1956年の春ごろ、水俣のある家庭で飼っていた「子猫のゼラ」が突然死に、当時小学6年生の娘がその悲しみを作文にした。
「もう朝方だったでしょうか。『あっ!ねこの死んどるが』とお父さんがふいにおっしゃったので私はビックリして飛び起きました。水俣近辺の猫が狂ったように動き回り、「ムササビのように」走り出して壁に激突し、焚き火に飛び込んだり海に飛び込んだりする異常行動は、水俣病が公式確認されたこの年より以前から多発していた。彼女が通っていた小学校でも猫の「踊り病」が噂になっていたが、彼女は「そんな恐ろしい病気にゼラがかかるわけがない」と自分を思い込ませようとした。
見ると、一番かわいいねこのゼラが、死んでいます。おなかのところが丸くなって、青白くなり、手足はぐったりとなって死んでいました。足を曲げようとしても少しも曲がらなくて、かちかちになっていました」
「ゼラちゃん、私はちっとも知らずにあなたをふんでしまったのね」
彼女は成人後結婚して3人の子供を育て、夫の定年まで水俣に住んでいたが、この作文を書いた以降は「水俣病を文章にしたことも、会話で触れたこともない」という。
この作文を文集に載せた教師は当時を振り返って「猫や魚の死を扱う作文は多かった。でも水俣病が騒がれ始めると、病気に関する作文はなくなっていく」と語る。水俣病を語ることがタブーになっていたのである。
「水俣一小」の教師だった広瀬武さんが受け持ったクラスの中に、劇症型水俣病で父を亡くした児童がいたが、家庭訪問の際には「入院中」と説明されていた。広瀬さんは後に「まったく気付かなかった自分が恥ずかしかった」と悔いる。
この小学校はチッソの事業拡大によって熊本一の「マンモス校」となり、PTAは「チッソ幹部の妻たちで占められ、『標準語に気後れがして、ものも言い切らんかった』と振り返る」。
学級は、水俣という社会の縮図。だが、若い教師は「20坪での教室での授業しか考えていなかった」。そして暗黙のタブーに、のまれた。1971年広瀬さんは、初めて水俣病患者を社会科の授業に呼んだ。患者の浜元二徳さんは「震える手でチョークを持ち、ゆっくりと『水俣病』と書いた」。
ところが「行き過ぎ」と校長会や市議会から問題視され、「チッソに矢を向けるのか」という脅迫電話も来た。患者の家族からも「今さら寝た子を起こさんでくれ」と手紙がきた。しかし広瀬さんは「物を教うっとが教師の仕事じゃろ。あんたたちが水俣病ば教えてこんだっけん、患者が苦しまんとならん」という浜元さんの励ましに助けられ、授業を続けた。現在では熊本県内の全小学校が「エコセミナー」として水俣病を学んでいる。(以上、4/13朝日新聞特集記事「運命共同体の地で 4」より引用)
水俣病が発生した地で、水俣病について語ることがタブー視されていたとは不可解に感じるが、当時の水俣という街の事情や、この国のどこにでも見られる社会構造、そして日本人の「心性」から考察すれば理解できるだろう。
水俣病として認定された患者はごく一部で、却下された患者は十倍以上、実際の患者総数ははるかに上回ると言われているが、もちろん不知火海沿岸に住み魚を食べていた漁民、住民全てが発症したわけではない。当然のことだが、メチル水銀に汚染された魚介類を摂食した量が多ければ体内に蓄積されるメチル水銀の量も増え、中毒症状を起す危険性も高まるのである。
埼玉県に住み都内に通勤するサラリーマン家庭に育った俺は、漁村に住む人々の生活ぶりが全く想像もつかないが、多くの水俣病患者の証言によると、俺から見れば信じられないほど魚介類を大量に、しかも毎日食べていたようである。
「私は御所浦という島で生まれ育ちました。この島は水俣から14、5キロの距離で、不知火海のちょうど真ん中辺りにあります。漁師の島で、米は全然とれない所です。昔は、半年は芋、半年は麦で、米いうたらお客さんがみえたときか病気になったときぐらいやった。だから魚がご飯で、芋・麦がおかずのごたる食べ方だったです。だけん、もう魚の食べ方が他とは全然違うわけです。いつも刺身が多かったですが、なかでも多いときは大きな魚鉢に三つぐらい、山ほど盛って食べ放題です。そしてそれを朝、昼、晩と食べよった。自分で捕って食べて、漁に行かない家には分けてあげて、もう島の人間はみんな魚を食っとるわけです」(「証言 水俣病」栗原彬/編、岩波新書658 P-57〜 荒木俊二さんの証言)荒木さんは漁船を新調し土地を買って家を建てるなど、比較的豊かな生活をしていたようだが(もちろん発病までは)、貧しい生活を送っていた人々も多い。
