2000年11月29日、東京高裁第17民事部で争われていた花岡訴訟控訴審は、控訴人・被控訴人双方の合意によって終結した。しかし「和解条項」では被控訴人の謝罪が示されず、法的責任も否定されたものとなった。要約すれば以下のようになる。
控訴人(原告の11人の受難者及び遺族)と被控訴人(被告の鹿島建設)は1990年の「共同発表を再確認する」。このように、鹿島には謝罪も賠償も行わせず、原告側には信託金を受け取りと引き換えに全ての要求を断念させ、かつ他の受難者からの訴えも阻止せよ、と強制するものだった。
ただし鹿島は、“共同発表は鹿島の法的責任を認めるものではない”と主張している。「控訴人らはこれを了解した」。
被告は受難者に対する「慰霊等の念の表明として」、5億円を信託する。この金額は「慰霊及び追悼」や受難者に対する支払いに用いられる。
この和解によって、花岡事件は全て解決した。「一切の請求権は放棄」された。
この原告以外の者から鹿島に対する補償請求が起きた場合、原告らは「責任をもってこれを解決し」、鹿島に「何らの負担をさせないことを約束する」。
しかも1990年の「共同発表」は法的責任を認めるものではない、という新解釈が付け加えられ、これを受難者が「了解」したことになっている。いったい原告の誰が、そんなことを「了解」したのか?
■ また和解発表の同日、鹿島建設はHP上に「花岡事案和解に関するコメント」を発表した(アーカイブ)。これも要約する。
戦争末期に日本政府の決定によって中国人が移入され、花岡でも多くの中国人労働者が働いていたが、戦時下ゆえ厳しい環境だった。強制連行された中国人にまともな食事も与えず重労働させ、激しい暴力を加え、418人の命を奪った戦犯企業が、よくもまあ他人事のようにほざけるものだ。それはともかく鹿島が述べるようにこの5億円は補償や賠償ではなく、訴訟を終わらせ受難者を黙らせるための解決金に過ぎなかった。許しがたいのは受難者たちの弁護団も、鹿島や裁判所と結託してこの結末を導いたことである。
しかし当社は「誠意をもって最大限の配慮」をしていたが、「多くの方が病気で亡くなるなど不幸な出来事があり」、「深く心を痛めてきた」。
当社に法的責任はないが、裁判所からの命令に従って基金を支払い、和解とする。
なお、この基金は「補償や賠償の性格を含むものではありません」。
弁護団の新美隆氏はこの和解条項を「日本の戦後補償の和解例において画期的なもの」と自画自賛し、各紙も「画期的な意義を持つ」(2000年11月30日朝日新聞社説)、「このような形の解決は、今後同例の解決に模範的な手本を作った」(11月29日毎日新聞夕刊)と褒め称えた。それにしてもこれのどこが「画期的」だというのか?(*1)
■ 受難者たちは弁護団に裏切られたことを悟った。このような内容の「和解」になることを知らされていなかったのである。もっとも事前に説明らしきことも行われたようだが。
2000年11月29日の「和解」成立直前の11月18日と19日、弁護団は訪中し耿諄さんら原告と面会し、18日の会議で「和解」の内容について弁護団の新美隆氏が説明した。日本語で。中国語での通訳も行われたが正式な翻訳ではなく、肝心の「ただし、控訴人らはこれを(鹿島の法的責任に法的責任が無いことを)了解した」という部分は訳されていなかった。和解の内容が中国語に翻訳して配布されることも無かった(*2)。
耿諄(こうじゅん)さんは2007年3月に野田正彰氏と面会した際、次のように語った(*3)。
日本の弁護士を正義感のもつ人、鹿島を訴えることのできる勇気のある人と信頼していた。金額は減ったが、三つの要素の基本は合意されると聞いていた。しかし和解文を見せてくれることはなかった。「労工」の隊長という責任を負わされ、そして蜂起を率い多くの同胞を失った耿諄さんにとって、最も鹿島に求めていたのは賠償金の額でも記念館建設でもなく、謝罪だった。それすら鹿島建設・日本の法廷・自分の弁護団の三者によって裏切られたのだ。
