1959年12月、熊本県知事が「責任を認めない見舞金なら出してよいという会社の意向を確かめ」、チッソと患者の間の補償交渉を仲立ちすることにした。
こうしてチッソと「水俣病患者互助会」の間に結ばれた「見舞金契約」は、
「死者一時金30万円、成人患者年金10万円、未成年患者年金1万円(後に3万円)」
という小遣い程度の金額を与える見返りとして、
「乙(患者家族)は将来水俣病が工場排水に起因するものが決定した場合においても新たな補償金の要求は一切行わないものとする」
という条件を呑ませるものだった。さらには「水俣病患者審査協議会」が認定した患者に対して見舞金を支払うという条項があり、これが後の補償交渉の障害となった。(「水俣病事件四十年」P-270〜271)。
1962年11月、「水俣病患者診査会」が、脳性麻痺児童を胎児性水俣病であると認定した。パート1で書いたが、当初胎児性の患者は水俣病と認められず、単に「脳性麻痺」と片付けられていた。この現実にショックを受けた原田正純氏(現在熊本大学医学部助教授)は粘り強い調査と追及を重ねるのである。
しかし原田氏に対して医師への不信を訴える者も多かった。
「先生方から何度も何度も診てもらうのはありがたいが、先生方もたいへんだとは思いますが、診察があるというと付添いの親は一日仕事を休まなければならないし、またこの子どもをバスに乗せて連れて行くのは、ほんとうに恥ずかしいし、いやなのです。
いつも連絡があるたびに、もう決して(診察に)行くまい、行くまいと決心するのですが、やっぱり市役所の人に悪いし、せっかくだからと思い、ひょっとすると今度はなにか結論が出るかもしれないと思ってくるのですよ」
「同じ年に同じような、こんなかたわの子どもが三人も四人も、同じ部落に生まれてくるということはただごとではないでしょう。私は水俣病と思います。先生たちがなんと思われようと、私は水俣病以外にこの子どもたちの病気は考えられないと思います。もし違うと言われるならば、なにが原因か教えて下さい」
「最初のころ九大の偉い先生が見に来られたけれども、さあっと見て、これは脳性小児麻痺ですと言われました。よく調べもせんで。それ以来この子どもは脳性小児麻痺ということで放り出されているのですよ。その偉か先生たちはそのあと湯之児の温泉に、会社の人たちと車で行かれるのを、ちゃんと見ていた人がいるんですから」(原田正純/著、岩波新書「水俣病」P-77〜78)
患者家族の貧しい生活と周囲の偏見、そして必死に責任追及から逃れようとするチッソと行政の態度が、胎児性患者の認定を困難にしたのである。原田氏とは別個に調査していた宇井純氏は、胎児性患者の認定が拒否されていることに対し調査報告書に、
「小児科においては何等かの政治的配慮あるものの如く、答弁明確を欠く感あり。このことは県の環境衛生課長も指摘していた」「会社側はどうやらアルデヒド工場の排水で発症に成功したと思われるふしがある。と記していた(水俣病事件四十年P-358)。水俣工場では工場廃液を猫に直接与える実験が密かに行われ、1959年10月猫の発症が確認されたがもちろん公表されなかった。魚介類を食べなくとも、工場廃液に含まれる毒物を経口あるいは胎内で摂取すれば水俣病を発症することは、当時のチッソや行政にとって隠蔽しなければならない事実だった。
熊本衛研の(毛髪)調査は、何とかして続けさせる必要がある」
しかし原田氏や宇井氏らの調査・研究によって患者らが胎児性の水俣病であることが明らかになっていったが、依然として行政は水俣病認定を避けていた。患者の母親らが市役所に医療費援助を求めても、「保健所に行け」、保健所に行くと「大学で研究中だ」などとたらい回しにされていた。「あまつさえ、だれか一人が死んで解剖させてくれたらわかるというのである」(「水俣病」P-81)
1961年3月、一人の胎児性患者が死亡し解剖され、メチル水銀による病変が確認されたが、他の患者については「一人は水俣病であるとわかったが、ほかの子どもたちがみんなそうだということはまだわからないので、もう一人死ねばわかる」として、認定は行われなかった(「水俣病」P-82)。
