2011年01月03日

【尖閣諸島は】中国領有論のフシギ【誰のもの?】

 これ、昨年11月くらいにアップしたかったのに、グズグズしてたら年を越えてしまいました!

 尖閣諸島の領有権について日本側は、
1895年、清国の支配が及んでいないことを確認し編入。同年の下関条約で清国から割譲を受けた台湾などとは事情が異なる
51年のサンフランシスコ平和条約でアメリカの施政下に入ったが、72年に沖縄と共に返還された
中国が領有権を主張し始めたのは、近海に石油資源の埋蔵が指摘された68年以降である

 と、主張している。

 一方中国側の主張は、
明代以前に発見・命名して海防区域に組み込み、中国の一部である台湾の漁民が漁を行ってきた
この島々は下関条約で割譲された台湾の一部であり、日本のポツダム宣言受諾は、これを返還するものと解すべき
サンフランシスコ平和条約でアメリカに引き渡されたのは不法で、中国政府は承認していない

 と、いうものである(9月19日朝日新聞より引用)。要するに尖閣諸島は中国のものだと言い張っているのだ。

 こういう中国側の主張を支持する声も一部に見られるが、その根拠として挙げられるのが「尖閣列島 釣魚諸島の史的解明」(井上清/著 現代評論社 1972年)という論考であり、その主要部分がネットで公開されている。あちこちで貼られている「井上論文」である。
 この論文の内容を簡単に言えば、明や清の時代、これらの中国王朝から琉球王国に派遣された「冊封使」(*1)の記録を引用しつつ、この時代から中国は釣魚諸島の存在を知っている、というか領土とみなしていた、だから釣魚諸島は中国のものだ・・・という主張である。
 一方、冊封使の記録に基づいて井上論文を批判している論考もある。このエントリーでは井上論文と、「尖閣列島」(緑間栄/著 ひるぎ社 おきなわ文庫 1984年)、「尖閣諸島 冊封琉球使録を読む」(原田 禹雄/著 榕樹書林 2006年)(*2) における、「冊封使録」の評価について比較する。

 1969年5月、「国連アジア極東経済委員会(ECAFE)」が「沿海鉱物資源共同調査団(CCOP)」の調査結果を公表した。「東シナ海から黄海にかけての海底」に「1兆ドル以上の油田」が存在するというのだ(*3)。中華人民共和国政府が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのはこれ以降だという。
 1970年8月22日、中央日報に「楊仲揆」という人の尖閣諸島に関する論文が掲載された。明や清の時代に中国の福州(福建省)から出航し尖閣諸島の島々を通過しながら那覇へ赴いた冊封使の記録に於ける、尖閣諸島についての記述を指摘し、尖閣諸島は中国領であったと主張している(*4)。井上清氏の論文もこの主張を踏襲している。その要点を以下に示す。(とりあえず冊封使の記録に言及している部分のみ挙げる)

1534年(明代:嘉靖13年)5月に琉球に派遣された冊封使「陳侃」の「使琉球録」には、「琉球国に属する古米山(久米島)が見えてきた」という記述がある(*5)つまり久米島から東が琉球なのだ
また1562年(明代:嘉靖41年)5月の、冊封使「郭汝霖」による「重刻使琉球録」には、「赤尾嶼に着いた。この島は、琉球地方とを界する山だ」という記述がある
(*6)つまり赤尾嶼は琉球と別の国の境い目だ
さらに、1683年の清朝の冊封使「汪楫」の記録「使琉球雑録」
(*7)によると、赤嶼を過ぎ、「郊」を通過したのち、船員らが「海難よけの祭り」を行ったという。
 汪楫が船員に「郊」について尋ねると、「中外ノ界ナリ」と答えたという。要するに中国と外国の境界のことだ


 福州から那覇へ最短ルートで行くには尖閣諸島を通過することになるが(*8)、赤尾嶼(赤嶼・大正島とも)とは尖閣諸島の中でも東の外れである。そして久米島は尖閣諸島と比べりゃよっぽど沖縄本島に近い。楊氏と井上氏は以上の記述から「久米島から東側が琉球、そして赤尾嶼から西が中国のもの」・・・という結論を導き出している。(井上氏がパクったのかも?)