その後、文章を見て、怒りのあまり倒れ、しばらく点滴を受けていた。三つの要素、すべてを否定されていた。責任なし、記念館は造らない、五億円も賠償でないとなっている。すべて裁判は失敗した。私たちは裏切られた。「屈辱的和解」に反対すると何度も言ってきた(01年8月の表明。03年3月13日、「厳正声明」の抗議文)。
だが中国紅十字はカネを受け取った。他人がカネを受け取るのは自由だが、私は認めない。新美、田中は中国人を騙した。五億は寄付だった。私たちは謝罪を求めていたのに、侮辱した。新美は中日を移動し、大変だと言っていた。私たちは最後まで信じていたのに。
このように弁護団は原告への詳しい説明を怠り(というか隠して)訴訟を終結させた。ところで弁護団は99年8月、原告に和解交渉の全権委任状にサインさせ、さらに翌年4月には「和解勧告書の内容」に同意する署名と捺印を取り付けている。これでは原告があとから抗議してもどうにもなるものではない。法律の専門家だけにこういうところは抜け目が無いようだ。
こうして80年代半ばから始まった鹿島建設への追及は終結した。無理矢理終わらせられた、と言うべきだろう。弁護団と支援者は花岡事件の受難者を裏切ったのだ。それに受難者を欺くような行為は和解条項の説明を怠っただけではない。(つづく)
*1 産経新聞の社説「花岡事件の和解――主張:戦後賠償ではない解決の方法」は、「花岡和解」の構造をはっきりと述べている。
戦時中秋田県鹿島組(現在の鹿島建設)花岡鉱山で、中国労工の暴動によって多くの死亡者が出た「花岡事件」訴訟で、中国人遺族と鹿島との間で和解が成立した。和解の内容は鹿島が五億円を出資して「花岡平和友好基金」を設立し、被害者に「救済」が行われることになった。この方法は、無益な争いを避けた現実的な解決方法だと思う。「中国労工の暴動によって多くの死亡者が出た花岡事件」とはどういうつもりか。チベット・ウイグル弾圧の犠牲者に対しても同じことが言えるのか?どうにも人間の心を持ち合わせていないようだ。
今回の和解解決が将来同類の戦後補償の審理に道筋を示すことになり、戦後処理に第一歩を踏み出すことになった。慰安婦問題や南京事件などの損害賠償の請求訴訟を巡って、さらにはアメリカの元捕虜が日本企業に対して賠償を求めて提訴していることなどに、あまり過大な期待をしないほうがいい、とのメッセージとなった。
基金設立に出資したことについては、鹿島側は補償や賠償の意思ではないと言っているが、これは極めて重要なことである。戦後補償問題に関しては、サンフランシスコ条約で既に決着している。しかも中国との間に関係する事項は「中日共同声明」で解決している。つまり、今回の和解は決して戦後賠償および戦後補償問題についてのこれまでの判断を変えていないのだ。
それはともかくこの社説が指摘するように、「花岡和解」は賠償でも補償でもなく、「これまでの判断を変え」たものではない。つまり戦争被害者に対し謝罪や賠償する責任など無い、という日本政府・加害企業の立場を守るものであり、加害責任を曖昧にし、かつ日本の弁護士や支援者が自己満足を得るための「無益な争いを避けた現実的な解決方法」としては、「画期的」なものだろう。表向きは加害責任を追及してみせる朝日や毎日と違い、否定的な立場にあるサンケイだからこそこの虚構を指摘できたのだろう。以上は「尊厳 半世紀を歩いた『花岡事件』」 P-374〜375より引用。サンケイの社説については掲載日不明。
*2 18日の席上、新美氏は和解条項の「ただし・・・」の部分について「法的責任を鹿島は認めたくないので、その点は、まあ了解する」 「但しの内容?法的責任を、この鹿島は認めたのは法律上の責任ではないということについては、こちらは了解することです」と日本語で説明を行っていた。通訳も行われたが肝心の「こちらは了解することです」という部分は訳されなかった。これらの説明は耿諄さんが隣の中国人と話していたり場内がざわついている間に行われたのである。日本と中国の支援者らは誰一人、受難者に核心部分を伝えなかった。「世界」2009年9月号特集記事「花岡和解を検証する」(有光健、内海愛子、高木喜孝、岡本厚)掲載の、当日の映像記録から書き起こされたデータ(P-294)。岡本厚氏は「世界」編集長である。
