2010年07月11日

花岡に行ってきた

 つ、ついに6月29日〜30日、花岡事件のあった地・秋田県大館市に行ってきた!夜行バスで。いちばん安いからな。

 28日は夜勤明け。バスの中で眠れなかったらやばいと思ったけどやっぱ昼寝しちゃった。夜、近所の食べ放題の焼肉屋に行ったがひでえ肉だった。安楽亭にすりゃよかったよ。ちょっと休んでから大宮に向かった。
 駅から少し歩いたところの大館行きのバス停、随分早く来ちゃったな。さすが大宮、こんな時間なのに人が多いなあ。蒸し暑くて汗ばんでくる、なんかイヤな夜だ。前夜の職場での大チョンボが頭をよぎったりして、なんか不安になってきた。俺、ホントに花岡に行っちゃっていいんだろうか?最大20日間帰ってこれないかもしれんぞ?とかね。実は同志から、我々を快く思わない連中が挑発してくるかも、と警告されていたのである。俺、くじ運悪いからなんかトラブル起きれば、初めて夜行バスに乗って初めて秋田に行って初めて逮捕の初物づくし?
 出発時間にちょっと遅れてバスがやってきた。池袋から乗車していた同志ABCと合流、しかし俺は予約がギリギリだったんで席はバラバラ、想像していたより狭い。出発してしばらくして消灯時間になり、全てのカーテンが閉められた。運転席と客席の間さえカーテンで仕切られてしまった。しかもSAに止まっても運転手の交代だけで客は外に出ちゃ駄目だとよ。まるで護送車だね?こりゃキツイなあ。半分地下みたいなトイレは飛行機のみたいに狭かった。ほどなく東北道に入ったが、ウトウトしてきても段差を超える衝撃で目が覚める。そのうち眠れたけどね。

 明るくなったのでカーテンの隙間からのぞいてみると、“みちのく”らしい雄大な風景が広がっていた。そして大館バスターミナルに到着。疲れが取れたほどじゃないけど意外と眠れたな。
 大館駅周辺よりバスターミナル周辺が賑わっている、とのこと。賑やかって言っても関東の人間の感覚で語るべきじゃないけどな。電車の本数が少ないから駅前も寂しいんだって。バスターミナルと駅は歩きじゃ無理なくらい離れている。
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 先行していた同志と合流し、朝飯を食ってしばらく時間を潰してから、タクシーに相乗りして花岡平和記念館に行ってみた(大館市の中心部からはかなり離れている)。4月17日にオープンしたこの記念館は、「和解」を成立させた弁護団と支援者、つまり内田雅敏氏・林伯耀氏や、田中宏氏が代表を務める「中国人強制連行を考える会」の強い影響の下に造られたらしい。

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 花岡川の畔の、美術館とかそれ系?の雰囲気の建物。秋田杉を利用して建てられたという。

 入場料は無料、金・土・日・月のみ開館。6月29日は火曜だったが慰霊式の前日なので特別に開館になったんだと思う。運営費の募金箱があったので100円だけカンパした。受付の方に「東京から来ました」というと「考える会の方ですか?」と言われたので慌てて否定した。「市内でフォーラムやりますから」と、わざわざ会場の地図までいただいてしまったが、もちろん我々は行かなかった。そっちは「考える会」関連の集会だからね。いや別に行っても良かったと思うけど。
 しかも、花岡町の地図(山の部分とか盛り上がっているような)を前に、このダムに沈んでいるのが中山寮で、花岡川の元の流れはこっちで・・・などと説明を受けてしまった。ありがとうございます、ちょっと後ろめたい気分でした。
 館内は、写真つきのパネルで花岡事件の歴史を辿る構成になっていたが、当然の如く「和解」については「共同発表を再確認し、鹿島は5億円を信託する。その5億円は運営委員会が運用し、慰霊や受難者・遺族の自立、介護、子弟の育英に使われる」程度のことしか書いていなかった。もちろん鹿島のコメントにも全く言及なし。裁判長の「所感」もチラっと紹介されていたが、「所感」の中で言及されていた鹿島側の立場など書いてあるわけが無い。書けるわけがない。
 その左隣には西松建設安野訴訟の「和解」も大きく紹介されていた。「花岡和解を継承した西松和解」だという。要するに花岡「和解」のように被告から金さえ取れれば終了、という幕引きを継承したものと理解せざるを得ない。
 その隣には、花岡訴訟の弁護団長だった故・新美隆弁護士が写真つきで紹介されていた。経歴を読むといろいろと献身的に活動されていたようで、これで花岡訴訟も敗訴を覚悟で最高裁まで争っていれば批判されることはなかったのに、と思う。ホントは耿諄さんコーナーを設けたいんだろうけど。
 しばらく見学していると花岡事件の幸存者の汝永建さんや遺族の方々が支援者に付き添われて来館した。「考える会」及びその関連団体が招いたと思われる。またもや「考える会の方ですか?」と言われたので慌てて否定した。