 もっともに聞こえるが、素人の分際で言わせてもらうと・・・「界する」と言っても、それが中国と琉球王国の国境を意味するのか、なんらかの境目を意味するのか、断言できるのか?井上論文でも、
 「なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても・・・」
 という、但し書きがついている。
 あるいは当時の冊封使が赤尾嶼以西は中国領、という認識にあったとしても、それが尖閣諸島は中国の領土、という主張に正当性を与え得るものなのだろうか?
 そもそもこの時代の人々に、中国沿海からも琉球からも遠く離れた、人が住みつくことは不可能な群島に対し、「この島までは我が国の領土」などという認識が存在していたのだろうか?ましてや海の上でここまでは中国、ここからは琉球、などという「領海」の観念など存在したのだろうか?
 この井上氏らの主張に緑間氏・原田氏が様々な観点から批判している。

1.井上論文は、冊封使「郭汝霖」の「重刻使琉球録」について、
 「郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った」
 そしてこの赤嶼が「琉球地方とを界する山」であると述べているので、赤嶼までは中国領であると認識していたのだろう、と主張する。つまり「中国領であることは自明の島々」を通りつつ、赤嶼に至って「界する」と述べているから、赤嶼までが中国領と認識していたのだ、というのである。
 原田氏によると、この記録の中には花瓶嶼や彭佳山だけでなく(井上氏が引用していない部分に)、「東湧山、小琉球、黄茅、釣嶼、赤嶼」などを通過したという記述がある。小琉球とはつまり台湾のことである。
 原田氏は・・・東湧山は中国領であると認められるが、小琉球は当時中国領だったとは言えない、小琉球とは台湾のことである。尖閣諸島に至る前に台湾という、明朝の支配の及ばない島を通過しているのだ。故に赤嶼に至って「界する」と述べてはいるが、中国と琉球を「界する」という意味にはならない・・・と指摘する。
 台湾は17世紀初頭にはオランダが支配し、明朝の滅亡後は鄭成功が拠点を構えたが1683年に清に滅ぼされた。実質的に中国大陸の政権が台湾を支配下に置いたのはそれ以降である。
 また、「明史 巻323の列伝210の外国4」に「鶏籠」があるが、これは台湾を示しているという(*9)

2.「陳侃」の「使琉球録」には、井上論文には引用されていない重要な部分がある。前年11月、陳侃は航海を前にして琉球への航路に慣れている者がいないので不安だったが、いいタイミングで琉球から使者が訪れ、航路に熟達している琉球の「看針通事」と船員30人を冊封船に同乗させることを申し出たので、陳侃は大いに喜んだのである(*10)
 つまり中国の船乗りより琉球の船乗りの方が、尖閣諸島を経由する福州那覇間の航路に熟達していたということである。琉球の船乗りにとって尖閣諸島は馴染みの深いものだったのだ(*11)
 もし尖閣諸島が明朝の領土だったのであれば、自国の島々を通過する航路を他国の船乗りに案内させるのは不可解ではあるまいか?井上氏は冊封使の記録を取り上げて尖閣諸島は既に中国領だったと主張しているが、その冊封使が琉球の船乗りに尖閣諸島を通過する航路を案内してもらった、と述べているのだ。
 また、冊封使らの記録では尖閣諸島の島々の名称がまちまちに記録されているが、これも同船した琉球人からその都度、島の名称を聞きとっていたからだという(*12)

3.明朝の国土を示す記録には、尖閣諸島に関する記述は全く存在しない(*13)