なおこの「検証」は18日の会議について、
通訳は遂語訳されていない。特に「公訴人らはこれを了解する」との重要な一句は通訳されていなかったことも確認された(P-289)としながらもその直前に、
前記のとおり、弁護団(新美弁護団長)は、この11月18日の中国紅十字会及び耿諄氏に対する説明・質疑応答において、和解条項全般について、特に和解条項第一項を但し書きを含めて逐次日本語で説明していたことが確認される。弁護団が和解条項について故意に説明を省略した事実は認められない。(P-288)と述べている。
日本語を理解できない原告に対する日本語による説明に、何らかの意味があるだろうか?しかも「重要な一句は通訳されていなかった」ことが「故意」ではないのなら、何なのか?「故意」以外に、説明が省かれた原因があるというのか?こんな簡単なことすら明言できないこの記事は何を「検証」しようというのか?結局は「和解」の弁護が目的だったのかと思わせる。
ちなみにP-284には次のような記述がある。
なお、「裁判上の和解」とは何かを確認しておきたい。「裁判上の和解」とは、裁判において判決によることなく、原告と被告が裁判所の勧告や仲介を得て双方が譲歩して、一定の解決案を受け入れることで裁判を終結させることである。最終的に、裁判所が和解条項を記載した和解調書を作成し、和解調書は判決文と同じ法的効力を持つ。「判決文と同じ法的効力」を持つ和解条項の案を原告に説明しなかったことは、弁護士としての職務を放棄したようだものだろう。引用を続ける。
双方が譲歩することが必要であるから、和解条項においては、双方の主張はそれぞれ十分に満足できないのが通例である。双方は譲歩した分、不満を残すことにもなる。不満が大きく譲歩できない場合は、裁判上の和解は成立せず、判決の言い渡しとなる。要するに・・・謝罪するつもりはないが少しは金を出してやってもいい、ただし「賠償」ではなく「基金」という名目で・・・という加害者側の要求を呑んで裁判を終結させるのが「裁判上の和解」である、ということだ。花岡訴訟の如き「裁判上の和解」もあり得る、ということだ。「和解」の実態を明かす前に予防線を張ったつもりだろう。
したがって、「裁判上の和解」の過程は、裁判所を間にした原告と被告の交渉ということもでき、「裁判上の和解」の成立は、その交渉の駆け引きと妥協の結果ということもできる。そこでは往々にして原告と被告双方の誠意というより、多くの場合金銭的な条件如何が重要視される傾向にある。しかも、金銭の意味(法的な意味も含めて)も双方の解釈がまったくことなったまま「裁判上の和解」が成立することが少なくない。「裁判上の和解」と「和解」という言葉の一般的意味をそのまま重ねることは根本的な誤解の原因となる。
しかし、「金銭の意味も双方の解釈が全く異なった」決着の方向が、「和解」の発表まで原告に説明されない、というケースも「少なくない」のか?
もっとも、通常の民事訴訟なら加害者の態度はともかく賠償金などを引き出せれば原告も納得するかもしれない。しかしこの訴訟の原告たちが最も望んでいたのは金銭ではなく、加害者である鹿島の謝罪である。弁護団も「世界」編集部もこれを理解していない。いや理解していないフリをしているだけだろう。
*3 「世界」2008年2月号 P-282(虜囚の記憶を贈る 第6回 受難者を絶望させた和解 野田正彰)
1.野田さんに対する田中宏の反論の後、何か公にされた議論はあるのでしょうか。
2.5億円の「解決金」の行方が定かでない(原告に行ったお金が少ない)という点は、その後、どのように検証されたのでしょうか。
3.内海愛子さんたちはその後、何か発言しているのでしょうか。
1については、「世界」08年5月号の田中氏の反論に対し、野田氏は同誌08年6月号で反論しております。
2については、野田氏の追及に対し田中氏、内田氏らは明確な説明(あるいは反論)を行っておりません。野田氏は嘆いております。
3については存じません。
残念ながらURLが長すぎてコメント欄に投稿しようとしてもはじかれてしまいますが、
「西松花岡和解」で検索すればすぐ出てきます。