 花岡川は元々、下の写真で言うと支流が合流したあたりから左へ(西へ)流れていたが、戦争末期に鹿島建設によってこの写真のルートへ流れを変える工事が行われ、強制連行された中国人が従事させられ、968人のうち418人が命を奪われた。

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 今だったら重機であっという間に掘っちまうだろうが、当時の中国人たちはシャベルで穴を掘り、つるはしで岩を砕き、抱えて運んだのである。
 記念館の川向にあるのが信正寺。戦後、鹿島から受難者たちの遺骨を押し付けられ、中国に返還されるまで供養していたという。

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 ところで門の横の看板はなんだ?


 「当信正寺は『花岡平和記念館』とは一切関係ありません 平成22年4月17日」と書いてあるな。4月17日というのは福島瑞穂元大臣とか呼んでオープンセレモニーした日だな。一体何があったんだろう?

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 かつての納骨堂の上に立つ「中国人殉難者供養塔」は、境内を出て右手(川の上流方向)に歩き、細い道に入って寺の裏側に回る。裏面には「平成13年6月吉日 鹿島建設株式会社」と刻印されている。



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 中山寮はこっちの方角だろうか?

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 「七ッ館弔魂碑」は境内を出て左手(下流方向)に少し歩いたところの墓地にある。1944年5月29日、乱掘の末に「七ッ館坑」が落盤し朝鮮人12人・日本人12人の作業者が閉じ込められ、救助されることもなく上から土砂が被せられてしまった。この殺戮を悼む碑である。

 そのあと近くの公民館で花岡事件に関する資料があるか探してみたら、「大館市史」にかなり詳しい記述があった。市の中心部に戻り市役所でいろいろ質問したあと、時間が余ったので「獅子ヶ森」まで行ってみた。登山道から少し登ってみたが、次第に本格的な山道になり断念。

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 蜂起に失敗した中国人たちは追っ手から逃れるためこの登山道から登っていったという。

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 山頂までは1時間かかるという。3分の1くらいしか登れなかった。革靴だったもんね。

 そこから20分くらい歩いたところに、樹海ドームがあった。

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 なんて立派な作りなんでしょうか?よく見ると骨組みが木で出来てるぞ。たいぶお金かかたんでしょうね。タクシー代使いすぎたんで帰りは雨にぬれながらバスを待った。

 夜、東京から来た研究者の方と待ち合わせた。和解支持派からの抱きこみ工作に辟易しているという。みんなでレストランで生ビールやら紹興酒やら飲み、俺たちは安いビジホに泊まった。タバコ吸ってクソしてシャワー浴びて、3日ぶりにちゃんと寝れるぞ、と思ったらワールドカップ決勝トーナメントの日本vsパラグアイがあるじゃんか!PK戦が終わったら2時近くになっていた。残念だったね。翌朝は早く起きなければならんのに、また寝不足だ。

 翌日は、地元で花岡事件を語り継ぐ活動を行う「日中不再戦友好碑をまもる会」の方の車に同乗させてもらって、大館市主催の「中国人殉難者慰霊式」に参加した。朝10時20分から十瀬野公園墓地にて、誰でも参加できる。
 幸存者の汝永建さん・遺族の方々、中国大使館員、秋田県・大館市関係者、県議会・市議会議員、秋田県日中友好協会、「日中不再戦友好碑をまもる会」など地元の諸団体、「平和団体関係者」などが参列。俺らも献花させてもらった。