「私が小学校三年生の頃、戦時中でしたが、排水の影響でしょうか、磯についていた青のりや海藻が少なくなってきました。ズック靴で遊びに行くと青のりの上で滑って、転んでカキ殻で傷だらけになる。『わらぞうり履いて行け』ってよく叱られたもんですが、その青のりが少なくなる。イワシの群れも年を重ねるうちにしだいに少なくなって漁もなくなり、生活がどんどん苦しくなりました。その頃の貧しい生活は今の人には想像もできないと思います。障子の桟ばっかりが残った雨漏りのするような家に住んで、ちっちゃい舟に乗って一本釣りでボラやチヌ(クロダイ)を釣って、朝早く市場に持って行ってその日の生活費にする。毎日がその日をしのいでいる生活です。そこにあの病気が重なって働けなくなるときたらもうおしまいです。あれだけの大量の水銀を流されると、人の命なんか簡単に絶滅するわけです(同上P-71〜 大村トミエさんの証言)」こうした貧しい人々にとっては経済的な事情からも魚を食べないことなど不可能だった。水俣病患者が多発した後も、人々は「危ないと知りつつ、つい手が出た」のである。
1957年、行政が水俣湾での漁業を危険と知りつつも禁止していないことに対して、熊本大学が「漁獲を禁止しないのはとんでもないこと、全く非常に危険なことだ。警告を無視することは自殺行為に等しい」と述べた。これに対して地元漁業組合幹部は危険を認めつつも「極度に生活に困っている二、三の漁民が、最近区域(漁協の自主規制区域)以内で、近くで魚をとっていることを聞いた。地元では食うためにはしかたがないという声が出ており・・・」と、現状を説明している。
そもそも豊かな不知火海に住む人々にとって、魚を食べない生活など想像も出来なかっただろう。1971年に死亡したある患者は「生まれたときから、わしらは魚を食べていた、魚を食って水俣病になるわけはない」と、「もつれる言葉で頑強に」言い続けていたという(以上、「水俣病」原田正純/著、岩波新書 P-36)
浜元二徳さん(上の朝日新聞の記事の中の浜元二徳さんと年齢も同じですが、同じお方なのかは存じません。水俣病の語り部の浜元二徳さんという方もいらっしゃいます)は、1955年頃から手や口の痺れや歩行困難を起し、病院に行くと栄養をつけろと言われ、ますます魚を食べ続けた(同上P-6〜7)。これが症状を悪化させる原因になったのであろう。もっとも当時は魚がメチル水銀に汚染されていることは誰も知らなかったのだが。
・・・1956年4月、水俣の漁師の娘である田中静子(当時5歳)、実子(当時2歳)の二人が「奇病」を発病してチッソ付属病院に入院した。さらに保健所や熊本大学の調査によって他にも同様の症状が出ている者がいることが分かった。チッソ付属病院や水俣市保健所は、貧しい患者を入院させるために伝染病として隔離することにしたが、これが患者に対する差別の原因となる。以下は過去のエントリーから再掲。
患者家族はみな貧しく、治療費・入院費など出すことができなかった。しかも、奇病はうつるという恐れから、ほかの入院患者が恐慌をきたしてもいた。そこで、細川・伊藤らは、奇病は擬似日本脳炎ということにして、伝染病隔離病舎に収容することを思いついた。伝染病なら一切が公費でまかなわれて、患者の負担にならないからだ。ところが、7月下旬にとったこの措置が、奇病は伝染するという印象を強めてしまった。さらに、患者の出たまわりや共同井戸などをくりかえし丹念に消毒したので、奇病に対する恐れがつのり、患者家族に対する迫害差別が激しくなった。奇病が出た家では共同井戸を使わせてもらえず、夜遅くひそかに、あるいは遠くまで水を汲みに行った。子供は仲間はずれにされ、家族は雨戸をしめて閉じこもるなどした。(「水俣病事件四十年」宮澤信雄/著、葦書房 P-106)もっとも「奇病」の原因はチッソ工場の廃水にあることは誰もが疑っており、伝染病ではないかという疑いはしばらくして消えた。しかし(以前にも書いたが)旧日本軍爆薬説などとともに「アミン説」という、結論だけいうと「腐った魚を食べたのではないか」という侮辱、はたまた熊本県公衆衛生課長による「どんな毒物であるかまだわからないが、偏食によるビタミン不足、同地方に多い血族結婚による遺伝的因子も間接的原因として考えられる」(深井純一/著「水俣病の政治経済学」P-126)という聞くに堪えない侮辱も浴びせられた。
