2006年05月01日

水俣病という「縮図」2

水俣病という「縮図」の続き)
「水俣病」という治療法の存在しない恐ろしい中毒症状を引き起こしたチッソの水俣工場では、
カーバイドからアセトアルデヒドなどを製造していた。

ちなみに、
●カーバイドは、生石灰とコークスを電気炉で熱して製造する。
コークスは石炭を蒸し焼きにして製造する。
「不知火海一帯は良質な石灰石の産地、対岸の天草は無煙炭の産地だった。それを天然の良港水俣に運べばいい。中央から遠いかわりに、低賃金の労働者が大勢いた。立地条件はととのっていた」(「水俣病事件40年」P-75)。

↓製造工程の概略はこんな感じ
(生石灰+コークス)→カーバイド→アセチレン→アセトアルデヒド

さらにアセトアルデヒドから酢酸オクタノール、オクタノールからDOPを合成していた。

DOPという聞きなれない物質は、塩化ビニールという身の回りのどこにでもある工業製品を製造する際に用いられている。そのままでは固い樹脂である塩化ビニールを柔らかい素材に変身させるために、DOPを可塑剤として配合するのである。当時オクタノールはヤシ油などから作られていたので、それを原料とするDOPは高価だった。
アセトアルデヒド→オクタノール→DOPという合成技術を開発したチッソは、「1952年以降約10年間にわたってオクタノール市場をほとんど完全に独占しました。このような重要な化学製品を一社で長期間独占することに成功したのは、日本の化学工業史の中でもこのときにチッソのオクタノールだけです」(「水俣病の科学」P-34)。
アセトアルデヒドの製造は1932年から開始された。ところでアセチレンからアセトアルデヒドを合成する時、触媒として水銀を用いていたが、このとき水銀が有機化しメチル水銀となる。この廃水が垂れ流されていたのである。

チッソが水俣に工場を設けたのは1907年(当時は「日本カーバイド商会」、翌年「日本窒素肥料株式会社」、1950年に「新日本窒素肥料株式会社」、1965年に「チッソ株式会社」と改名。以降は便宜上「チッソ」と表記する)だったが、この公害企業はなんと1914年から漁業被害を起こしていた。「黒ドベ」(真っ黒いヘドロ)が工場から流れ出し、水俣漁業組合が抗議していたのである。その際チッソは「果たして工場排水の影響があるのか、仮にあったとしても損害がどの程度か調べるのは難しい」と、補償を拒絶していた(「水俣病事件40年」P-77)。
1926年には「補償」でなく「寄付」という形で、漁業組合に対し1500円が支払われたが、「此の問題に対して永久に苦情を申出さる事として多年の物議を解決したり」という「証書」が交わされた(同上)。
また1943年にも、チッソが漁業組合から被害漁場の漁業権を15万2500円で買い取ることで「将来永久に一切の損害賠償を主張せざる」こと、「水俣工場より産出するカーバイド残渣将来旧水俣川流域方面に廃棄放流するものとする」という契約書を交わしていた(同上P-78)。このような、わずかな金額で与えて以後一切の要求を諦めさせようとするチッソの手法は、その後の水俣病の補償交渉でも用いられることになる。

