2006年05月27日

初めてのOFF会・・・

5月20日、新宿で開かれた「歴史問題ネットワーカーと反小泉・護憲運動ブロガーの集い」に参加した。
このイベントはとほほさん(広島在住!)が主催し、南京攻略戦に参加した栗原利一さんのご子息である栗原利秀さん(ハンドルネーム:核心さん)が、栗原利一さんが保存していた虐殺事件に関する資料の公開・説明を行い、また南京大虐殺に関する数々の著書があり、現地で取材を行ったことのある本多勝一先生も出席した。
もちろん問答有用思考錯誤の錚々たる論者の方々も全員集合である。こんなイベントに参加せずにいられるものか!
というわけで、問答有用にて2ch用語を連発する問題児であり、最近生意気にブログを公開しているネット人格「ノンポリ」が、その素顔を公開することになったのである。超ハズカシイ〜〜〜たらーっ(汗)

実はその前日、昔通っていた専門学校に卒業証明書を発行してもらうために(今月半ばから仮採用のまま働いている会社に提出を求められた)、新宿を訪れていた。当時は新聞を配りながら住んでいたのだが、すっかり風景が変わってしまって右も左も分からない状態で、当日も案の定ウロウロと彷徨うことになってしまった。時間に余裕があったので遅刻せずに会場に入ると、円卓に並べられた机の上にはそれぞれのハンドルネームが書かれたプレートが置かれていた。一目で「あいつがノンポリだ」とバレバレである(笑)
二次会で自己紹介しようと思ったのだが。先に着席していたK−Kさんにご挨拶し、そのあと烏龍茶さん、クマさんとご挨拶した。クマさんには「思っていたのと違ってスポーティな感じですね」というお言葉を賜った。恐らく「ノンポリ」にキモヲタ風のイメージを持っておられたと思うが、その時サッカーのプラクティスシャツを着ていたのでイメージと異なったのだろう(草サッカーチームはとっくの昔に自然退会)。まあ本性は一介のキモヲタであるw
開会の時間になり、幹事のとほほさんの挨拶、そしてクマさんのお話、本多勝一先生のお話、熊猫さんによる南京大虐殺の概要説明に続いて、この集いのメインイベントである核心さんの資料説明が始まった。

・・・仙台第十三師団の歩兵第六十五連隊(山田支隊)が、1937年12月16日・17日の二日間に、揚子江のほとりで1万数千とも2万とも言われる捕虜を銃殺した事件(通称:幕府山事件)は、南京大虐殺に於ける最大の虐殺事件だった。
(5月28日追記:以下は核心さんのご指摘(思考錯誤255125522561)により部分的に修正)
この虐殺の実行に加わった栗原利一さん(当時第二中隊・伍長、現在小平市在住、95歳)は、戦後に多くの証言を残している。ご子息である核心さんによると、1984年8月7日に栗原さんの証言が毎日新聞に掲載されるや、当時朝日新聞の記者だった本多勝一先生はその日のうちに取材の申し入れをしたという。その取材内容は「南京への道」に収録された。(K−Kさんのページを参照のこと)

一方、偕行社「南京戦史資料集」(P-765〜766)では栗原さんの見聞だとして次のような文章を載せている。
「15日から16日、第一大隊(135名)はこの13500人と公称された捕虜の大群を、幕府山南麓の学校か兵舎のような藁葺きの十数棟の建物に収用し3日間管理した。しかし自分達の食糧にもこと欠くありさまで、捕虜に与える食物がなく、ようやく鳥龍山(注:幕府山の間違いか)砲台から馬で運んで来て、粥を一日一回与えるだけが精一杯であった。水も不足し、自分の小便まで飲む捕虜がいたほどの悲惨な状況であった。
多分17日と思うが、捕虜を舟で揚子江対岸に渡すということで、午前中かかって形だけだが手を縛り、午後大隊全員で護送した。4列縦隊で出発したが、途中で列を外れて小川の水を飲もうとして射殺された者もいた」
「二時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで左手の川と道との間にやや低い低地があり、捕虜がすでに集められていた。周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には舟も二、三隻見えた。
うす暗くなったころ、突然集団の一角で『**少尉がやられた!』という声があがり、すぐ機関銃の射撃が始まった。銃弾から逃れようとする捕虜たちは中央に人柱となっては崩れ、なっては崩れ落ちた。
その後、火をつけて熱さで動き出す生存者を銃剣でとどめをさし、朝3時ころまでの作業にクタクタに疲れて隊に帰った。死体は翌日他の隊の兵も加わり、楊柳の枝で引きずって全部川に流した」
「これは『虐殺』ではなく『戦闘』として行ったもので、その時は『戦友の仇討ち』という気持ちであり、我が方も9名が戦死した。殺した中には一般人は一人もいない。当時日本軍の戦果は私たちの13500を含めて7万といわれていたが、現在中国で言うような30万、40万という『大虐殺』などとても考えられない。私たちも真実を言うから、真の日中友好のために、中国側も誇大な非難は止めてもらいたい」