このような珍説が退けられ、原因がチッソの廃液であることが明らかになった後も、住民による患者への差別は続いた。
2年前のイラク人質事件の際に、一部の人間が人質の家族に対して陰湿な嫌がらせを行ったように、住民たちは患者やその家族を敵視したのである。
イラク人質事件は、アメリカがイラクを侵略し日本が加担したことが原因であり、水俣病は、企業が毒物を垂れ流し、それを行政が黙認したことが原因だが、被害の原因を作った側ではなく、被害者の側を憎悪するという、日本の特異な文化?がここにも見られたのである。
患者家族は座込みを続ける以外になかった。追いつめられ、孤立した人達の座込みであった。通りがかりに「奇病」と言ってそっぽを向く人、唾を吐きすてて行く人もいた。彼らは市内でデモをし、市や市議会の冷たさに抗議し、熊本県にでかけて補償斡旋に加えてくれるよう県庁前に座り込むなど必死だった。街頭カンパでは思ったより金が集まり、同情する市民がいることも知った。(「水俣病事件40年」P-269)
水俣病患者審査協議会の設置は、チッソと水俣病患者家族とが見舞金契約を結ぶ直前に決まった。水俣病の加害責任を認めないチッソにとって、見舞金は気の毒な隣人への涙金にすぎなかった。結果として被害者は、地域に君臨する会社への反逆者であり、会社から金をせびりとるものとみなされ、差別・迫害を受けた。「奇病になって金ばもろうてよかね」などという言葉が、患者家族にあびせられた。奇病そのものの恐ろしさもあって、人々は水俣病であることを隠そうとした。(P-281)
こんなこともあった。ある患者の家で、私はたまりかねて、どうしてこんなにひどいのに、10年も放っておいたのかとその妻に聞いた。その妻は畳に頭をすりつけ、悪るうございました、すみませんでしたとあやまるのである。あとになって、その意味がわかった。それは三十四、五年ごろ、当時認定された患者さんたちに対して、その妻は、「水俣病はよかねえ、寝とけば金がもらえる」などといやがらせを言って、よく患者家族を泣かしたのである。かつて加害者であった人が、いま、逆に被害者となった。なんと悲しい、現代版いじわるばあさんの物語だろう。(「水俣病」P-171)
この差別の動機の一つに、水俣市とチッソという企業の特殊な関係があったと考える。水俣市はチッソの「城下町」だったのである。両者には実に深い関係があったのである。チッソを誘致してから水俣村は町に、そして市に昇格した。元チッソ水俣工場長だった橋元彦七という男は、1950年から8年間、さらに1962年から6年間、水俣市の市長を務めた。地元民でチッソに勤務している者も多かった。「身内をたどればどこかに会社にかかわりのある人間」がいた(「水俣病事件四十年」P-323)。こういう事情が、チッソに被害を受けたことを明らかにしている者、公然とチッソを非難している者に対しての反感を生じさせたのだろう。
ところで、イラクで高遠さんら3人が人質になった際、家族は自衛隊の撤退という当然の要求(自衛隊はアメリカという強盗の片割れだから、撤退を要求して何が悪い?)をしたところバッシングの嵐を受けた。一方、香田証生さんの家族は自衛隊撤退しろとは言わなかった。高遠さんらの家族の受けた仕打ちを恐れたのかもしれない。
水俣では自分や家族が明らかに水俣病の症状があるにもかかわらず、患者であることを認めようとしない者も多かったそうだが、イラク人質事件と同様に差別・嫌がらせが彼らを萎縮させる原因になったのかと思うが・・・暴言やあからさまな差別がなくとも、周囲の視線や噂だけでも堪えられなかったことだろう。この民度の低い国では何らかの被害に遭うことだけでも不徳とされるのである。