4.井上氏は、1983年の清朝の冊封使・汪楫(おうしゅう)の記録「使琉球雑録」に於ける「郊」あるいは「溝」の記述について、
 「尖閣諸島の東端である赤尾嶼と久米島の間には深い海溝があり、海の色が変わる。沿岸の青い色が黒い色に変わる。そこは中国大陸と琉球諸島の境目というべきであり、すなわち中華帝国と琉球王国の境界だ!と、当時の中国人は認識していた」
・・・と主張する。しかし原田氏は、「郊」や「溝」は単に海の難所に過ぎないと指摘する(*14)
 たしかにこの記録の中にも「どうして郊だと分かるのか?」という質問に「推量するのみ」と答えるやり取りがある。「あてずっぽうではない」というが、海が荒れ始めたので「郊」だと判断しただけだ。しかも生贄を海に投げ入れたり儀式をしたせいで事なきを得た、などという記述もある。どう読んでも領海の境界線のことではない。
 別の記録では、琉球のベテランの船員が冊封使に「郊はどのあたりか?」と質問されて「私は何度もここら辺を通っているが、全然分からない」と答えたという(*15)
さらに一度の往路(福州→那覇)で、5度も「溝」を通過した、という記述もある(*16)。井上氏の定義に従えば、中国と琉球の間に4カ国が存在しなければならないが?

5.1899年の清朝の領土を示す記録には、台湾は既に(日清戦争後の1895年の下関条約で)日本に割譲されていたにも関わらず自国領土として記載されているが、やはり尖閣諸島についての記述は存在しない(*17)
 当然のこと、下関条約では尖閣諸島は議題に上らなかった。清朝滅亡後の中華民国も尖閣諸島の領有権など主張したことは無い。サンフランシスコ平和条約によって戦後の日本の領土が確定した際にも、中華人民共和国がクレームをつけてきたことはない。結局、中国が尖閣諸島は自国領土だとして意識したのは(というかそういう主張を始めたのは)、海底資源の存在が発表された1970年以降のことなのである。(つづく・・・かもしれない?)



*1 かつて琉球王国は、中国の王朝(明、清)と冊封(さくほう)関係を結んでいた。世界の主たる中国皇帝が、辺境の王国に対し、その地方の支配にお墨付きを与えてやるから朕を敬え、使いをよこせ、貢物をよこせ・・・という関係である。朝鮮、南越国(ベトナム北部)など周辺諸国や、日本も南北朝や足利義満の時代に中国王朝と冊封関係にあった。言ってみれば宗主国と属国の関係だが、決して冊封を受ける国の自治を脅かすようなものでも、重い負担を課すようなものではない。
 冊封国が定期的に中国に「朝貢(ちょうこう)」(使節を遣わせて皇帝に「方物(ほうぶつ)」を献上する)を行い、中国側はお返しとして回賜を与える、という関係だが、冊封国が献上するその国の産物よりも、中国からの絹織物などのお返しの方がはるかに高価なものであり(そりゃそうだ、宗主国のメンツが立たないからな)、また使節の持参する(貢物以外の)物品は中国側が市場価格よりも高値で買い上げる慣例だったため、冊封国のほうに経済的メリットがあり、朝貢の回数が制限されるほどであった。
 しかし中国にとってこの冊封関係は安全保障上有益なものであり、冊封国にとっても朝貢貿易による利益を得るだけでなく独立が保障されるものであった。朝鮮については「中国と冊封関係にあったから独立国だったとは言えない、日本が中国の支配から解放してやったんだ」・・・などという暴論もあるが、ならば琉球王国も、(足利義満のころの)日本も、中国の支配下にあった、ということになる。

*2 著者の原田禹雄氏は1927年京都生まれの医学博士。返還前の沖縄に派遣されて診療を行ったことがきっかけで琉球史の研究を重ね、冊封使録について数々の著書がある。
 井上清氏の「尖閣列島 釣魚諸島の史的解明」を読んで、自身が翻訳・解明して出版してきた冊封琉球使録が牽強付会に利用されていることに憤り、「尖閣諸島 冊封琉球使録を読む」を書き下ろしたという。

*3 「尖閣列島」P-17

*4 同上 P-35

*5 1534年(明代:嘉靖13年)5月に琉球に派遣された冊封使「陳侃(ちんかん)」の「使琉球録」を部分引用。
 十日南風甚迅舟行如飛然順流而下亦不甚動過平嘉山釣魚嶼過黄尾嶼過赤嶼目不暇接・・・一昼夜兼三日之程夷舟帆小不能及相失在後十一日夕見古米山及属琉球者

