2010年03月23日

花岡事件と その「和解」(6)尊厳を守り・・・

 (5)の続き。1999年8月、弁護団の新美隆・内田雅敏の両氏、田中宏氏、林伯耀氏らが訪中。北京のホテルで王起禎氏(北方工業大学・副校長)を交えて、耿諄さんら原告へ「和解」について説明を行った。

 新美氏は「鹿島と和解協議に入ることを裁判長が同意した、これは画期的な意義がある」と、林伯耀氏は「鹿島が支払うべき補償金の管理は紅十字会に委託する方針だ」と説明。王起禎氏は和解の内容について、
 「鹿島の考えは、一つには和解で法律的な責任を負わない、二つは、賠償とか補償とかはいわない、三つには986人全員の問題を一度に解決する」
 「賠償とか謝罪とかの名義では金を出さない、1990年7月5日の『共同発表』でもう謝罪して罪を認めているから、もう一度謝罪の必要はない、ということです」

 と説明した。
 これに対し耿諄さんは、
 「では、協議の中に1990年7月5日『共同発表』の基礎の上で、とはっきり書くべきだ。同時に『共同発表』の全文を付記として乗せ、政治的に罪行を認めたとすべきだ!」
 「必ず補償して誠意を表すべきだ」

と釘を指した(*1)
 各人への補償額について、王氏は「アメリカでは(日系アメリカ人への国家賠償が)2万ドルだったので、本件も200万円以下ではだめだ」、耿諄さんは「200万円、あるいはそれ以上なら良い」と述べた(一人200万円なら全員で約20億円となる)。
 それに対し林氏は「国家賠償ではないので、200万円以下ではだめとは言えないだろう」と主張。遺族の孫力さんは「無制限に譲歩するべきではない、あまり少なくしたらバカにされるし、犠牲になった先輩烈士に申し訳ない」と反論(*2)
 結局、新美氏から「日中は遠いので、全権委任してほしい」と頼まれ(*3)、原告全員が委任状にサインした。

 そして2000年4月21日、東京高裁が「和解勧告書」を出した。90年7月の「共同発表を再確認」し、鹿島は「中国紅十字会に対し金五億円を信託」し、「控訴人らはこれを了承」せよ、という内容だが、鹿島が行うべき謝罪や記念館建設については特に言及がない。さらに「のちの11月29日、実際にかわされる和解条項に入っていた重要な文章が入っていない」(*4)
 その5日後の4月26日、新美氏、田中氏、林氏らが訪中し、北京で耿諄さんら原告と会議を行った。耿諄さんは「共同発表」における三つの要求のうち、賠償額については譲歩できる、記念館建設は希望している、謝罪については「最も重要で譲歩出来ない」と述べている。「鹿島が幾ら金を出しても我々民族の尊厳まで買い取ることはできないから」(*5)
 そして4月30日、原告らは「和解勧告書の内容」に同意する署名と捺印を求められ、応じた。

 8月26日、新美氏、田中氏、林伯耀氏が再び訪中し耿諄さんと面会した。新美氏は、「花岡受難者が日本の慰霊祭に来たとき、住所として使用する」という目的で新しい家を買い、勝手に「耿諄館」と名付け、室内には耿諄さんの書を飾った・・・と誇ってみせた。耿諄さんは、
 「暴動はみんなでやったことです。耿諄一人が栄誉を受けるわけにはいきません。もし本当に作りたいなら『花岡館』とすべきでしょう」
 と忠告した。
 耿諄さんは「この時すでに何かを予測したようだった」。その日の午前中、「大河報」が開催した「花岡暴動55周年座談会」で耿諄さんは、
 現在裁判所は和解方案を提出した。私たちはこれに同意したが、原則は絶対に守る。記念館は是が非でも建てる。金額は下げてもいいが、最低でも20億円とする。私は中国人として、我が中華民族の尊厳を守る。彼らがこれに同意しなければ、最後まで闘うまでだ!
 と述べていたのである。(*6)。和解を急ぐ弁護団の方針は、鹿島の謝罪を求めている生存者の願いから決定的にズレていたようだ。
 午後の耿諄さんと新美氏の面談で、次のようなやり取りがあった。

耿諄 「もし裁判に負けたら、弁護団にどんな損害があるのですか?」
新美 「いや、何の損害もない」
耿諄 「もし、弁護団にも何の影響も無いのなら、裁判は負けよう!たとえ負けても妥協はしません!歴史的に私たちが踏みとどまるなら、我々は道義の上では勝利したことになります」 「我々は絶対に妥協してはならない!もし妥協してしまったら、我々は上告できません」
新美 「日本の法律は暗い」
耿諄 「日本の法律が暗いのだから、たとえ裁判で敗訴しても、政治的、歴史的には勝訴したことになり、百年後でも私たちは彼らの罪行を暴露する権利があるのです」「我々は絶対に屈服しません。中国人には中国人の尊厳があります。あなた方が『花岡事件』を支持したのは正義感からでしょうが、もし妥協したらあなた方だって不名誉なことでしょう」

 新美氏は沈黙したまま答えなかった(*7)。耿諄さんが求めていたのは金銭でも、法廷での勝利でも、和解をうまくまとまることでもなかった。強制連行・奴隷労働を受けた自分たちの、虐殺された同志たちの尊厳を守ることだったのだ。これを弁護団は理解していなかった。