このように当初は捕虜を解放する方針だったという点、捕虜の抵抗によって銃撃が始まってしまったという点が、本多勝一先生が取材した内容と異なる(及び、他の関係者の記録には兵士以外の者も殺されていたという記述もある)。
これは「否定派」や「矮小派」に、この事件の真相をはぐらかす目的で利用されていた。しかしこれは歴史検証の資料になり得るものではないのである。K−Kさんのページを参照のこと。。(この件についても核心さんからご指摘していただいた(思考錯誤2553)。ご迷惑をおかけして申し訳ございません!)
今回核心さんは、この事件に関して残存する資料(利一さんの手記、スケッチなど)を全て公開し、CD-ROMに保存し、非常に有難いことに参加者全員に無料で提供してくださった。

会場のスライドにて核心さんが今回提供する資料の概要を紹介したあと、質疑応答が始まった。
正直、俺程度の知識ではついていけないものだったことを告白しておくが・・・その中で、お父上が核心さんに対して「殺された中には200人ぐらいの、家族連れの捕虜もいた」と語っていたことに対する疑問が提示された(これは俺もお訊ねしたかったが先を越された)。
なぜ軍隊の中に家族連れがいるのか・・・と疑問を感じたのだが、当時の中華民国の軍隊は女性や子供を雑用のための軍属として使っていたそうである。また当時は、正式な徴兵でないのに兵士として連れてこられる者も多く、その場合家族も生活に困るのでついて歩くことになってしまうそうである。
たしかにこの虐殺事件に関しては、栗原さんの手記ではないが以下のような記録もある。
【黒須忠信】陣中日記
(12月16日)「午后一時我が段列より二十名は残兵掃蕩の目的にて馬風山方面に向う、二三日前捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて存分に突刺す、自分も此の時ばかりと憎き支那兵を三十人も突刺したであろう。
山となつて居る死人の上をあがつて突刺す気持ちは鬼をも“ひしがん”勇気が出て力一ぱいに突刺したり、ウーンウーンとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切つて見た、こんな事は今まで中にない珍しい出来事であつた・・・・」(「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(大月書店)P-330〜331)

またこの連隊の指揮官である両角元大佐も、
「幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は2万とか書いたが、実際は1万5300余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいた」
と証言している。但し「これらをより分けて解放した」らしいが(偕行社「南京戦史資料集U」P-339)。

また、別の事例だが小原予備主計少尉(第一六師団経理部)という人が12月14日の中山門外での捕虜殺害を目撃している。
「最前線の兵七名で凡そ三百十名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取り上げ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人づつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す・・・・中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っ込む。外に二千名が逃げていると話していた。戦友の遺骨を胸にささげながら突き殺す兵がいた」(小笠原立一日記――――中公新書「南京事件」秦郁彦/著)
栗原利一さんの証言やこれらの事例を重ね合わせると、この事件は戦闘員に対する虐殺であると思い込んでいた俺の理解度は全く浅かったことを思い知らされる。

さて、二次会は近くの居酒屋で行われた(本多勝一先生も二次会に参加されると思い込んでいて、サインを頂く機会を逃したことは全く悔やまれる。次の機会があれば必ず・・・)。ネット上の付き合いだけだった方々とお話が出来たのは非常に貴重な時間だった。あしなさんに様々なことを教えていただき、とほほさんや指環さんに俺の暴力を肯定してしまう性格や党派性について指摘を受け、深く考えさせられた。なかでも(とほほさんだったかタラリさんだったか忘れたが)「戦前中国を侵略していた日本は、結局北京に首都を移したかったんだろうね。モンゴル人が元帝国を造ったように、中華思想に囚われていたんだよ」というお話に感動してしまった!!!
その後4次会までついていき終電の時間を過ぎたので、とほほさんのように遠方から訪れた方々と一緒にとある場所に泊めさせていただいた(非常に有難いことに、ある方のつてで安い料金で泊まることができた)。翌朝の大浴場は快適だった。下手なシティホテルより全然Goodじゃん?
俺は宿直勤務だったのでそのまま出社し、とほほさんたちはその日も別の集会に出席したらしい。またこういう機会があれば、その日が公休が明けならば、是非出席させていただきたいものである。

この投稿は、当日の参加者でブログを持たれている方々にトラックバックさせていただきました。皆様、ありがとうございました。また飲みましょう♪

●青狐さんのクッキーと紅茶と

●ココロノボスさん(プラさん)のdoll and peace

●高橋 亨さんのBlog腹立ち日記

●とほほさんのとほほブログ
posted by 鷹嘴 at 01:50| Comment(10) | TrackBack(0) | 南京大虐殺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
畠中秀夫氏が親父(栗原利一)の証言を真逆に曲げた捏造記事のオリジナル原稿のコピーが見つかったので気が乗らないけど捏造部分を指摘しておきました。
この捏造の面白さは共謀共同正犯として防衛庁も絡んでいる点ですね。

http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2658;id=sikousakugo#atop

Posted by 核心 at 2006年07月01日 16:21
この人たちが

http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2863;id=sikousakugo#2873