 10日、南風は強く、船は飛ぶごとく走る。しかも海流に沿って下るのであまりゆれない。平嘉山をすぎ、釣魚嶼をすぎ、黄尾嶼をすぎ、赤尾嶼をすぐ、目接するひまなし・・・一昼夜で三日分の航路を走った。夷の舟は帆小さく、追いついてくることができず、後に見失った。11日夕、古米山が見えた。これすなわち、琉球に属する。 (「尖閣列島」P-35〜36)
 9日、かすかに小さい島が一つ見えた。小琉球である。10日、南の風がとても強く、航海はまるで飛ぶようであった。海流のままに航行しているのだが、しかし、それほど揺れることもなかった。平嘉山をよぎり、釣魚嶼をよぎり、黄毛嶼をすぎ、赤嶼をよぎり、次々とめまぐるしく島影が過ぎていった。一昼夜のあいだに、普通なら三日かかる航程を進んだのである。琉球の船は、帆が小さいので追いつくことができず、後方に見失ってしまった。11日の夕方、古米山が見えた。つまり、琉球の領土で、琉球の人たちは、船で小太鼓を打ち、踊りをおどって、自分たちの国に帰れたことをよろこんだ。 (「尖閣諸島 琉球冊封使録を読む」 P-30)
 ここに出てくる黄毛嶼とは黄尾嶼のこと。また平嘉山とは彭佳嶼という、台湾のすぐそばの島。
台湾北部・基隆市の基隆港沖には、この彭佳嶼など三つの島があって「重要な標識島を形成している」。位置関係も引用する。
  彭佳嶼  東経122度04分 北緯25度37分
  棉花嶼  東経122度06分 北緯25度29分
  花瓶嶼  東経121度56分 北緯25度25分
(同上P-32)。

 ちなみにウィキペディアによると、
  基隆市  東経121度44分 北緯25度08分
  与那国島 東経123度00分 北緯24度28分

*6 1562年(明代:嘉靖41年)の冊封使「郭汝霖」による「重刻使琉球録」を部分引用。
 五月二十九日至梅花開洋幸値西南風大旺・・・三十日過黄芽閏五月初一日過釣魚嶼初三日至赤嶼焉赤嶼者界琉球地方山也

 5月29日、梅花にいたって海が開ける。幸いにして、南風が強く、・・・30日黄芽を過ぎ、5月1日釣魚を過ぎ、3日赤嶼に至る。赤嶼とは、琉球地方とを界する山なり。(「尖閣列島」 P-36)
 29日に梅花に着いて開洋した。幸いに西南の風が盛んに吹いて、瞬目千里であった。長史の梁Rの船は、後にあって、追いつくことができなかった。東湧(山)と小琉球を通過した。30日に黄芽を通過した。
 閏5月1日、釣嶼を通過した。3日に、赤嶼に着いた。赤嶼は、琉球地方を境する島である。更に一日の風で、姑米山があらわれるはずであったが、いかんせん、屏翳(風の神)が風を送らず、ほこりも動かず、潮は平らで浪は静かになり、海洋の眺望はまことに珍しいものであった。 (「尖閣諸島 琉球冊封使録を読む」P-33)

 東湧山とは現在では「東引山」と呼ばれ、「福建省福寧県の三沙湾外の東南方」にある島だが、原田氏は、「(福建省)長楽市の東の沖にある白犬列島」の一つである、現在では「西犬島」と呼ばれる島と混同したのではないか・・・と推測している。
 また原田氏によると、この郭汝霖の航海を1561年とする記述も多くあるが間違い、1562年が正しいという。「冊封使録から見た琉球」(榕樹書林 2000年)の「尚元の冊封の日付」を参考されたし、とのこと。同上P-34