 11月11日、和解額(5億円)を知った旻子氏(「尊厳」の著者)から電話が来たときも耿諄さんは、
 「私の意見を言うなら、原則を変えることはできません。謝罪、記念館の建設、精神的な補償、最低でも20億円です」
 と告げた。
 「私たちが出した三項目の要求は決して簡単に変えてはならないのです。これは中国人の尊厳と中国人の面子です。たとえ裁判に破れてもこれは歴史的なもので、歴史的に踏みとどまる事が出来れば良いのです!」
 そして一息いれ、トーンを落とし次のように語った。
 「林先生や新美たちは長年の間、心血を注ぎ精力を尽くしたのだから、それを考えれば少しばかりの譲歩は仕方がないでしょう。だが大きく譲歩してはなりません。譲歩が大きすぎれば我々が屈服したことになります」
(提訴以来、多くの原告が亡くなったが)「私が一日生きている限り、一日原則は守ります。私の口から絶対に妥協は言いません。あの暴動は中国人の尊厳の為だったのですから。必ずこの尊厳は守ります」(*8)
 和解成立のためにズルズルと要求を後退させたら、耿諄さんにとってこの十数年間、何のために闘ってきたのか意味がなくなる。「受難者」たちは何のために絶望的な蜂起を闘い、何のために戦後の鹿島と闘ってきたのか意味がなくなる。最低でも鹿島に謝罪させなければ何の意味もない。
耿諄さんが気にかけているように弁護団や支援者も十数年間無報酬で関わってきたのだが、彼らは根本的な意味が分かっていなかったようだ。

 11月16日、耿諄さんの下に弁護団から通訳を介して「和解協議がまとまったから北京の会議に来るように」という電話が入った。記念館は建設されないことを知ると「それはだめだ。記念館は絶対に建てろ!」と告げた。そして記念館の建設を強く希望するとともに「聯誼会」からの引退を示唆する、「会に告げる」と題する手紙を書いた。(*9)
 新美氏は、この耿諄さんの固い意思に「とても焦ったようだ。もし記念館の設立に拘ったら和解は成立しない」(*10)
 そして11月18日、林氏が中国政府の外事(外交)部門の元幹部とともに北京で耿諄さんに面会し、(記念館建設は)「断念するように強く説得した」。「新美先生はこの事で悩み、心臓病が悪くなった」とも告げたという。「いつも他者の苦しみを共に苦しもうとする耿諄さんの性格を知って、背後から迫ったのだった」(*11)
 「労工大隊長」という他の捕虜より優遇され得る立場にありながら、同胞の命を救うために蜂起の先頭に立ち、拘束後は全ての責任を負い、そして高齢で病気がちな身を押して同胞の尊厳のために闘ってきた耿諄さんである。賠償金は986番目に受け取ると公言している耿諄さんである。弁護団の長年の努力に感謝している耿諄さんである。林氏は、そんな耿諄さんだからこそ新美氏の健康上の問題を持ち出せば引き下がるだろうと計算したのだろうか。その後耿諄さんは記念館建設を口にすることはなかったという。

 翌日、新美氏が原告団に対し、「鹿島から中国紅十字会に信託される5億円は管理委員会によって『中日友好を基礎として基金運用』を行う、管理委員会は鹿島から1人、田中宏、林伯耀、新美隆、紅十字会から一人、中国側から有識者一人の合計5人とする」などの説明を行ったが、和解の詳しい内容が説明されることはなかった。
 ここで耿諄さんが、「新聞に告知して受難者に知らしめる、紅十字会は受難者とその遺族を探し出し、基金のうち1億5000万円を受難者全員に分配し、自分は最後に受け取る、受け取りに出向くための交通費は基金から負担する、耿諄はもう年をとり、病気がちなので基金会の中での職務は辞退する」・・・ことを表明した。
 被害者の遺族の孫力さんが、基金管理委員会に被害者本人が一人も参加できないことを追及したが、新美氏が「和解が目前なのです。幾らかの問題は和解成立後に討論しましょう」と言葉を遮った。(*12)
 そして耿諄さんは一同に薦められ、筆を取った。
 為花岡事件和解成功 献言
  討回歴史公道
  維護人類尊厳
  促進中日友好
  維護世界平和


(花岡事件の和解成功に
  歴史の公道を取り戻し
  人間の尊厳を守り
  中日友好を促進し
  世界平和を推進しよう)(*13)
 新美氏の勧めで一同が署名し、記念撮影をした。

・・・2000年11月29日、東京高裁第17民事部はこの裁判の「和解条項」を発表した。同時に鹿島建設はHPに、この和解についての「コメント」を発表した。
 これらの内容を知った耿諄さんは驚きのあまり倒れ、病院に担ぎ込まれた。(つづく)




*1 「尊厳」P-345〜347

*2 「尊厳」P-347

*3 「世界」2008年2月号 P-278(虜囚の記憶を贈る 第6回 受難者を絶望させた和解 野田正彰)

*4 前掲「世界」2008年2月号 P-277

*5 「尊厳」P-353

*6 「尊厳」P-355

*7 「尊厳」P-355〜356

*8 「尊厳」P-356

*9 「尊厳」P-357

*10 「尊厳」P-358

*11 前掲「世界」2008年2月号 P-280
 野田氏は、このときの面会で林氏は耿諄さんに二種類の圧力を加えたのではないかと推測する。
 「新美先生は心臓病が悪くなった」と情に訴えると共に、共産党幹部を同行することで無言の圧力を加えたのではないか?と。
 国民党軍の将校だった耿諄さんの文化大革命時代の生活については過去ログ参照。

*12 「尊厳」P-360〜363

*13 前掲「世界」2008年2月号 P-280

posted by 鷹嘴 at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 花岡事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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