チッソの水俣工場が廃水処理の為、と称して設置した「サイクレーター」は、前回も述べたように実際には水俣病の原因であるメチル水銀を除去する能力はなかった。1959年12月の、熊本県知事らを招待した竣工式では、当時のチッソ社長の吉岡喜一氏はサイクレーターから出たと称する水を飲んでみせるというパフォーマンスを演じたが、菅直人がむさぼり喰ったカイワレ大根と違い、本物ではなかったと思われる。(注1)
実際、完成後に試験運転を行いアセトアルデヒド廃水を通してみたところ、「やはり溶解水銀は除去できないことがわかった。除去率はせいぜい40%から80%だった」。(「水俣病事件40年」宮澤信雄/著、葦書房 P-277)
そのため、せっかく完成したサイクレーターへアセトアルデヒド廃水を流すことを中止し(排水経路の変更を伴っていたので再び汚染の著しい水俣湾に排出することになるから)、現状のまま「八幡プール」に流すことにした。(チッソは1958年9月より、何を考えたのかアセトアルデヒド廃水を「八幡プール」に流していた。これは水俣川の河口付近であり、廃水はカーバイド残渣を浸透して流れ出ていった。この処置によってメチル水銀は不知火海(八代海)全体に広がることになる)
後にチッソの関係者が業務上過失致死罪を問われて訴追されたとき、サイクレーターというごまかしについても追及されたが、効果など無くて当然であると平然と語っていた。
1976年、チッソの西田栄一・元工場長と、上妻博宣・元技術部次長は、熊本地方検察庁にて取調べを受けていた。
西田「浄化装置は、荏原インフィルコ社のサイクレーターという装置です。設置の目的を一言で言えば、ペーハーの調整と固形物の除去ということです。この設置を計画したのは有機水銀説の出る前ですから、水銀の除去は目的にしていません」このように白々しくも告白したのである。
上妻「サイクレーターは、水俣病の防止を目的としたものではありません」
また「荏原インフィルコ社の当時の技術部研究課長」は、これがどのような設備だったのか克明に語った。
「サイクレーターは、当社の廃水中和・固形物沈殿分離装置の名前です。チッソの注文設計仕様には、燐酸・硫酸ピーボディ塔・重油ガス化・カーバイド密閉炉の4設備の廃水を処理し、濁度50度以下、色度50度以下、ペーハー8〜9を保証せよというものでした。アセトアルデヒド廃水は最初から注文仕様に入っていません。(以上、「水俣病の科学」西村肇・岡本達明/著 日本評論社 P-95〜96)
この4つの廃水の混合水の濁度は6000度で、台風が来て大水が出た後の濁流のような感じです。水銀の除去は、事前打ち合わせの話題にすらなりませんでした。もちろん、有機水銀は除去できません」(関西水俣病訴訟第一審、井出哲夫証言、1985年7月26日)
サイクレーターは1959年7月頃発注され、翌年3月が納期だったが、通産省の指示により突貫工事で年内に完成させた。通産省はチッソに操業を続けさせるために、サイクレーター完成を急がせたのである。
しかしチッソにとってはサイクレーターの効果を疑うような余裕などなかった。そもそも、この2年前に設置が予定されていた水銀除去方式は、サイクレーターとは全く異なるものだったのである。(注2)
1965年、新潟でもメチル水銀中毒が発生していることが報じられた。チッソと同じようにアセトアルデヒドを製造していた昭和電工が、阿武隈川に廃液を垂れ流していたのである。この責任を問う裁判で昭和電工の安藤信夫・常務取締役は、水俣の前例があるのに排水処理を怠っていたことを追及され、次のように答えたという。
「当時、チッソに問い合わせたところ、チッソは、つまりサイクレーターは世間に対して、表向き廃水を処理しているように取り繕うだけの飾りだったのである。このようにしてメチル水銀の垂れ流しは続き、汚染が拡大し患者は次々と発生した。あきれたことにこの時点から10年近くも垂れ流しが続いていたのである。
チッソの浄化槽は、社会的解決の手段としてつくられたもので、これは有機水銀の除去にはなにも役立たないと回答した」(「水俣病」原田正純/著 岩波新書B113 P-58)
1966年、チッソの工場では通産省の指示により、地下タンクにアルデヒド酢酸工場から出る廃水をすべて貯留する工事を完成させた。後には地下タンクだけでは足りなくなり、休止中の設備のタンクにも貯留したが、それでも汚染は止まらなかった。
そして1968年、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造設備は廃止され、ようやく有機水銀の流出が完全にストップした。しかしその当時はすでに水銀を用いるアセトアルデヒド製造方式は時代遅れであり、石油方式に転換していた。
「工業立国、産業優先の国策は、水俣病を公害認定した時期に色濃く照射されている。
国が、水俣病をチッソ工場を起因とする公害病と認める見解を出したのは、公式確認から12年後の68年9月26日だった。
実は同年5月まで、工場はアセトアルデヒド廃液を無処理のまま垂れ流し続けていたことが、一次訴訟で明らかになっている。国の見解は、チッソを含む国内企業すべてが石油化学方式に切り替わったのを受けて出されていた」(朝日新聞4月22日の特集記事より引用)
(続く)
注1:
1968年、チッソの第一組合によって、この水は単なる水道水だったことが暴露された。「水俣病の政治経済学」(深井純一/著、剄草書房)P-182より。
注2:
1957年4月23日、チッソ水俣工場で「アルデヒド装置廃水処理の件」という「稟議書」が提出されていた。
「6期アルデヒド装置の精溜塔から出るドレンの中には大部分の水の他にクロトン、酢酸、アルデヒド及び僅かな水銀(0.0008%)を含んでいる。又、スタート時或は運転中に母液が第一塔に流出しドレンと共に流れ出ることがある。・・・此等の廃水を溝に流さないでピットに導き、ここで水銀の回収を容易にするために蒸気で60℃以上にあげ鉄屑と接触させて水銀を回収した後、残液をポンプでカーバイド残渣と混合中和して廃棄する」これは6月3日に決済され、工事が始まった。
アセトアルデヒドを製造している二つの装置、そこから流出する精ドレーンには水銀が含まれているので、それをできるだけ取りのぞいて、カーバイド残渣と混ぜて捨てることにしよう、という計画だ。精ドレーンの水銀量は約0.0008%つまり8ppmだった。カーバイド残渣の行き先は水俣湾とは反対側の水俣川河口・八幡プールだ。(「水俣病事件40年」P-147〜149)
また7月31日には有機部酢酸課が「アルデハイド装置廃液処理配管工事の件」を起案した。精溜塔以外の部分からもアセトアルデヒド廃液が流出していることを指摘し、これらを集めて処理し、水俣川河口に流す、という計画である。これも8月28日に決済された。(同上P-156〜157)
しかし9月18日、チッソの東京本社から通知が届き、どういうわけかこの工事の中止が命令された。
その直前の9月7日、熊本大学の研究班はチッソに対して各工程に於ける廃水の処理方法、廃水の経路を照会している。処理工事を開始すれば同時に廃水の経路を変更することにもなるから、アセトアルデヒド廃水が原因であることを熊本大に知らしめることにもなるかもしれない。だから処理工事は中止されたのではないか・・・と、筆者の西澤氏は推測している。(同上P-163)