このように殺されたのです。

一斉射撃の命令が出たのはそれからまもないときだった。
 半円形にかこんだ重機関銃・軽機関銃・小銃の列が、川岸の捕虜の大集団に対して一挙に集中銃火をあびせる。一斉射撃の轟音と、集団からわきおこる断末魔の叫びとで、長江の川岸は叫喚地獄・阿鼻地獄であった。田中(栗原)さん自身は小銃を撃ちつづけたが、いまなお忘れえない光景は、逃げ場を失った大群衆が最後のあがきを天に求めたためにできた巨大な人柱≠ナある。なぜあんな人柱ができたのか正確な理由はわからないが、おそらく水平撃ちの銃弾が三方から乱射されるのを、地下にはむろんかくれることができず、次々と倒れる人体を足場に、うしろ手にしばられていながらも必死で駆け上り、少しでも弾のこない高い所へと避けようとしたのではないか、と田中(栗原)さんは想像する。そんな人柱″が、ドドーツと立っては以朋れるのを三回くらいくりかえしたという。一斉射撃は一時間ほどつづいた。少なくとも立っている者は一人もいなくなった。
Posted by 核心 at 2006年07月25日 22:08
Posted by 核心 at 2006年07月31日 19:17
天皇主権国家

数年前に近くの浴恩館で見つけました。
とても北朝鮮を笑っていられる話ではありません。

聖戦童謡集 ニッポンバンザイ
佐々木すぐる作曲
高橋悦子 ニクイオニノベイエイ

ニクイオニノ ベイエイハ
ジブンラダケデ セカイジュウ
カッテニシヨウト ヤッコラサ
ニッポンメガケテ ワルダクミ

ソコデニホンガ ジャマニナル
ヒトリノコラズ ムリムリニ
コロシテシマエト ヤッコラサ
ニッポンメガケテ オシヨセタ

大政翼賛会推薦
聖戦文化奉公会選定

カチイクサ
山本芳樹作曲
望月節子

カッテクルゾト タイリクニ
シュッセイナサレタ ヘイタイサン
ヘイカノオンタメ クニノタメ
イノチササゲテ ゴホウコウ
(子供の体操つき)

隣組常会
常会の誓い

ささやかなこの集いながら
必ず皇国の礎として
大きな役目を果たします

この集いにおいて
互いに私を去って語り合い
唯ひとすぢに皇国に
つくす覚悟をかためます

この集いによって
皇国に生まれた喜びを新たにし
一丸となって大御心に
奉らんことを誓います

Posted by 核心 at 2006年08月08日 06:47
父(栗原利一)の任意の証言は8月1日の毎日新聞、福永平和記者に対するもの、8月7日の防衛研修所、森松俊夫氏、原剛氏に対するもの、8月10日の朝日ジャーナル、本多勝一記者に対するものです。OFF会の時は情報不足で間違ったことをお伝えしてしまいました。8月7日の森松氏や原氏に対する情報が捏造派の阿羅健一氏や板倉由明氏、田中正明氏、大井満氏などの面々に使用されています。森松氏も原氏もかの日本「南京」学会の会員です。
Posted by 核心 at 2007年01月23日 22:51
捏造派が防衛省や旧将校とむすびついている証拠をいつもの掲示板「思考錯誤」に提示してあります。ただ、父(栗原利一)は大虐殺ではなく大量処分だと言ってます。
Posted by 核心 at 2007年01月30日 08:58
防衛省は昭和59年8月8日に森松俊夫氏と原剛氏が父(栗原利一)から採取した証言と証拠を提示して、大虐殺のあったことを認め、自衛隊員に嘘を教え続けるのは止めなさい。
Posted by 核心 at 2007年01月31日 09:38
父(栗原利一)は昭和59年8月に毎日新聞と朝日ジャーナルに幕府山の捕虜虐殺に関する証言行い、その記事が掲載されたのですが、その後、阿羅健一氏、原剛氏、田中正明氏、板倉由明氏、大井満氏、鈴木明氏、平林貞治氏などの捏造派の面々に正反対の証言を捏造されていろいろなところに掲載されました。昭和61年12月に父が両紙に掲載された証言と同じ内容の証言を南京大虐殺研究札記(1986年12月13日発行)に行なっています。父の話が、よりリアルに分かると思いますので紹介させて頂きます。いつもの「思考錯誤」の掲示板です。
Posted by 核心 at 2007年02月06日 22:38
「南京大虐殺講演会」 
今は親の介護で時間が無いのですが、一段落したら南京大虐殺とその矮小化についての講演会を開こうかなと考えています。要するに、親父の証言を得たあと肯定派は自分たちの味方だと勘違いし、捏造派はその証言を捏造によって否定しようとしたというだけの話なんですが。日本と中国の間に生じた南京大虐殺に対する認識の差を縮めたいだけなのですが。
Posted by 核心 at 2007年02月08日 12:43
「南京大虐殺が無かった」と言うのは日本人が日本人に対してついている嘘!
Posted by 核心 at 2007年02月23日 00:37
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