翌年9月二人目の患者が死亡し、解剖結果によってやはり水俣病だったことが明らかになり、「水俣病患者診査会」は11月にようやく患者全員を胎児性水俣病患者と認定した。チッソから16名の患者への見舞金は、総額350万円という額であった。
1968年8月13日、熊本日日新聞に「水俣病患者家庭互助会は政府の公害認定があっても、訴訟しないことを再確認し、会員から確認書をとった」という記事が載る。当時NHKアナウンサーだった宮澤信雄氏はこの記事で水俣病への関心を持ったという。(水俣病事件四十年P-17)
同年9月26日、政府は、水俣病はチッソが原因である公害病であることを認定した。これはチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造プラントが不要になったことを受けてのことだった。
この時点で水俣病であると認定されていた患者はわずか111人だったが、政府の公害認定声明があってからようやく認定されていない患者が名乗り始めた。
1969年、「水俣病患者互助会」は、厚生省の要求に応じようとする「一任派」と、あくまで交渉を続けようとする「訴訟派」に分裂する。
同年6月14日、「訴訟派」がチッソに対する損害賠償訴訟を起す。(熊本水俣病一次訴訟)
1970年2月、「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」が施行された。患者の一人であり水俣病の救済に生涯をささげた川本輝夫さんはこの年の6月に患者認定を棄却されたが、「特別措置法」には「患者認定を棄却された者は異議申し立てが出来る」という文言があることに気付き、同年8月、行政不服審査を始めた。
1971年8月、川本さんらの努力が実り、環境庁が水俣病患者認定についての裁決を下し、川本さんらも患者として認定した。
「当時『月光仮面、正義の味方』といわれていた大石武一環境庁長官が、『県知事の決定は間違っており取り消す』という裁決を出してくれて、私は昭和46年の10月に水俣病患者として認定されました」(「証言 水俣病」栗原彬/編 岩波新書 P-101)。この時に定められた基準は「四六年判断条件」と呼ばれる。これは、
「『四肢末端、口囲のしびれ感にはじまり、言語障害、歩行障害、求心性視野狭窄、難聴などをきたすこと・・・』そういう症状のどれかがあって、それが明らかに他の原因による場合は別だが、汚染魚を食べたためと認められる場合は、合併症があっても水俣病とする。毛髪や血液の水銀量データがなくても、生活歴や家族の罹患状態などから、その症状が有機水銀の影響であると否定できない場合は水俣病とする」というものだった(「水俣病事件四十年」P-419)。しかしこの判断基準は生かされることはなかった。
同年12月、川本輝夫さんらが東京のチッソ本社前で交渉を求めて座り込み開始、73年の7月まで続けた。チッソは厚生省の裁決も無視し補償を拒んでいたのである。翌年チッソ社員とのトラブルで川本さんは足を骨折する重傷を負った。しかし、
1972年12月、川本さんの方が傷害罪で東京地検に起訴される。
1973年1月、二次訴訟始まる。
3月、一次訴訟で原告勝訴。
4月、「熊本県認定審査会」の任期が切れ、「水俣病認定業務促進検討委員会」が設置。
7月、患者とチッソが補償協定を結ぶ。今後認定される患者も一次訴訟判決と同じ補償が受けられることになり、申請者は2000人を超えた。
しかし認定を受けるには困難を極めたのである。
「裁決と四六年判断条件にしたがって認定が進めば、チッソの補償負担が莫大なものになることは明らかだった。認定を促進することは、チッソの経営危機に直結し、チッソがつぶれればその影にかくれていた熊本県や国の責任が問われることになる、いまや、認定制度はチッソのためではなく、行政のための防波堤という性格を強めた。その性格は、のちに1978年、チッソが支払うべき保証金を熊本県が県債の形で肩代わりするようになると、いよいよあらわになってくる」(同上P-431〜432)1974年7月から8月 にかけて、「水俣病認定業務促進検討委員会」が実施した「集中検診」が行われたが、「申請者の人権を無視したものだったため、抗議と検診拒否が起こった」。
「検診の時に、なんのために申請したかと聞かれた」極力認定しないためにこのような嫌がらせが行われたのだろうが、なぜ患者をこれほど憎悪するのだろうか?
