2010年07月14日

花岡事件と その「和解」(9) 欺瞞の渦

 (8)の続き。
 野田氏の2008年1月・2月号の月刊「世界」の論考は、花岡訴訟の弁護団や支援者にとって見過ごせないものだったようで、一橋大学名誉教授・田中宏氏が同誌の08年5月号にて、野田氏への反論を寄稿した。「中国人強制連行を考える会」代表でもある彼は、新美隆弁護士(故人)や内田雅敏弁護士と共に花岡訴訟に関わり、和解に導いた人物である。自分たちの長年の活動によって成立した「和解」の価値を守りたかったのだろう。そのタイトルは「花岡和解の事実と経過を贈る」である。野田氏の連載のタイトル「虜囚の記憶を贈る」をパクったものである。このタイトルだけで只ならぬ憎しみを感じるが・・・残念ながら「反論」の域に達していない。

 2000年4月21日、東京高裁が「和解勧告書」を出したが、野田氏はこれについて「のちの11月29日、実際にかわされる和解条項に入っていた重要な文章が入っていない」と指摘している。つまり共同声明は鹿島の責任を認めるものではない、原告もこれを了解した・・・などという部分はこの「和解勧告書」には見当たらないのだ。
 「新美弁護士たちも、それ(鹿島が謝罪を撤回したいこと)を十二分に知っていた。知っていながら、和解を成立させたいために、曖昧にしてきたところがある」(*1)
 これに対し田中氏は「ないものをどうやって見せるのか、弁護団が原告を騙したというのか」などと憤っている。(*2)
 たしかに4月の和解勧告書には11月の和解条項の「重要な文章」は無い。それだけのことだ。実際は野田氏が指摘しているように、弁護団は鹿島側の意向を理解していた。「和解」成立の前年8月、弁護団や田中氏ら支援者が訪中した時「法的責任を負わない、だから賠償とか謝罪とかいう名義では金を出さない、共同発表のときに謝罪したから重ねて謝罪はしない」という鹿島の意向を耿諄さんら原告に伝えている(これに対し耿諄さんは、「ならば共同発表を全文掲載してこれを基礎に和解するとはっきり書き、鹿島の罪行を認めるべきだ!」「必ず補償して誠意を表すべきだ」と主張した)(*3)。弁護団と支援者にとって、11月の和解条項は予定通りの内容であり、耿諄さんら原告の願いを無視して進められたのである。これは田中氏にとって痛い指摘だったようだ。

 「和解」成立の当日、新美氏は「和解成立に当たって」という声明を発表した。そこには以下のような部分がある。
 但し書で、法的責任について触れていますが、これは、鹿島建設側が当初、法的責任を認めた趣旨のものではないことの確認を求めて来たのに対し、これが拒否された上で表現されたものであって、法的責任のないことを認めたものではありません。
 これまでの日本の戦後補償に関する和解例では、法的責任はおろか何らかの責任を表明した例はなく、強制労働に関するドイツの先例や基金においても、法的責任のないことを確認することが前提となっていることからしても、この条項の但し書きは、共同発表の訴訟上の和解での再確認とともに画期的なものと言えます
 野田氏はこの文章の青文字部分を割愛した上で引用し、「意味不明な文章であり、何が画期的なのか、分からない」(*4) と指摘している。たしかに何を言いたいのかサッパリ分からん。「拒否された上で表現された」?何がいいたいのやら?
 しかし田中氏は青文字部分を提示し、「確かに、N稿(野田氏の論文)に引用された談話メモでは意味不明になるだろう」「和解を非難するための幼稚な小細工というほかない」(*5) と反論している。しかし全文を読んでみても、意味が通じないのは同じだ。
 ところで、この文章の前半部分と同様なことを2001年に内田氏が述べ、それが田中氏の論文にも引用されている(*6)
・・・鹿島建設側は、「共同発表」において述べた「企業としても責任があると認識し」の「責任」については、道義的責任のことであって法的責任を認めたものではないと強く主張した。そして和解文中にそのことの確認を求めた。生存者・遺族とすれば、そのような確認はできるはずがなかった。
・・・最終局面までギリギリと綱引きがなされた結果、鹿島建設がそのような主張をしたことについて生存者・遺族は了解するという表現に落ち着いた。確認ではない
 これを読んで俺もやっと、新美氏が何を言いたかったのか理解した。
 つまり新美氏は、和解条項に書かれていることは、「鹿島に責任が無いことを原告は認めます」ということでもなく、「鹿島に法的責任は無いことを、原告は了解した」ということでもなく、
 「鹿島が『うちには法的責任は無い』と言い張っていた、このことを原告は了解した」と、言いたかったわけだ。
 「鹿島の主張は、原告も知っている」程度の意味だというのである。

