2010年03月19日

花岡事件と その「和解」(5)法廷闘争

 (4)のつづき。
 1995年、阪神大震災や地下鉄サリン事件があり、俺は某工場で将来に不安を感じながら非正規雇用労働者として働いていた年。新美隆・内田雅敏両弁護士は連名で、鹿島建設に花岡蜂起50周年慰霊祭に参加して欲しいと手紙を出した。
 しかし鹿島に黙殺されたため、この両氏や田中氏らは北京で耿諄さんと面会し、民事訴訟を提案。耿諄さんは同意し、「訴訟委託書」を書いた。
3月22日、新美・内田氏は鹿島に対し、態度を変えなければ提訴の用意があることを通告。これも黙殺されたため、3月30日、鹿島に賠償を求めて提訴することを発表した。

 6月28日、耿諄さんら11人の生存者が原告となり東京地裁に提訴。鹿島組(当時)の行為は、ハーグ陸戦条約が定める俘虜に対する人道的待遇、及び安全配慮義務に違反していたとして、原告一人に550万円(弁護士費用込み)の賠償を求めるものだった(*1)

 12月20日、第一回口頭弁論がおこなわれた。被告となった鹿島は、
 「日中共同声明の第5項によって中国は賠償を放棄している」
「当時日中は戦争状態であったから、これは『高度の政治問題』であり、裁判所で法律上のことを争うようなものではない」
「損害賠償要求の時効20年を過ぎている」

 と反論。
 しかし、このブログでも口を酸っぱくして説明したが、日中共同声明は国家間の賠償を放棄するもので、個人の請求権まで放棄したものではない(もっとも最高裁は2007年4月、最高裁小法廷は個人の請求権も放棄されている、という噴飯物の裁定を下したが)。
 また時効20年についても弁護団が「被侵権者が自分の侵害されたことを知り、かつ起訴の能力があって起訴しなかった場合をいう」と反論した(*2)
 たしかに、日中国交回復は1972年だから終戦からとっくに20年を過ぎている。花岡の生存者らがどうやって起訴できたろうか?
 鹿島は法廷でも相変わらず「中国の労工は軍隊によって連行されたのではない、金を儲けるために自発的に企業契約に署名した日本にきた」という主張を変えなかった。鹿島の弁護士も「当時中国人に対する食料配給率は一般日本人と同じか又はそれ以上であり、補導員が中国人を虐待したのは当時の社会が鉄拳制裁の時代だったからだ」などと言い放ったのである(*3)。よくもまあ、嘘八百を並べて開き直れるものである。

 しかし地裁は証人審査も行わず、97年2月の第7回の法廷で突然結審を告げ、そして12月10日「訴追期間20年を過ぎている、安全配慮義務違反は戦後の概念だ」として原告の請求を全て却下した。
 原告団は直ちに控訴し、98年7月から控訴審が行われた。ここでも鹿島は「中国人との個別の雇用契約など結ばなかった。当時の華北労工協会と契約して中国人労工を受け入れた。だから中国人から同意を得る必要は無かった」とほざいたのである(*4)
 このように鹿島は一向に態度を変えなかったが、99年6月第6回口頭弁論のあとの報告会で新美氏が、原告・被告が和解の協議に入る準備があることを明かした。

 翌年11月、鹿島建設との間に「和解」が成立したが、これは原告らを深く失望させるものとなった。(つづく)




*1 提訴後、耿諄さんは要求する賠償金は原告11人分だけのものであることを知り激怒。
 「あなた方の問題がうまく解決すれば他の人の問題も解決しやすい」となだめる新美氏に対し「私が欲しいのは986人全員のことです、もし11人が勝訴したとしても、金を受け取ることは許しません。全員が解決してから私たちも受け取るのです」と述べた。
 その後、耿諄さんは「訴訟の要求は986人全員の賠償要求です」と口頭で声明を出した。
 弁護団にしてはこれしか方法が無かったのだろうが、提訴に入る前に原告各人に訴訟の内容を説明するべきではなかっただろうか?しかし弁護団はこういう態度を改めることなく、後に大きな問題を残すことになる。「尊厳」P-309

*2 「尊厳」P-318

*3 このとき弁護団の内田氏は「1990年7月5日の共同発表で鹿島は企業責任を認めたが、この被告準備書面は共同声明を全面的に否定している」と指摘した。こうして鹿島は、共同発表後の対応と法廷での主張によって、完全に共同発表での謝罪を覆したのである。「尊厳」P-321〜322

*4 「尊厳」P-342

posted by 鷹嘴 at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 花岡事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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