「補償金がほしいからかと言われた」
「知覚検査では、どこも同じように感じると答えるまで針でつつく」
「小さい針で触れても感じないと答えると、注射針で全身血が出るまでつつかれた」
「視力検査で、よく見えないと言うと、よくここまで来られましたねと馬鹿にするように言われ、光を目で追う検査では、皆ができるのにと何十回もやらされた」(同上P-435)
さらに、
1975年には「ニセ患者キャンペーン」も起こった。
「一部の週刊誌は審査会委員の発言として、本当の患者は申請者の10%に過ぎないと伝えた。熊本県議会の公害対策特別委員である杉村国夫と斉所一郎までが、陳情に行った環境庁でそのような発言をした」昨今の弾圧事件を連想させるような事件も起こった。
「県議会に抗議に行った申請患者協議会のメンバーと支援者が、暴行の共同謀議のかどで逮捕起訴された。くわしく述べる紙数はないが、いわゆるデッチあげだったことは明らかで、私たちは『患者謀殺事件』と呼んだ」(同上P-437)このとき「県議会議員のニセ患者発言」に対する抗議行動で逮捕された緒方正人さんは「そのほかに何度も逮捕されかけたことがありました。それもひるまず闘いを続けてきたわけです」と語る。(「証言 水俣病」P-187)
また、1964年に発生した新潟水俣病の患者認定は、1973年から認定される患者数が少なくなったという。新潟審査会会長の椿忠雄・新潟大学教授は、県議会で「今までの認定審査は甘かった。去年秋から(認定の仕方をきびしく)変えている」と述べた。斉藤恒医師が、椿教授に対して認定枠が狭くなったことについて問いただすと、「それでは国や昭電はどうなる」と反論したという(水俣病事件四十年P-438)。それでは認定からはじかれた患者はどうなるのか、と問い返したいものである。患者の生命よりも国の財政や昭和電工の経営の方が大切だと言い放ったに等しい。同時に熊本県でも審査委員が、1971年の「判断基準ではあいまいでわかりにくい、としきりに言い立てたのである」。(同上)
1975年6月環境庁は、「認定業務促進検討委員会」を発展的に解消して「認定検討会」を設置すると発表した。この座長に上述の椿教授が就任、「四六年判断条件」の反故に着手する。
1976年5月、チッソの吉岡喜一元社長、西田栄一元工場長が、業務上過失致死で熊本地検に起訴される。(水俣病刑事裁判)
1977年6月、川本さんが起訴されたことは「公訴権乱用」であると東京高裁が判断、公訴棄却判決。
同年6月、「認定検討会」が通称「五二年判断条件」を提示。これが現在まで続いている水俣病認定基準である。この基準は【ア】から【エ】まで4項目ある。
【ア】 感覚障害があり、かつ、運動失調が認められることこの4つの条件のいずれかに該当する場合認定される。しかし宮澤信雄氏は、
【イ】 感覚障害があり、運動失調が疑われ、かつ、平衡機能障害あるいは両側性の求心性視野狭窄が認められること
【ウ】 感覚障害があり、両側性の求心性視野狭窄が認められ、かつ、中枢性障害を示す他の眼科又は耳鼻科の症候が認められること
【エ】 感覚障害があり、運動失調が疑われ、かつ、その他の症候の組合せがあることから有機水銀の影響によるものと判断される場合であること
「運動失調はよっぽどひどくなければ『疑い』とされるのが普通だから、アの項目は無いのに等しい」と指摘する。(同上P-439〜440)
「イ以下は、求心性視野狭窄をはじめとする、すべての症状がそろっているかということ」
「エはその総括」
つまり患者を切り捨てるための改悪だったのである。水俣病認定は非常に高いハードルになってしまった。
1978年8月、認定を棄却された御手洗鯛右さんら4名が、棄却処分取り消しを求める行政訴訟を起す。
同年12月、「水俣病認定審査患者協議会」(現在の水俣病患者連合)が、認定を申請したのに保留処分になり長く待たされていることの損害賠償を求める訴訟を起した。これは「待たせ賃訴訟」と呼ばれる。前回投稿で紹介した荒木俊二さんもこの訴訟に加わった。
1979年3月、二次訴訟判決、原告14人中12人が水俣病と認められる。
同月、水俣病刑事裁判で吉岡・西田両被告に禁固3年執行猶予3年の判決が下り、被告は控訴する。
1980年5月、未認定の患者がチッソと国、熊本県に損害賠償を求める「第三次訴訟」を起した。
同年12月、川本さんに対する検察の上告を最高裁が棄却。公訴棄却判決が確定。
1982年10月、関西に移っていた患者たちが独自に「関西訴訟」を起す。
1983年7月、「待たせ賃訴訟」で原告勝訴、熊本地裁は県に賠償を命じるが、県は控訴する。
1984年5月、東京訴訟提訴。
1985年8月、「第二次訴訟」の二審判決で「五二年判断条件」が批判されたが、環境庁や「医学専門家会議」は従わなかった。
同年11月、「待たせ賃訴訟」二審で福岡高裁は熊本県に賠償を命じるが県は上告する。(1991年、最高裁は二審判決を差し戻しにする)
1986年3月、棄却処分取り消し訴訟で熊本地裁は御手洗鯛右さんらの主張を認め、水俣病と認める判決を下す。熊本県は控訴する。
