JRの責任を認めさせ解雇を撤回させるまでこの闘いは続く。現在、動労千葉を軸にして解雇撤回を求める「新たな全国運動」が始まっている。
ところで、この「全国運動」の会報No.2にて、呼びかけ人の一人である元衆議院議員・矢山有作氏の発言が紹介されているが(6月6日の「岡山国鉄闘争集会」での発言)、実に興味深い部分があるので抜粋する。
それから私は、国労自体の体質の問題もあったと素直に思っているんです。というのは、当時も国鉄には下請け労働者がいたんです。その下請け労働者は全然国労の立場に立たなかったですね。国労組合員がやられている、「ざまあみろ」と、「威張りくさっとるからこうなるんだ」と、国労のあり方に反感を持っていました。・・・国労組合員ら7000人以上がJRに採用されず国鉄清算事業団送りとなったのは1987年4月。当時俺は既に東芝の工場で非正規雇用労働者として働いていた。このとき既に国鉄でも、俺と同様な非正規雇用労働者がいたのである!知らなかったが。正社員と同じ仕事を課せられつつも収入には大きな格差があり、組合もなく、契約解除・解雇の不安に怯え、しかも正社員から毎日アゴでこき使われ馬鹿にされる立場である。
私はそういうことを考えると、やっぱり労働運動のあり方というものを真剣に考えていかなければならないんじゃないかと思います。
特に最近痛感しておりますのは、どんどんJRの仕事は全部下請けにおろされていきますよね。その下請け・孫請けの労働者はろくな待遇を受けていないんですね。臨時雇いみたいなのが多かったりする。思うように首を切られる。
ところがね、それに対してJRの組合の人たちは一体どう対応しておるのか。まあ私は傍目で見ておったらあまり真剣に対応しようと考えていないと思いますね。
JR本体からどんどん切り下げられて、本体に残る仕事は少なくなっているわけですから、しかも検修なんていうのはまさか外注にすまいと思っておったら、東日本では外注化しようと言っているでしょ。検修の外注化と言ったら大変な話ですよ。
輸送の安全というものもありゃせんですわね。儲けるためにはなんでもいいんだと。儲かるように労働者をこき使って、そして体制も全部作り替えていくんだというのは、やっぱりJRの資本主義の考え方というのでしょう。
そういう時であるからこそ、私は労働組合のあり方というものを考えなきゃならんのは、JRにおける正規労働者の方だけではだめだと。同じ仲間がどんどん下請け・孫請けに切り下げられていきます。こういう人たちを全部糾合して、いわゆるユニオン組織でも作れないかなあと。ユニオン組織を作って、下請け・孫請けの労働者を糾合していったら、私は国労の運動の再生になるし、そのことがJRの姿勢を正させる一番の基本になるんじゃないかなあと
そんな下請け労働者に対する国鉄職員らの「威張りくさって」いたという態度も、国鉄時代の乗客に対する態度を思い出せば容易に想像できる。
下請け労働者たちの「ざまあみろ」という喝采も、同じ立場だった俺にはよく理解できる。東芝なんか潰れちまえ、正社員全員路頭に迷え、とか思ってたもんね。非正規雇用な仕事をしたことのある人ならこういう気持ちも理解できるだろう。理解できないのなら・・・いちど派遣でも期間工でも請負でもいいから非正規雇用の仕事をしてみたらいい。
しかし、解雇された国鉄職員らが仮に、乗客や下請け労働者に横柄な態度を取っていたとしても、下請け労働者に業務をまかせっきりにしていたとしても、それは解雇を正当化する理由にはならない。不当解雇であることに変わりはない。
立場が違えども、労働者が解雇されるのを労働者が見て喜んではならない。傍観するべきではない。共に労働者であるはずだ。自分たちは権力と資本によって分断されていることを忘れてはならない。
今こそ全ての労働者は、双龍自動車でデモを打ち抜いた労働者のように、正規・非正規の枠を乗り越え団結して闘わなくてはならない。今後の「労働運動のあり方」とはそうあるべきなのだ。
・・・と、口で言うのは簡単だけど。現実、正社員は非正規雇用労働者の立場に関心を向けないし、企業内労組が組合員ではない者に手を差し伸べるわけがないし、非正規雇用労働者は自分の雇用を維持するのに精一杯、職場を改善しようなどという発想は無いし、仲間同士助け合ったりなんかしない。所詮、人間は自分のことしか関心がないのさ。
ところで都内の某労組は、JR関連会社による契約労働者の不当解雇を糾弾しているが、動労千葉もこれを支援しているという。こうした取り組みを断固支持したい。
上のような講演録を掲載するということは、非正規雇用労働者も組織しようとしているんだろう。そう信じたい。23年前の不当解雇問題ももちろん大切だが、今現在の非正規雇用労働者の支援も、というか「非正規」な雇用を許さない闘いも大切だ。動労千葉というか中核派にはそれを期待している。そういう活動に人は集まるだろう。