さて、水俣病の原因がチッソであることが隠しきれなくなった1959年の12月、チッソと漁業組合は、補償金3500万円(この中から打ち壊し事件の損害額として1000万円を相殺)、融資の名目で6500万円、合計9000万円の補償を行う調停を結んだ。
水俣病患者への補償については熊本県が仲立ちし、「死者一時金30万円、成人患者年金10万円、未成年患者年金1万円(後に3万円)」というチッソの提示額が受け入れられた。(同上P-270)
同時期に水俣工場に「サイクレーター」が完成し、廃水から完全にメチル水銀が除去される、と宣言された。
さらに翌年の10月にチッソと熊本県は、漁業組合に1000万円を払うことで八幡沖の10万坪を埋め立てする権利を得た。11月には「水俣病患者審査協議会」が新たに3人の患者を水俣病と認定し、これ以降水俣病は発生していない、水俣病は終わった、という認識が生じた。熊本県衛生部の年報の水俣病に関する記述には、「昭和36年版以降『最近の発生は35年10月』と記載され続けることになる」(同上P-319)
後に水俣病患者第一号と認定された5歳の女児が発病したのは1953年(2年後に死亡)だが、水俣病はこの1953年(昭和28年)に発生し、1960年(昭和35年)に終息した、という「通説」が生まれた。(つまり、その期間内に発病した患者は水俣病と認められ、それ以前に水俣病らしき症状が出ていたと見られる患者、それ以降に症状が出た患者は無視された)
しかしこの「通説」は、愚かしい思い込みだったのである。
前回も書いたが熊本大学の原田正純教授は、「水俣病は終わった」とされた以降も、認定されていない患者の診察を続けていた。
1946年生まれのある女性は、歩行障害、手の震え、言語障害などの症状を持ち、「素人目にもはっきりする水俣病患者だった」。しかしこの女性は、「小学校入学時の昭和26年(1951年)に、すでに言語不明瞭と記載されていたのである」(「水俣病」P-146)。
また、「平田某氏」は「菓子屋」を営んでいたが戦後廃業し、船は所有していなかったが「ホコ突きの名人」として「タコ、カニ漁で生計を立て、ナマコ、カキを多食していた」。
この男性の三男(当時7歳)の男児は、1945年ごろから言語障害になり、手先も不自由になって箸を落とすなどした。そのうち歩行が困難となり、寝たきりになり、翌年死亡する。さらにその兄(当時15歳)も同様な症状を起し1947年死亡。その通夜のとき「平田某氏」は派手な浴衣を着て「祭りだ祭りだ」と騒いでいたという。そして彼もやがて言語障害、歩行時動揺、視力障害を起し、錯乱状態になり寝たきりになり、1949年死亡した。
この一家はその後差別を恐れて水俣市から去ったが、原田教授が転居先を探し出し、残された妻に当時の病状をたずねてみたところ、「水俣病の教科書を諳んじているのではないかと思えるくらい、その症状のはじまりから臨床像まで、水俣病そのものだった」。(同上P-144〜145)

水銀を触媒に用いるアセトアルデヒド製造法は1932年から行われ、廃水の対策など行われていなかったのであるから、その当時から水俣の海は有機水銀に汚染されていたのである。「通説」である1953年より以前に水俣病が発生していても当然である。
責任を認めようとしなかったチッソは「われわれは昭和7年(1932年)からアセトアルデヒドを製造しているのに、どうして昭和28年(1953年)からしか患者が発生していないのか」と恥知らずな反論を行ったが(同上P-145)、逆にこの言葉こそ「昭和28年発生説」の虚構性を突くものだったと言える。
また、この事実に気付いた原田教授に対してある患者は、「先生は、えらい大発見でもしたように新聞に発表していたけども、水俣病が28年からしか発生していないなどと信じているのは大学の先生たちぐらいじゃなかとですか」と、笑った。その後原田教授らはこのような患者も水俣病として認定させるために奔走する。

また、1960年(昭和35年)以降に発病した患者も多かった。「津奈木部落」に住んでいたある漁師は1956年ごろから手足、言葉のもつれなどの症状があったが、1960年(昭和35年)ごろまではあまり目立つ症状ではなかった。しかしその後悪化し、1965年ごろから自宅に寝たきりになった(献身的に介護をしていた妻も原田教授が見る限りでは水俣病の症状が出ていたという)。
「水俣病が終わった」とされる1960年(昭和35年)当時は、すでに水俣湾は「危険地区」と指定され、漁業は禁止されていた。しかしひそかに漁をする者も、「危険地区」から少しだけ離れた海域で漁をする者もいた。その時点でもチッソの廃水は実質的に垂れ流し状態であったので、そのような魚介類を常食していれば発症する危険があった。
また原田教授は、メチル水銀に汚染された魚介類を摂食しなくとも「新潟で問題になったように、いっぺんとりこんだ水銀があとになって症状を発症させるという、遅発性水俣病」があると考える(同上P-153)。
しかしこのような患者の認定は「通説」が壁となって立ち塞がった。上記の患者が認定されるのは1971年である。そもそもチッソと国には、水俣病は終わったことにしなければならない、という都合があったのである。
(続く)
posted by 鷹嘴 at 01:08| Comment(1) | TrackBack(0) | 公害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
昨日、文化放送の午後5時のニュースの終わりに、男のアナウンサーが、最近23歳で就職した水俣出身の女性が寮で一人だけ別室を割り当てられた、そんな事を伝え「まだ言われない差別が・・」と付け加えていました。
Posted by じゅん at 2006年05月02日 23:39
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