同年7月、環境庁と熊本県は「特別医療事業」を実施。「他の原因では説明できない四肢末梢の感覚障害」があるが認定を却下された患者を対象に、再申請しないことを条件に医療費を三年間支給するというものだった。
1987年1月、緒方正人さんが認定申請を取り下げる。
3月、第三次訴訟一審判決、国と県の責任を認める。被告は控訴する。
1988年2月、福岡訴訟提訴。
1990年9月、東京地裁は原告被告双方に和解勧告を行なう。以後、各地の裁判所も和解勧告を出す。
11月5日、環境庁長官が水俣現地視察に出発したその日に、山内豊徳環境庁企画調整局長が自殺。(参考)
「つい1ヶ月余り前、関係閣僚会議の決定を受けて『国に責任はない。和解には応じない』という見解を読み上げた、その直後である。その悩みがいかに深かったか、察せられる」(同上P-449)11月21日、福岡高裁にて原告・熊本県・チッソの三者による和解協議が始まる。国は不参加。
1991年4月、最高裁は待たせ賃訴訟二審判決を破棄差し戻しにする。
1992年2月、東京訴訟判決、国・県の賠償責任を認めず。
3月、新潟二次訴訟判決、国・県に賠償責任を認めず。
1992年12月、大阪地裁は和解勧告を出すが国は拒否、被告側も応じず。
1993年3月、熊本第三次訴訟二審判決、国・県の賠償責任を認める。4月、被告は控訴する。
1994年11月、京都訴訟判決、国・県の賠償責任を認める。
1994年6月、日本社会党(当時)の村山富市が内閣総理大臣に就任、「自社さ連立内閣」が発足。しかしこれ以降革新勢力は衰退していくことになる。
村山は7月20日の衆議院本会議にて自衛隊は合憲であり、日米安保条約を堅持すると答弁。また8月には、桜井環境庁長官が日本の戦争は侵略戦争ではなかったという発言を行い、直後に撤回するが辞任に追い込まれる。(参考)この連立政権の脆弱さを象徴する事件だった。
7月11日、関西訴訟一審判決(大阪地裁)、国・県の賠償責任を認めず。
1995年9月、環境庁が「水俣病最終解決案」を提示。以後各団体とも受諾する。
これはチッソが認定されていない患者に一時金(一律260万円)を支払い、また各団体へ加算金を支給する代償として、訴訟の取り下げ・自主交渉の断念を要求するものだった。つまり認定されていない水俣病患者に対し一切の申し立てを禁ずるための「政治決着」だった。
水俣病であることを否定された未認定患者が、それだけの一時金を受け取り、総合対策医療事業で救済されたことは意味がある、すべてを合算すれば、福岡高裁の和解金に近い金額を受け取ることになる、と言われた。しかし、総合対策医療事業は3年区切りの措置であることを忘れてはならない。
そして、何度目かのくりかえしになるが、その対象者、ほかの原因では説明できない四肢末梢優位の感覚障害がある人というのは、四六年判断条件からすれば水俣病なのであって、医療救済も生きている間は受けられたのだ。それが権力の都合で、五二年判断に改められ、水俣病でないことにされたのだった。(同上P-461〜462)
1996年5月、11件の損害賠償請求訴訟のうち、関西訴訟を除いた10件について、原告側が訴訟を取り下げる。
2001年4月、「関西訴訟」の大阪高裁判決が下り(参考)、国・県の責任を認め、賠償を命じた。被告は控訴。
2004年10月15日、「関西訴訟」の最高裁判決が下り、(参考)国・県の責任を認め、賠償を命じた。感覚障害のみの症状でも水俣病として認めるべきだという高裁判決を支持するものである。
しかし環境省は「最高裁は、基準見直しまでは求めていない」と認定基準緩和を拒否する(2006年4月25日朝日新聞特集より)。ここに「五二年判断条件」を堅持しようとする行政判断との「二重基準」が生じた。
2005年10月3日、「水俣病不知火患者会」(会員は未認定患者)が、国・熊本県・チッソに対して損害賠償訴訟を起す。翌日、小池百合子環境大臣(当時)は記者会見で「認定基準の見直しは一切、考えていない」と述べる。(参考)
ちなみに「水俣病被害者互助会」も提訴の方針だという。言うまでもなくこの団体も未認定患者で構成されている。
水俣病の公式確認から半世紀を経た現在でも、国は責任を果たすことを拒んでいるのである。
11月、環境省が「水俣病総合対策医療事業保健手帳の審査結果」を発表。
「医療手帳」「保険手帳」の保障範囲が拡充された。(詳細)
「保険手帳」とは、「95年の政治決着の際、医療手帳の対象外とされた軽症者」に交付されたものである(過去ログ参照)。
「平成18年版 環境白書 総説2 環境問題の原点 水俣病の50年」によると(全て今年3月末時点でのデータ)、
「総合対策医療事業」の対象者は、
医療手帳8200人、
保険手帳2596人、
そのうち「平成17年10月以降新規申請し保険手帳を交付された者」は1987人。
また、2004年の関西訴訟最高裁判決後、「3765人(保険手帳の交付による取下げ等を除く)が公健法の認定申請」を行い、
「876人(その大部分は公健法の認定申請者)は、チッソ、国及び熊本県を被告とした国家賠償等請求訴訟」を起している。水俣病補償問題はまだ始まったばかりである。