さらに忘れてはいけないことは、患者の側にも問題があったことである、患者たちはこのチッソの支配する町の中で、なるべく病気を隠そうとした。たとえば四十五、六年になってすら、私たちはしばしば診察を拒否され、申請を拒否する人々に出会った。その理由は、「チッソがなくては水俣は成り立たない、チッソをつぶしてはいけない」というのである。さらには、「娘がいて、縁談に差しつかえる」とか、「魚が売れなくなるから、漁協のみんなに申しわけない」という理由など、さまざまである。また「水俣病事件四十年」では、上で引用した部分に続けて次のように述べている。
私たち研究室にいるものにとっては、このような意見は最初はまったく理解できなかった。患者たちは、「チッソが傾けば水俣も傾く」という。しかし、この人たちは、いったいチッソからなにをしてもらったというのだろう。少なくとも漁師にとっては、それらはなんらプラスにならなかったはずである。魚はとれなくなり、漁場はうばわれ、おまけに肉親やみずからの体まで蝕まれたにもかかわらず、彼らはチッソがないと、自分たちはやっていけないというのである。江戸時代、百姓たちが年貢をとり立てられ、自分たちはおかゆをすすりながらも、「やはり殿様がいるから自分たちはこうして百姓がやっていける」といっていたのと、それくらい差があるのだろうか。しかし、私たちは、そのことを笑うことはできない。私たちの心の中にも、そのような意識の構造が全くないと、誰が言い切れるであろうか。(「水俣病」P-170〜171)
それに加えて、日本人に共通する権力者への迎合意識が、チッソに向けられたように思われる。権力者の意に沿うことに快感をおぼえるかのような前近代的心性(今日でも多くの選挙民が持っている)である。(同ページ)被害者への差別も、被害者が口をつぐんでしまうのも、共に日本人の「前近代的心性」がもらたしたようである。
・・・・それでは、この一連の投稿で書き散らしたことを振り返り、水俣病事件の性質を考えてみることにする。
最初にチッソの廃水の犠牲になったのは海の中だけで食物を得る魚介類であり、ついで海鳥、魚を好む猫が犠牲になった。
そして魚中心の食生活をしていた貧しい漁民が犠牲になった。弱い者から順に犠牲になるのである。
企業は自らの責任を否定し続け、行政もそれを助けた。厚顔無恥な御用学者は疑惑を否定するために荒唐無稽な論を展開した。
行政の姿勢は一貫して経済優先であり、被害の拡大阻止を怠った。国家にとって国民の生命を守ることよりも、国策企業を擁護することの方が大切なのである。
“ムラ社会”に生きる住民たちは、加害者を糾弾するよりも被害者を攻撃することを選んだ。被害者も沈黙させられた。
その後も政府は責任を回避し続けている。こうして事件は未だ解決に至っていない。
このような水俣病事件に於ける現象は、この国で起きた様々な企業や国家の不祥事に共通しているではないか?
一貫して経済中心のこの国は戦前から自然破壊を続け、往々にして国土の破壊を続ける企業は優遇されている。
ハンセン病患者は戦後も長い迫害と偏見の中で暮している。患者に脅迫状が送られたこともある。
江戸時代、被差別部落は支配される側を分断する目的で固定化されたが、封建社会が終焉したことを知らないのか差別意識の抜けていない人間も多い。
厚生省は薬害エイズ被害を放置していた。アスベスト問題はこれから国民にのしかかってくるだろう。
イラク人質事件では被害者がバッシングに晒され、事件が起きた原因である自衛隊イラク派遣は今も継続している。
中国残留孤児の問題は棄民政策が原因であり、孤児たちは帰国後も厳しい生活を強いられ、差別を受けている。ネット上では彼等を中傷する書き込みもある。ドミニカ移民政策についても同じである。
この国の歴史に於ける最大の人災だったアジア・太平洋戦争の被害は未だ清算されない。それどころか、この侵略戦争を肯定するような論議が歴史学者という肩書きを持つ人間によって展開され、それを支持するような人間が代議士となっている。また政府はアメリカ帝国主義に協力して新たな戦争の道を進もうとしている。
これらの事例と共通する事例を全て含んでいるのが水俣病事件なのである。この醜い国の「縮図」だと言えるだろう。(タイトル変えて続く)