*7 1683年6月に渡航した清朝の冊封使・汪楫(おうしゅう)の記録「使琉球雑録」(1684年)より部分引用。
 25日、島が見えた。先のは黄尾嶼、後のは赤嶼のはずである。いくばくもなく、赤嶼についたのであるが、黄尾嶼はまだ見えなかった。夕暮れ、郊(溝)を過ぎた。風と波が、激しくなった。生きた豚と羊を一匹づつ投げ入れ、五斗の米粥をそそぎこんで、紙錢を焚いた。船では、鉦をならし、太鼓をうち、軍人たちは武装して、抜身の刀をかまえ、舷から(海を)のぞきこみ、敵を防ぐかまえをした。これを長時間行い、やっと(風波は)やんだ。
  「郊というのは、どのような意味から、そういうのか」
 と、たずねたところ、
  「中外の境でございます」
 とのこと。
  「その境は、何によって区別するのか
  「推量するだけでございます。しかし、このたびは、ちょうどその処に相当しており、憶測ではございません」
 とのことであった。供物をさかんにしたこと、武備に威儀があったことの二つで、救われたのだということである。
 赤嶼を過ぎたあと、図を見ると、赤坎嶼をすぎて、始めて姑米山に至るはずである。ところが、26日、突然、すでに馬歯山についた。ふりむくと、姑米山は航路のかなたによこたわっており、船内の人々は全て、姑米山をすぎても、おぼえがなかったのである。 (同上 P-79〜80)
 ちなみに馬歯山とは慶良間諸島のこと。

*8 ちなみに那覇から福州へ向かう場合は風のためルートが異なり、浙江省の沿岸にたどり着いてから南下するという。同上P-18

*9 花瓶嶼と彭佳山は台湾のすぐそばだが、原田氏によると「郭汝霖」が通過した島々は、他には「東湧山、小琉球、黄茅、釣嶼、赤嶼」などがあるという。同上 P-21
 航路の順番は次のようになると思われ。
  福州→東湧山→花瓶嶼→彭佳山→小琉球(台湾)→黄茅→釣嶼→赤嶼→姑米山(久米島)→那覇

*10 以下は、井上氏が黙殺した陳侃の記述。
 (嘉靖12年、1533年11月)この月、琉球国の進貢船が福州に到着したが、私たちはそれをきき、うれしく思った。福建の人々は、(那覇への)航路をそらんじていないので、ちょうど、そのことをしきりに気にやんでいたのであった。到着をよろこび、航路の詳細をたずねることができた。翌日、また琉球の船が到着したとの知らせがあった。それは、世子が長史の蔡廷美を迎えによこしたのである。私たちは更にうれしかった。航路のくわしいことを、必ずしも朝貢の使者にたずねなくとも、案内をしてくれるものができたからである。長史の謁見の折、世子の口上を申し上げ、また、こんなことを言った。
 「世子はまた、福建の人が、船の操縦が十分ではないことを心配いたしまして、看針通事一人に、琉球の船員で、航海によく馴れた者30人を引率させて派遣し、福建の船員の代わりに航海の仕事をさせることにいたしました」
 これはまた、うれしいことであった。必ずしも案内する船をたよりにせずとも、船に共に乗って、助けあえるものができたのである。(同上 P-29〜30)
・・・現代では誰しも、飛行機や船に乗れば落ちるとか沈むとか想像もせず爆睡するが、帆船しか存在しなかったこの時代、船で外国に向かうなど命がけのものだったと思う。なにしろ生贄として大切な食糧を投げ込むぐらいだからな。陳侃は琉球の船乗りによって安全な航海が望めることに素直に喜んだのだ。
 井上氏は「琉球人のこの列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られなかった。彼らが独自にこの列島に関して記述できる条件もほとんどなかったし、またその必要もなかった」などと書いているが、なぜそんな事実と正反対のことが書けるのだろうか。

*11 「現存する記録」によれば、「琉球船(進貢船、謝恩船、迎接船など)」が281回、福州に行った帰りに尖閣諸島を通過していたという。朝貢貿易とは冊封国に利益をもたらすものであるため、当然のことであろう。井上氏は冊封関係のなんたるかを理解していなかったのだろうか。また陳侃の航海より以前に「勘合符船」(中国の承認を受けた貿易船)が98回も安南・シャムなどへ赴き、当然の如く尖閣諸島を海上の目印にしていたという。以上、「尖閣列島」P-51より。
 中国の冊封使が、琉球の船乗りの知識と経験に頼ったのは当然である。しかし井上氏は冊封使の記録に現れる尖閣諸島の記録をかいつまんで、強引に中国領だったと主張している。言ってみりゃ、山田長政の記録にシャムの記述があるから、タイは日本の領土だ、と言うようなもんではないか(笑)

