・・・もしやと思い、古本屋で買ったがまだ読んでいなかった「水俣病」(原田正純/著 岩波新書B113)を開いてみると、やはり胎児性水俣病患者に関する記述があった。
1961年、当時熊本大学大学院医学部の研究生だった原田正純教授は、熊本県水俣市の明神崎に住む寝たきりの患者の診察に出かけた。その帰り、隣の家に「一目で異常とわかる二人の少年が不器用な手つきで遊んでいた」。話しかけてみたが少年らは警戒心が強く、やっと答えてくれた兄の言葉は実にたどたどしく「明らかに言語障害であった」。弟の方は言葉を発せず「首がフラフラして安定せず」「体をくねくね動かして足を投げ出して、ただはにかんだような笑顔を見せるだけ」だった。
しばらくして母親が戻ってきた。「はじめ警戒していた母親も私たちが熊大の医師とわかると、『兄は水俣病です。下のは水俣病じゃなく脳性小児麻痺です』と答えたのであった」。原田教授は後に知ったのだがこの一家の父親は1954年、「原因不明の小脳失調症」として亡くなっている。
この兄弟を見比べてみると、たいへん症状が似ているので、一度弟も診察を受けたらと勧めたが、その返事は答えにならない、きわめてあいまいなもので、診て下さいとも、診てくれなくていいとも言わなかった。医者に対する不信とあきらめであったろう。そのことはあとでわかるが。
この母親は「この年に生まれた子供は、ほかにもこんな子供がたくさんいるとです。うちのいとこのところもです」と言い、それから海を隔てた湯堂のほうを指して「ほれ、あの部落は六、七人もいるということです。それから茂道というところでは、その年に生まれた子供は全部です」と、驚くべきことをきわめて淡々と話した。これには、私たちはひどくショックを受けた。
「どうして水俣病ではないのですか」と聞くと、母親ははじめて笑った。それは、「先生たちこそ知っているんではないでしょうか」と言いたげである。「魚を食べておらんですたい、生まれつきです」。
魚を食べていない、水俣病が水俣湾産の魚貝類を食べることによって起こる中毒性疾患であるという水俣病の概念、その診断基準からすると、それに当てはまらないのである。―――実際、この概念を実証的に打ち破って、これらの患者たちが水俣病であると認められるのには、このときからさらに多くの月日が費やさなければならなかったのである。(「水俣病」P-75)
たしかに水俣病とは、チッソが海に垂れ流した廃液中の水銀が魚介類を汚染し、それを食べた住民が起した中毒症状である。しかし魚介類を摂食したことのない幼児も、胎内で水銀の影響を受けていれば水銀中毒の症状を呈する。つまり魚介類を食べたことのない者でも、水俣病になり得るのである。
つまり「水俣病とは水俣の海の魚を食べた者が起す病気」という先入観が、胎児性水俣病患者の認定を遅らせたのである。
(ちなみにハンセン病の患者は戦前、「ハンセン病は母子感染する」として堕胎、断種が強制された。(参考)どちらも非科学的な決め付けに過ぎなかったのである)
しかし、このような愚かしい先入観によって水俣病として認定されなかった者は胎児性の患者だけではない。そもそもこの公害病は、原因企業のチッソや熊本県、日本国政府によって闇に葬られようとしていたのである。
水俣湾での異常な現象は戦後間もない1949年頃から確認されていた。魚が手で捕まえられるほどフラフラになって浮かび上がり、貝が大量に死に、海藻が変色して浮き、カラスや海鳥が空から落ち、そのうち猫が狂って走り回り海に落ち、豚や犬も同じように死んだ。
1956年、のちに水俣病第一号とされた女児が死亡した。そして「奇病」を発病する患者が相次ぎ、行政も対応に乗り出した。当初伝染病ではないかと疑われ、患者は隔離病棟に収容された。(それが周辺住民から差別を受けることになる。参考)
しかし熊本大学の調査で患者は病原性の細菌やウイルスを保有せず、何らかの中毒症状であることが明らかになった。そして当然の如く、チッソが垂れ流しにしている工場廃液が疑われた。チッソの廃液は水銀だけでなく重金属類を多量に保有している毒の塊だったのである。
しかし原因究明は困難だった。マンガン、タリウム、セレンなどが疑われたが、それらが起す中毒症状は、水俣の「奇病」とは異なるものだった。水銀も疑われていたのだが「そのうちリストからはずされる。研究班の喜田村教授は、『水銀などそんな高いものを、まさか海に捨てるわけがないという先入観から、水銀をリストからはずすことになった』と、当時をくやしがって回顧している」(同上P-42)。
しかしこのような研究を蔑ろにするような妨害も行われた。
「日本化学協会」は、「戦時中水俣市茂道にあった海軍の弾薬庫の爆弾が、敗戦時に水俣湾に棄てられた。その弾薬が溶け出して水俣病を起した」(「水俣病事件四十年」宮澤信雄/著 葦書房 P-229)という説を主張したのである。