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 内田雅敏氏や林伯耀氏、「考える会」代表の田中宏氏は「平和団体関係者席」の最前列に陣取っていた。大館市の主催といえども彼らの影響力が強いようだ。
 ところでちょっと場違いな感じのする数十人の若者がいたが、JR東労組の組合員だったようだ。そのうち数人が、最後の方で司会に紹介され献花していた。(参考:これ今年のことじゃないと思うけど)組合費で来てるんだろうな。いや来ちゃいかんとは言わないけど。

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 中国殉難烈士慰霊之碑

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 遺族の方々が碑の前で紙を燃やしていた。中国での故人を弔う際の一般的な習慣らしい

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 すぐそばにちょっと神秘的な沼があった

 慰霊式は1時間ほどで終わり、「考える会」やJR東労組の皆さんはマイクロバス数台で「フィールドワーク」に出発した。信正寺で行われる中国殉難烈士慰霊祭は14時からなので、その間、「日中不再戦友好碑をまもる会」の方が、車で各地を案内して下さった。ありがとうございます!

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 写真上半分の窪地が昔の花岡川の名残

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 七ッ館の崩落事故があったのは信正寺の裏手の、このあたりらしい

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 小林多喜二は秋田県北秋田郡下川沿村、つまり現在の大館市生まれ。これは大館郷土博物館にあった碑。この博物館でも花岡事件について詳しい説明があった。「花岡ものがたり」(参考)の複製も展示されていた。

 そして14時から信正寺で慰霊祭に参加し、俺らも焼香し受難者の冥福を祈った。(参考:俺の後頭部だけ写ってる)「中国人殉難者供養塔」と「七ッ館弔魂碑」で花を手向け、さらに車で移動して「日中不再戦友好碑」の前で行われたの「友好.平和 誓いの集い」に参加した。

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 すぐそばのダム湖に、中山寮が沈んでいるという。

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 途中、工事現場みたいなところを通ったが、このように有害物質の埋め立て場になっている。六価クロム、シアン、水銀、鉛・・・大丈夫か? 「エコシステム花岡」とは、「旧称:花岡鉱業株式会社」だという。資源を掘りつくして、今度は有害物質で埋め戻しですか?

 夜は大館市中央公民館で「日中不再戦友好碑をまもる会」主催の、「65周年 花岡事件を語る会」が行われ、現地で花岡事件の研究を続ける方々が配布資料を元に説明し質疑応答を行った。知らなかったが鹿島組の作業所に中国人が導入されるのが決定したのは5月29日の七ッ館崩落事故によってではなく、5月8日に既に決定していたという。中国人たちは花岡川水路変更工事より先に、まず鉱滓体積場建設工事に従事させられたという。こんなブログを書いてるクセに花岡事件について何も知らないのを思い知らされた。また、幼いころ花岡蜂起を目撃した方から証言が行われた。余談だが「日中不再戦友好碑をまもる会」の皆さんも概して「花岡和解」には否定的だった。
 21時ごろ終わり、また閉鎖空間?に入る前に近くで酒を飲みながら、あーだこーだと総括、俺は声が大きいのを自己批判した。ちょっと、余計なところまで、声が響いていたらしい。
 たった二日間だったが有意義な旅だったと思う。無事に帰れてよかったよかった!帰りの方が良く寝れたな。大宮へは定刻通りに到着したが池袋はどうだったか知らん。自宅に戻ってちょっと休んでから出社、また夜勤だ。この前の俺の大チョンボは大した問題にならなかったようで助かったw
posted by 鷹嘴 at 00:52| Comment(1) | TrackBack(0) | 花岡事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
花岡事件について調べてたんですが
こういう記念館や資料の存在を初めて知りました

いつか私も行ってみようと思います
Posted by ふうう at 2016年04月06日 23:02
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