 しかし・・・「了解」という言葉には、ある状況、ある要求について受け入れる、従う、認めるという意味合いもあるはずだ。和解条項の問題の部分を素直に読めば、「鹿島に責任が無いことを原告も認めます」と理解せざるを得ない。「菅首相は消費税を10%にすると言っている、これを国民は了解した」というのは、「菅がそういうことを言っているのは知っている」という意味ではなく、「国民は消費税10%を受け入れる」という意味になるではないか。実に馬鹿馬鹿しいことだ。
 新見氏や内田氏はこういう言葉遊びで弁解せざるを得なかった。これを田中氏は必死に弁護したのだが、一般常識から見て彼らの主張は「意味不明」である。
 それにしても「鹿島は、共同発表の責任は道義的責任のことであって・・・」とあるが、一般的に「道義的責任」を認めた場合、どんな文言が並べられるだろうか?
 鹿島のコメントにあるような「戦時下だから環境が大変厳しく、当社は『誠意をもって最大限の配慮』を尽くしたが、多くが病気で死ぬなど『不幸な出来事』があり・・・心を痛めてきた」というたぐいのセリフではないか?鉱山を経営していた花岡鉱業所(鹿島組に水路変更工事を発注した)がこれを言うならまだ分かる。しかし鹿島は直接の加害者だ。「最大限の配慮」をするどころか、中国人労働者にまともな食事も与えず酷使し、虐待し、殺したのである。「不幸な出来事」とは鹿島自身が行った行為である。つまりは鹿島は強制労働・虐殺の責任を一切認めなかったのだ。それを花岡訴訟の弁護団と支援者も「了解」したのだ。

 また、「緊急報告集会」で裁判所の「所感」の一部分が白く消されていた件については、「単にスペースの都合で割愛しただけ」などと述べている(*7)。しかし実際は新たなスペースを生んだだけである(参考)
 こういう、一見しただけで不自然さを感じる仕業こそ幼稚な小細工に他ならず、田中氏の反論も幼稚な戯言、と「いうほかない」。

 なお、林伯耀氏も「世界」で野田氏の論考に対する反論を載せているが、「耿諄はすっかり英雄になったつもりでいる」などという自身の発言については一切弁明していない。さらに、和解直前の会議で和解案を中国語に翻訳して配布することを怠ったと告白している。原告に内容を説明しないまま和解を成立させる、という信じられないことが実際に行われたのだ(*8)
 花岡「和解」の欺瞞性を追及する「私の戦後処理を問う会」は、田中氏内田氏林氏に対する公開質問状を送付したが、いまだ返答が無いという。
 なお、鹿島建設が「花岡和解基金運営委員会」に信託した5億円は、同会委員長である田中氏によると、986人の受難者のうち連絡のついた約500人の受難者及び遺族に対し、一人約25万円、合計1億2500万円が支払われたという(言うまでもなく耿諄さんら「和解」を受け入れない受難者は受け取りを拒否している)。しかし残りの3億7500万円の経理がどうなっているのか公開を求める声があるが、いまだに非公開のまま、とのこと(*9)。 (つづく)


*1 「世界」08年2月号 P-278〜279 (虜囚の記憶を贈る(6)  受難者を絶望させた和解/野田正彰)

*2 「世界」08年5月号 P-272 (花岡和解の事実と経過を贈る/田中宏)

*3 「尊厳 半世紀を歩いた『花岡事件』」P-345〜347

*4 「世界」08年2月号 P-281

*5 「世界」08年5月号 P-275

*6   同  上    P-274

*7   同  上    P-275

*8 「世界」08年7月号 P-302(大事な他者を見失わないために:花岡和解を戦後補償の突破口に/林伯耀)より引用する。
 ただ、「和解」成立の経過で反省すべきことがある。異文化の橋渡しをすべき私が、最終和解条項文案を中文翻訳して会議参加者に配布していれば、現在に続く「和解」経過への誤解の一端は避けられたであろう。中国人の当初の基本的要求は貫徹されたという自信とおごりが、この些細な作業を怠った私の原因である。関係者に無用な誤解の責任の重さを感じ、今後の教訓としたい。
 和解条項の基本性格を説明しなかったことが「些細」なことだろうか。そもそも「中国人の当初の基本的要求」とは金銭を得ることか?加害企業である鹿島に謝罪させることではないか。
 それにしても「世界」09年9月号「花岡和解を検証する」は、こういう「和解」関係者の言い訳をなぞるものだったと、改めて感じる(参考)

*9 「世界」08年2月号P-284より。この部分も田中氏は反論のつもりらしいことを書いているが、核心部分である3億7500万円の行方については言葉を濁している。
 ちなみに野田氏の2010年1月15日信濃毎日新聞夕刊「今日の視覚 花岡和解から10年」には、野田氏が原告の一人から聞いた次のような話がある。
 「訴訟を準備していた1993年の時点ですでに弁護士より、裁判で受け取るカネは弁護士、支援者、被害者で3等分すると聞いていた。日本の裁判とはそんなものかと思わされていた」
これについても内田氏が1月21日の同紙で反論しているが、田中氏と同様、核心には触れない。
 ところで1995年の東京地裁に提訴された内容は、鹿島建設に対し、11人の原告(遺族を含む)に500万円+弁護費用50万円を求めるものだった(耿諄さんは11人だけが賠償を受け取ってなんになる、と激怒した。過去ログ参照)。あまりに金額が違いすぎる。どちらにせよ、上記のような証言があるからといって3億7500万円の使途を推定することは出来ない。いくらなんでも3者で山分け、というのはありえないだろう。それなりに活用されていると信じる。
posted by 鷹嘴 at 18:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 花岡事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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