*12 たとえば井上氏さえも琉球の一部だと認める久米島は、冊封使の記録の中では「古米島・姑米島・粘米島」などと表記されている。同様に尖閣諸島の島々の呼び名も以下のようにまちまちである。左側は「日本が明治以後に制定した島名」。「尖閣諸島 琉球冊封使録を読む」P-16〜17より。
  魚釣島 → 釣魚嶼・釣嶼・釣魚台
  北小島 → 黄麻嶼
  久場島 → 黄尾嶼・黄毛嶼・久場島
  大正島 → 赤尾嶼・赤嶼・久米赤島


*13 明の時代、国土の地名は全て「大明一統志」に記載されていた。冊封使らはこの資料を「使録の『群書質異』に引用しており、確かに読んでいる」という。もし尖閣諸島もここに記載されていたなら、冊封使の記録に於ける島名も統一されたものになっていたはずだ。
 しかし尖閣諸島はこのドキュメントの「巻八九以下の『外夷』をふくめて調べても」見つからない。これはもう決定的な事実だ。当時の中国にとって尖閣諸島は「外国」ですら、無かったのだ。冊封使や船乗りだけが見聞きする岩山に過ぎなかったのだ。同上P-17

*14 井上氏が主張するように、琉球に行くときは中国沿岸とは違う海を渡る、という観念があり、ゆえに厄除けのために「過溝の祭」が行われたのだ。
 また「元史 巻210列伝97 瑠求」には、「瑠求の近くには海の水が滝のように落ちる『落漈』(らくせい)がある」という記述がある(ここでいう瑠求とは台湾のこと)。古来中国では、いくら川の水が海に流れ込んでも海の水が増えないのは、海の水がどこかで流れ落ちているからだ、という伝説があった。琉球に向かう者たちは、この「ダブルイメージ」によって「郊」あるいは「溝」を恐れていたわけだ。同上P-22〜24

*15 こういう神話が琉球の船乗りたちに通じるわけがない。1800年の冊封使「李鼎元」の「使琉球記」(1802年)では、李鼎元が琉球の船員(針路係)に「溝はどこか」と質問したところ、
 「私めらは、(この航路をいつも)往来しておりますが、黒溝などは一体どこにありますことやら。ただ、釣魚台があらわれましたところで、神にお供えをして海をお祭りいたします」
 と答えたという(同上P-97)。この船員は那覇と福州を8回も往復しているベテランだったという。つまりは「郊」も「溝」も仮想のものに過ぎなかったわけだ。なにを考えたかこの非実在のものを中国と沖縄の境界線だとする井上氏の主張には確信犯的なものを感じる。

*16 1808年、斉鯤・費錫章「続琉球国志略」より
 (5月13日の)「夜明け方、釣魚台が現れた。島を南にみて過り、辰卯針で航行二更、午の刻、赤尾嶼が現れた。更に航行すること四更、溝を五度通過し、海を祭った」(同上P-104)

*17 1683年に清朝が台湾を編入した際にも朝廷には、澎湖諸島のみを領有し台湾本島は放棄したほうがいい、という意見が多かったという。
 それはともかく「清会典」(光緒25年=1899)には台湾の各種の図が掲載されているが、それらに彭佳嶼・棉花嶼・花瓶嶼が出てこない。「花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り・・・その列島の最後の島=赤嶼に至った」という井上氏の主張がここでも無力化される。
 尖閣諸島に至っては「図説奥地のいずれの図にも」出てこない(同上P-26〜27)。つまり中国人は清国の末期になっても、尖閣諸島には関心を向けなかったのである。これでもまだ、尖閣諸島は中国古来の領土などと言えますか???
posted by 鷹嘴 at 00:56| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今晩は。色々考察お疲れ樣です。しかし全ては史料次第なのです。尖閣の西方には西暦千四百六十一年以來、歴代の國境線が記録されてゐますので、尖閣はチャイナの外であり、無主地でした。その史料を議論しないと何も始まりません。詳細は拙著『尖閣反駁マニュアル百題』をどうぞ。
http://www.shukousha.com/information/publishing/3188/
Posted by いしゐのぞむ at 2015年02月05日 23:00
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