これに対して「厚生省水俣食中毒部会は、県衛生部とともに、敗戦時に水俣湾内に遺棄されたと見られる旧軍需物資について現地調査をし、旧軍の責任者を調査し、爆薬投棄の事実はないことを明らかにした」。
そしてこの爆薬説に対して「事実に反し、医学常識を無視したセンスである」(「水俣病」P-56)と一刀両断している。しかし、爆薬説を否定するために、爆薬が遺棄された事実はないことをわざわざ実証しなければならなかったとは、なんとも虚しい話である。
真相究明を妨害する珍説はこれだけではなかった。東京工業大学の清浦雷作教授という人は、日本各地の魚介類が含有する水銀濃度と水俣湾の魚介類の水銀濃度を比較し、水俣のものより高い例もあるががそこでは奇病は発生していない(だから水銀が原因ではない)と報告したが、これはわざわざ日本各地の汚染のひどい海域・河川だけを選んでデータを採集していたのである。
すなわち東京大学宇井純氏の指摘によれば、「隅田川、伊勢湾など、わが国でもっとも多重汚染のひどいところを選び、しかも伊勢湾にはアセトアルデヒド工場の排水が流れているし、直江津は上流に水銀工場があり、水銀を分析した魚もここでとれたもののようだが、それはわざわざ伏せてあり、そのほか北海道東部、中国山脈にも水銀鉱山があり、水銀が多い」のである。このような事実は、最初からなにか意図をもっていたと思われても仕方がないであろう。(同上P-63)また、この清浦教授という人が提唱し、東邦大の戸木田教授という人が引き継いだ「アミン説」というものがあった。
これは、「水俣湾の貝肉をくりかえし消化酵素で分解し、得られた液を実験動物に注射すると水俣病のような症状を起して死ぬ」(「水俣病事件40年」P-293)というものだった。
要するに腐った液を動物に注射してみるという実験である。医学的な知識などなくとも、実験動物が死ぬことも、水俣病とは全く関係ないことも分かる。
しかも清浦教授や戸木田教授のこの発想の元も馬鹿げたものだった。
「市場にもっていっては売れないような、腐敗しかかった魚類を食べさせたから子供たちは発病したのだと、漁師のなかにはみずから筆者(戸木田)に対して証言した患者もあった」(「水俣病」P-64)
腐った魚を食べれば普通に腹を壊すと思うが?
しかし、**大学の教授、という肩書きがついている人間がこのような小学生でもおかしいと思えるような珍説を持ち出すとはあきれたものである。人文科学系の学者の中には荒唐無稽な論を展開する歴史歪曲主義者が存在することは重々承知しているが、自然科学の学者にもこのように事実を歪曲しようとする者がいたとは知らなかった。権力に媚びる「御用学者」は所詮同じ穴のムジナだろう。
こうした妨害工作に悩まされながらも、水俣病はチッソの工場が垂れ流す有機水銀(メチル水銀)であるという真相に近づきつつあった。しかし「工場の廃水の中の無機水銀が、なぜ湾内で有機水銀に変化するのか?」という難題に突き当たった。
・・・人類は古くから水銀という重金属を利用してきたが、同時に水銀中毒にも悩まされてきた。しかし通常の水銀中毒では水俣病のような神経障害は起きない。水俣病の原因となったのは「メチル水銀」という、炭素原子、水素原子3、そして水銀の原子が結びついた物質だった。
これは「血液脳関門」をたやすく通過し、脳神経細胞のたんぱく質の構造を破壊し、重い神経障害を引き起こすのである。
実際にチッソの廃水の中はメチル水銀を含んでいたがこの事実は公表されなかった。その一方チッソ付属病院の細川院長は、工場廃水を浸した餌を猫に与える実験を密かに行い、1959年10月、水俣病を発症することを確認した。しかしチッソはこの実験結果を隠していたのである。
しかし不明な点があろうとも住民のメチル水銀中毒はチッソの廃水が原因であることは覆い隠せるものではなかった。この年の12月、チッソは被害者の間に「見舞金契約」を結び、廃水浄化設備の稼動をスタートさせた。(しかしこれはほとんど効果のないもので、依然垂れ流しの状態は続いた)
熊本大学衛生学教室の入鹿山且郎教授の研究によって工場のスラッジの中にメチル水銀が含まれていることが判明、発表されたのは1963年のことだった。
1960年10月チッソは水俣市の漁業組合と補償契約を結び、11月には「水俣病患者審査協議会」が新たに3人の患者を水俣病と認定し、この時点で「水俣病の発生は終わった」とされた。つまりは水俣病と認定されていない患者が放置されることになったのである。
(続く)
講義でも、チッソ加害説を否定していました。
多感な少年時代ですから、『これは何かあるな』
と直感しました。感じたとおりの結論が間もなく
公になりました。