(3)のつづき。耿諄さんが来日(1987年6月)しても鹿島建設は慰霊祭に参加せず、謝罪もしなかった。それどことか秋田テレビ局の取材に対し、ふざけたことに「(戦犯裁判記録によると)賃金は戦後支払ったことになっている」とほざいたのである。劉智渠さんの追及に対しても「賃金は支払った、昭和19年12月と20年1月に、耿諄に渡した」と述べていた。
耿諄さんは帰国後(8月11日)、「いつ、どこで、鹿島の誰が(蜂起後刑務所に収監されていた自分に)工賃を渡したというのでしょうか?聞いてください」という声明を各新聞社に送付。9月21日に毎日新聞に掲載された(*1)。
88年10月5日、林伯耀氏(*2)や劉智渠さんの一行が中国を訪問、開封で耿諄さんら生存者と面会した。そこで林氏は「内心の激情を抑えて」、鹿島が提示した賃金支払い証明などのコピーを一同に見せた(*3)。いったいどこからそんなものを出してきたのか?賃金などビタ一文受け取った憶えのない生存者は怒りに震えた。そして林氏による、鹿島に対し賠償を要求しようという提案に賛同し、林氏に委託書を書いた。
これと同じ時期、「中国人強制連行を考える会」(田中宏氏代表)が発足。そして89年12月22日、耿諄さんら生存者が北京に集まり、「花岡受難者聯誼準備会」が発足。鹿島建設に、
1. 謝罪
2. 「花岡殉難烈士紀念館」の建設
3. 賠償金(986人の被害者に対し一人500万円。本人死去の場合は遺族に)
この3つを求める「公開書簡」が完成した。
■ こうして鹿島建設との闘いが始まったが、新美隆氏・内田雅敏氏ら弁護士の追及を、鹿島の担当者の栗田躬範氏は老獪にかわし続けた(*4)。
しかし粘り強い追及によって、90年7月5日被害者側と鹿島の「共同発表」が成立。
賠償金や紀念館建設について具体的な言及はないが、「企業としても責任があると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意」を表明するものだった。
しかし鹿島はその後、「賠償も謝罪も難しい」「共同声明を報じた新聞記事の書き方はおかしい」(*5)、さらに「支払う金額は少なければ少ないほどいい」「記念館は絶対に造れない」などと表明(*6)。さらには出せる金額は供養料5000万円+αだと述べた(*7)。
■ 93年5月には外務省の秘密資料「華人労務者就労事情調査報告書」が発見され、鹿島を含めた企業が中国人を強制労働していた実態が明らかになった(前述したが政府はこの資料を「全て焼却された」として存在を否定していた)。それでも鹿島は態度を変えない。
94年7月には、事件の生存者、耿諄さんの息子の耿碩宇さん、新美氏、田中氏、林氏らが鹿島本社を訪れ交渉したが、依然として栗田氏は「当社だけが悪いのではない、賠償は出来ない、工賃の問題は存在しない」という従来の主張を繰り返した。生存者らの「日本に働きに来て給料を貰えなかった、という問題ではない!無理矢理連れてこられて虐待され殺されたのだ!」という怒りにも答えることはなかった(*8)。
10月、今度は耿諄さんも来日し新美氏らと共に鹿島を訪問した。ここでも鹿島の対応は変わらず、副社長の河相氏はぬけぬけと、
「責任の主体は国家にあるが、死者が出たのは残念なことだ。道義上の責任は認める」
「共同発表の中で当社は、謝罪という言葉で遺憾を表した。日本ではこういう言葉の使い方があることを理解してほしい」
などと言い放ったのである(*9)。こうして鹿島との交渉は行き詰った。(つづく)
*1 「尊厳」P-182
*2 京都生まれ、神戸在住の華僑。「物心両面で被害者たちを支え」ていたのだが・・・。
ちなみに耿諄さんが来日した87年の7月4日、大坂で「花岡蜂起42周年座談会」が行われ、この林氏や田中宏氏、新美隆弁護士(故人)氏ら、花岡運動の中心となった人物が顔を揃えた。
*3 鹿島は、
「中国の労工たちは合議の上の契約工だ。国際BC級裁判は間違っている」
「記録があり、元旦には労工たちに肉を食べさせたし、死人が出ればその遺族には救済金を出している。それに毎月月末には工賃が支給されている」
などと主張し、「労工の契約書、工賃の支払い、遺族に送ったという救済金の記録」も準備していた。給料を貰っていたのなら、中国人たちはその金でまともな物を食べていたと思うが?「尊厳」P-188〜190
