過去ログ移転作業の続き。
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三光作戦
投稿番号:18682 (2003/07/28 18:23)
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内容
「中国語の『光」(guang)は、動詞のあとについて副詞的な機能をはたし、『〜しつくす』(あとに何も残らない)という意味を付加するという。たとえば『用光』は『使い果たす』の意」(教育社歴史新書135 黒羽清隆・著「日中15年戦争」P-214より引用)
日本軍が中国大陸で計画的に行なった、民間人無差別殺戮・村落破壊+物資略奪・強制移住がセットになった作戦を、中国側は「殺しつくし(殺光)、焼きつくし(焼光)、奪いつくす(搶光)、『三光』作戦」と名づけて恐れました。これはその名の示す通り、中国人を殺しつくし、中国人の生活環境を破壊しつくし、中国人の生活の糧・生存の手段を奪いつくすまで、決して完結することはない作戦だったのです。
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日本は1931年に中国東北部を侵略して傀儡政権を打ち立て、そして1937年からは中国全土に対して本格的に侵略を開始し占領地を拡大しますが、蒋介石は重慶へ遷都して徹底抗戦を宣言し、停戦の道は固く閉ざされました。1940年3月には汪兆銘を首班に据えた「中華民国国民政府」という傀儡政権を成立させますが、それは日本軍の力が無ければひと時たりとも存在し得ない空中楼閣に過ぎませんでした。日本軍の力は広大な中国大陸の中で占領地を支配し続けるには余りにも微弱で、「点と線」(主要都市とそれをつなぐ主要幹線)の支配に止まりました。
また、蒋介石の国民党軍よりも、次第に中国共産党の八路軍・新四軍が大きな敵となって日本軍に立ちふさがってきたのです。民衆と一体化した彼らの抗戦によって、日本軍は「点と線」の支配さえ、危うくなったのです。
もちろん、いくら八路軍に民衆の支持があったといっても、兵器の質・個人の能力で遥かに勝る日本軍に真っ向から立ち向かっても勝ち目がありません。当然ゲリラ戦術にて抗戦することになったのです。
元八路軍兵士・歴史研究家の「陳平」という人によれば、民衆は日本軍を監視する連絡網を組織し、日本軍の移動に伴い手薄になった拠点があれば民兵が狙撃し、追撃を受ければ脱兎の如く行方をくらましたそうです。そして日本軍が進攻し確保した地点はとっくにもぬけの殻になっており、民兵は他の地点から狙撃を加え、このイタチゴッコが延々と続いたそうです。こうしたゲリラ戦術を八路軍側は「スズメ戦術」と称していました。(青木書店 姫田光義・陳平(丸田孝志訳)共著・「もうひとつの三光作戦」より)
北支那方面軍参謀部の「北支ニ於ケル共産軍ノ戦法ト特性」によると、日本軍側はこのようなゲリラ戦を「狐狸咬鶴戦法」(一撃後に速攻で撤退する)「臼引き戦法」(日本軍に対する包囲網を常に維持し、虚に乗じて攻撃する)「蝿戦法」(敵の大軍が攻めれば引き、引けば攻め、敵が小部隊なら包囲殲滅する)「爆弾戦法」(日本軍の協力者の中の内通者を利用して攪乱する、日章旗を掲げて傀儡軍を装い進入し襲撃する)と呼んで手を焼いていました。(朝雲新聞社・昭和46年10月発行 防衛庁防衛研修所・戦史室「戦史叢書50・北支の治安戦A」の、P-618〜619より引用しました。朝雲新聞社とは自衛隊の機関紙です)
こういった戦闘は、八路軍と中国民衆の強い結びつきと信頼によって初めて可能となるものでした。民衆は日本軍の動静をつぶさに観察し報告し、八路軍に物資を供給し、日本軍の物資強奪を不可能たらしめ、そして民兵として抗日戦に参加したのです。
このような民衆と八路軍の一体化を目撃したアメリカ人ジャーナリストは驚嘆を隠せなかったようです。
「中国人の抵抗の第一線は、諜者と地下工作員とで構成された。日本軍が掃蕩戦を開始するときには、中国軍はいつでも事前に、その情報を受け取っていた。そしてその兵力はすぐさま危険の迫っている地域から移動し、日本軍が立ち去ったばかりの鉄道線路や兵舎に攻撃をかけた。したがって双方の側がその位置を取りかえただけであった。日本軍は攻撃をかけた地域には一兵も見出さず、立ち去ったばかりの位置に攻撃が加えられているのを知った。
だが、これらの地域で採用されたもっとも有名な戦法は、“堅壁清野”の名で知られている方法だった。これは持久戦術と名づけることのできるものだった。日本軍が進撃してくるに先立って、家具や穀物や家畜や、およそ日本軍に役立つものを洞穴に移すか用意した隠匿場所に埋めてしまうし、住民は全部その地域から撤退してしまった。道案内一人見つけることができなかった。攻撃が山中で行なわれるときには、民兵があらゆる崖の上に陣取ったし、平原の場合には、地下トンネルに陣をかまえた。
