知り、アメリカ軍の監視の下で掘り出しと焼却作業が行われた。
 鹿島組は遺骨を納めた約400個の木箱を花岡の信正寺に持ち込み、「納骨堂を建ててくれなければ置くわけにはいかない」という住職の要請を無視して押し付けてしまった。
 その後全国各地で中国人の遺骨問題が表面化したので、49年11月に鹿島組は信正寺の裏に納骨堂を建て、高さ1m足らずの石碑に「華人死没者追善供養塔」と刻んだ。
 しかし近くの山野にはまだ遺骨が残っており、風雨に晒され地表に出てきた遺骨を野犬が食い荒らしていた。この有様に震撼した朝鮮総連の金一秀氏が東京華僑協会に訴え、日中両国の諸団体が遺骨の発掘と事件の調査に乗り出した。「尊厳」P-123〜124

*2 50年の発掘作業に参加したのは、留日華僑同学会、全日本自由労働組合、朝鮮人の団体、日本共産党。「尊厳」P-132より。遺骨発掘と送還事業は64年まで続いた。

*3 そのころ中国に留まっていた日本人を帰国させる事業が始まっていたので、日本人を迎えにいく船に花岡事件の遺骨を積めば遺骨送還もスムーズに行くはずだったが・・・日本政府はこれに躊躇し、結局遺骨は貨物船に積むことになった。「尊厳」P-136〜142

*4 補導員のうち越後谷義勇氏(当時19歳)と石川忠助氏(当時40歳)は他の補導員のような残忍さは無く、中国人たちに食べ物を分け与えることもあった。彼らは中国人から「小太君」「老太君」と呼ばれていた。中国人たちは蜂起に際しこの二人が非番の日を選んだが、事務所を襲撃すると意外なことに石川氏がいたので表口から逃がした。
 ところで生存者の一人の李振平さんの証言によると、この石川氏も二人の中国人を撲殺したことがあったという。「それでも石川さん、福田とか清水にくらべたら、はるかにいい人ね」「花岡事件の人たち」P-87より。
 終戦後石川氏は、秋田刑務所の前に立ち、通りすぎる耿諄さんに頭を下げたという。「世界」08年1月号P-269(人倫としての花岡蜂起)より。

*5 野田正彰氏(「世界」で花岡和解を批判する論考を行った)は、石飛仁氏の著作「中国人強制連行の記録」に、「花岡蜂起の指導者、耿諄氏を河南省に発見」という記述があることに「なんとも言えない違和感」を感じたという。
母国へ帰還し故郷で暮らしている人を「河南省で発見」と誇る感覚は、どこからくるのだろうか。強制連行を反省しない日本社会の暗い陰が、それを告発しようとする人にも歪みを作るのだろうか。石飛氏の名前が出たので、耿諄さんに「彼に河南省で発見されたそうですね」、と質問すると、「私はここで生まれ、ここに生きているのに」、と笑っていた(「世界」2008年2月号 P-276(虜囚の記憶を贈る 第6回 受難者を絶望させた和解)
 たしかに「発見」とは、まるでニホンオオカミやツチノコでも見つけたような感覚だ。俺もこういう表現を安易に使っていたことを反省したい。
・・・と思っていたら、現在でも石飛仁氏のサイトでは次のような表現があった。
【1985 (昭和60年) 「花岡事件」指導者耿諄発見。河南省で初会見(来日運動を開始)】


*6 「尊厳」P-169〜170

posted by 鷹嘴 at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 花岡事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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