*4 90年1月の最初の交渉で栗田氏はまず、「私は耿諄、劉智渠お二人の間に何が起きたか知りませんが・・・」と切り出し、追及を始めた。
@ 85年11月、石飛仁氏が仲立ちし、劉智渠さんが全権代表となって鹿島に工賃を請求することになった。耿諄さんも委託した。
A しかし現在(90年1月)、耿諄さんは新美氏に委託している。
B そういえば86年8月、新美氏と内田氏が劉智渠さんに委託されて当社と工賃の交渉をしたことがあるではないか。「あなた達自身に矛盾があるじゃないか?」
つまり栗田氏は、「あなたたちは【耿諄・新美隆・内田雅敏・田中宏・林伯耀 派】と、【石飛仁・劉智渠・李振平 派】に分裂しているじゃないか?」と指摘したのである。「尊厳」を読む限り「何が起きたか」分からないが、これは鹿島にとってつけ入れどころとなった。
それにしても、当たり前のことだが企業とは利益を守るために、滅多なことでは非を認めたり譲歩したりするものではないことが、この栗田氏の言動を見ているとよく分かる(俺のような賃金奴隷はこういう資本家に飼われているわけだな)。それはともかく新美・内田両弁護士はこの煮ても焼いても食えないような男を相手に攻めあぐねていたようだ。「尊厳」P-220
*5 90年7月、「共同声明」の直前に社長の座を退いた鹿島昭一氏は朝日新聞の取材に対し、「あの時代だから鹿島だけの問題ではない、賠償も難しい」「日商会の石川六郎会長が謝罪に反対している」「新聞の謝罪報道記事と鹿島の本意は少し行き違いがある」などと答えた。また鹿島のように強制連行された中国人を働かせた35の企業からの圧力もあったらしい。「尊厳」P-244〜245
余談だが、「日商会の石川六郎会長」とは誰かと思ってググってみると、鹿島の元社長だった。
さらにウィキの鹿島建設の項目を見てみると、2009年10月、長崎に於ける土木工事で原爆被災者の遺骨を不法投棄していたことが明らかになったという。
鹿島の悪行は花岡事件に留まらない。とんでもない犯罪企業だな。こんな鹿島から政治献金を貰っていた(という疑惑のある)小沢一派をかばう連中の気が知れない。
*6 90年11月、当時の鹿島の副社長・村上光春氏が新美氏らに対し、「鹿島は民間企業に過ぎませんから、あなた方の要求金額は出来るだけ抑えて、少なければ少ない方がいいと思います」「記念館の設立は絶対に認められません」と告げた。
鹿島のこうした態度には石飛仁氏の動きが背後にあったと思われる。この二週間前には、鹿島の栗田氏が新美氏に「劉智渠さんから手紙が来た。新美・内田の代理権を取り消すという内容だ。消印は札幌、筆跡から石飛仁氏が書いたと思われる」と告げていた。横から出てきて勝手に交渉していたのだ。もっとも石飛氏にとっては、新美たちこそ後から首を突っ込んできたクセに、と思っていたかもしれないが。
前掲のように石飛氏は少なくとも83年から鹿島との交渉を行っていたようだ。交渉の主導権を奪い返したかったのだろう。それに石飛氏のスタンスが鹿島にとって好都合だったようだ。石飛氏は、賠償請求は72年の日中共同声明に反すると考えていたのである。
しかも石飛氏は「耿諄らのやり方は田秀夫議員や田中宏、林伯耀、新美隆らに示唆されてやったことで、それは『日中共同声明』に違反するものだ」と攻撃していたという。「尊厳」P-249〜250、及びP-259〜260
*7 91年6月、栗田氏が新美氏らに、石飛氏と鹿島の合意内容を提示。
「鹿島は改めて謝罪を表明する、慰霊塔を建て永代供養料5000万円+追加額を出す、共同声明では石飛と鹿島の交渉によってこの決着を見たことを述べる」
というものだった。さらに栗田氏は、
「追加額には大きな希望を持つべきではない」
「石飛氏はこの合意内容に満足している。かつ鹿島は、これで花岡問題は解決したと受け止める」
と述べた。勝手に解決したことにされても引き下がれるわけがない。「尊厳」P-284
*8 「尊厳」P-287〜288
*9 「尊厳」P-290〜291。ちなみに交渉の翌日、「中国人強制連行を考える会」が都内で「10・26集会」とデモを行い、鹿島本社前でシュプレヒコールをあげたという。
2010年03月09日
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