日本軍が進攻すると、四方八方から狙撃兵の弾丸を浴びた。狙撃兵は、偶然にかきあつめられたものではなく、村単位に選び出されたえりぬきの射撃の名手で揃えられていた。日本軍は、分散されられるのをいつもおそれていた。一つの山からの銃声をきくと、かれは“八路軍がいるぞ”と言う。だが、彼らが臼砲や重火器をかついで山によじ登ってみると、もう一人の兵隊も見つからなかった。そこでまた前進する。するとまたもや、別の峰の上から狙撃される。そこで再びその山に掃射を加えて捜索するが、何の獲物もないのだった。
こういうことを二、三度繰り返して何も見つからないと、そこではじめて日本軍は安心を覚え、斥候を引っ込めて急速に前進する。だがまさにこの時、この目的のために伏せられていた正規兵の派遣軍が大挙してかれらを攻撃し、日本軍が立ち直らないうちに大打撃を与えた。日本軍がさらに山中に突入しようとすると、かれらは山の斜面一帯に植えつけられた手製の手榴弾に突っ込んだ。日本軍の兵力が相当に強力な時には、民兵は狙撃するだけで満足しそれ以上の攻撃は加えないが、もし本隊から分かれて小兵力の分遣隊が出れば、民衆は鳥銃や手製の臼砲やいろいろな獲物を手にして攻撃を加えた。
“堅壁清野”という言葉に暗黙裡にふくまれている持久戦は、社会のほとんど全成員の協力があってはじめて遂行できる種類の戦いである。こういう協力は工業化した西洋社会にはめったに見出されないし、中国の農村にあっても、のべつに見られることではなかった」(J・ヴェルデン「中国は世界をゆるがす」―――黒羽清隆・著「日中15年戦争」より)
また多くの場合、抗日戦・抗日情報戦は不正規兵――――つまり民兵、いわゆる「便衣兵」――――の活動によって行なわれていたようです。
「共産軍根拠地剔抉ノ参考」によると、
「敵情報員、工作員等は県民証を所持し皇軍分駐地附近に在りても公然良民を装ひあること多し」
「敵匪は我が攻撃、掃蕩、検索等に遭遇し逃走不能と判断せる場合は通常農夫に扮し所在農具を携行し労務中なる如く装う」(「北支の治安戦A」P-413より)
前出の「北支ニ於ケル共産軍ノ戦法ト特性」によると、
「(共産軍は)常に便衣隊、遊撃隊を交互に拠点附近に潜伏せしめ我が部隊出撃に際して其の小部隊を捕捉し各個撃破に出す」(同上P-618より)
このように不正規兵は大いに活躍し、日本軍は「匪民分離」(ゲリラと一般民衆の選別)に苦慮し、身体検査で銃を担いだらできる「タコ」を探したり、不意に軍隊式の号令をかけたり起床ラッパを吹いたりして反応を確かめたそうです。(これも同上P-419〜420より。笑っちゃうような話ですね)
また、朝枝第一軍参謀の回想によると、
「八路軍の抗戦意識は甚だ旺盛であり、共産地区の住民も女、子供が手榴弾を『ざる』に入れて運搬の手伝いをするなど民衆総がかりで八路軍に協力した」(これは昭和43年8月発行「北支の治安戦@」P-357より)
ということです。
このように中国の老若男女は八路軍と共に侵略者を排除しました。民衆から八路軍への多大な協力があったというよりも、中国民衆が侵略者を追い払うために八路軍という組織を利用し、共に戦ったと言えるでしょう。そして、このように民衆の信頼を得た八路軍だからこそ、日本軍に痛撃を加えることができたと言えるでしょう。
八路軍総司令・朱徳の遺した発言に、八路軍と民衆の分かちがたい結びつきを窺い知ることができます。
1940年7月に「延安幹部会議」の席上で「八路軍が華北の抗戦を堅持してきた三年間」と題した報告の中で「八路軍の勝利」の「10の原因」の一つとして、
「我々が真に『軍民一致』を達成し、大衆との間に水と魚、血と肉のような不可分の親密なつながりを結んだことによる」
と述べました。また1943年7月7日の「抗戦六周年記念日」の集会にて、次のように演説したそうです。
「・・・・我々の力と権力とは全て人民からくる。そして、我々の方策・手段は、全て人民が作り出したものである。人民の力を頼りにして、我々は敵を打ち負かし、あらゆる困難を克服した。我々はただひとつの秘密兵器をもっている――――それは、人民との完全な結合である。我々がもし、大衆から孤立していたとしたら、とっくに失敗していたに違いない」(黒羽清隆・著「日中15年戦争」より)(しかしこのように民衆の支持を得て政権を獲得した中国共産党が、その後国民を弾圧し餓死に追いやり、現在に至るも思想言論の自由のない社会を作ってしまったことは残念の一言です)
日本軍はこのように民衆と一体化した中国共産党軍(八路軍・新四軍)を打ち破る為に、捕捉殲滅が殆ど不可能といえる共産軍ゲリラだけを直接追撃することをあきらめ、共産党軍が根拠地とする農村の破壊を思い立ったのです。
ゲリラ容疑者・ゲリラ協力容疑者を捕縛・殺害し、二度とゲリラの根拠地とならないために村落を焼き払って消滅させ、ゲリラに供給される恐れのある食糧を押収し、農民を強制移住させたのです。こうして日中戦争に於いて「三光作戦」と呼ばれた残虐な作戦が始まったのです。
2011年06月30日
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