2011年06月30日

過去ログ倉庫移転:三光作戦(2)殺戮作戦

 過去ログ移転作業の続き。

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Re(1):三光作戦
投稿番号:18683 (2003/07/28 18:26)
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内容
1940年8月20日、総司令・朱徳率いる華北の八路軍の「百団作戦」と称する大規模な攻勢が日本軍に大打撃を与えました。115団約40万人の軍勢が、一斉に日本軍の交通・通信網や拠点に対して奇襲攻撃を行い、鉄道線路・橋梁の爆破、電柱倒壊・電線の切断、小拠点の守備隊の襲撃、炭鉱設備の破壊など、日本軍に甚大な被害を与えたのです。

これは日本軍に、それまで軽視していた対八路軍戦略を一変させることになりました。民衆の厚い支援を受け縦横無尽に日本軍を翻弄する八路軍に対抗するために、八路軍と民衆の分断を狙いましたが、それは民衆に対する無差別虐殺に直結したのです。
北支那方面軍の第一軍参謀長田中隆吉少将は、「徹底的に敵根拠地を燼滅掃討し、敵をして将来生存するに能わざるに至らしむ」ことを指示しました。そして北支那方面軍は「第一期晋中作戦復行実施要領」に於いて、八路軍ゲリラとそれを支援していると見られる村落、民衆に対して次のような「燼滅目標および方法」を掲げました。

一、敵および土民を仮装する敵・・・・・・・・・・・・・・殺戮
二、敵性ありと認むる住民中十五歳以上六十歳迄の男子・・・殺戮
三、敵の隠匿しある武器・弾薬・器具・爆薬等・・・・・・・押収携行、止むを得ざるときは焼却
四、敵の集積せりと認むる糧秣・・・・・・・・・・・・・・押収携行、止むを得ざるときは焼却
五、敵の使用する文書・・・・・・・・・・・・・・・・・・押収携行、止むを得ざるときは焼却
六、敵性部落・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・焼却破壊
(青木書店「十五年戦争史A日中戦争」より引用)

これぞ、「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」三光作戦以外の何物でも、ありません!
日本軍は八路軍に対抗するために、一般民衆に刃を向けることを決意したのです。
当初日中戦争は日本軍と蒋介石の国民党政権との戦いであったのですが、
この段階に於いて(侵略)国家と、(被侵略国の)民衆との戦いに転じたのです。

こうして北支那方面軍は三光作戦に没頭することになります。独立混成第四旅団「昭和十五年十月十九日――十一月十四日 第二期晋中作戦戦闘詳報」によると、「敵軍事施設ある部落の燼滅には特に徹底するものとす」「前進に方りては(あたりては)徒に速度を延長することなく、進路両側を成可(?)広範囲に亘り徹底的に燼滅するものとす」などの命令が下され、「十月二十五日 寺子岩――姚門口間東西約六粁に亘る間の村落を徹底的に燼滅」「十一月五日 燼滅部落 背庄――大有鎮沿道部落、大有鎮付近及其の付近部落十六ヶ所燼滅」(同上より)という連日の作戦によって、多くの村落を焼き払い、物資を強奪・破壊焼却し、「便衣化せる敵を剔抉剿滅」しました。
こういった作戦について「粛正討伐ノ参考」(昭和十八年5月 北支那方面軍司令部)は、
「討伐粛正の目的は地点の確保に非ずして敵を捕捉殲滅するを主眼とす 単に遺棄死体の数の増加は必ずしも敵の損害を意味するものに非ずして往々多数の住民を含むことあり 鹵獲兵器の数は真戦果の重要なる証査たることに留意するの要あり」(「北支の治安戦A」P-412より)
と注意を促しています。「討伐粛正」によって多数の民間人が殺害される場合も多かったのでしょう。

(ちなみに「現代史資料L 日中戦争D」(みすず書房)P-643〜644の、
「戦時月報資料(四月分)昭和十七年五月二十五日 北支那方面軍甲集団参謀部 昭和十七年四月中に於ける総合戦果表」では、
北支那方面軍の「戌」「乙」「仁」「極」「鷲」「冑」という六つの「集団」ごとの戦果を分類していますが、
これらを総計すると「遺棄死体」1万1002人、「俘虜」1万4769人、合計2万5771人に対し、
「鹵獲品」のうち小銃9100丁、山砲2門、迫撃砲52門、「重機」8台、軽機65台、自動小銃90丁(その他)ということですが、
このなかの「戌集団」は、「遺棄死体」167人、「俘虜」48人に対し、小銃の鹵獲数が26丁、自動小銃2丁、その他は拳銃、手榴弾などです。
「冑集団」は、「遺棄死体」114人、「俘虜」56人に対し、小銃の鹵獲数が29丁、重機・軽機が一台ずつ、その他は同様です。
また、同年度「戦時月報資料(九月分)」の「主要討伐状況一覧表(八月分)」(同上P-650〜)によりますと、
「戌集団 柴山部隊」の8月3日、7日の二つの戦闘に於いて、「遺棄死体」19人、「俘虜」が12人、「主要鹵獲品」が小銃5丁。
「乙集団 井関部隊」の8月中の4回の戦闘に於いて、「遺棄死体」が91人、「俘虜」が21人、「主要鹵獲品」が小銃16丁。
このように数々の戦果報告の中から、「遺棄死体」+「俘虜」と、「鹵獲」した兵器数が不釣合いなケースを見出すことができます。「往々多数の住民を含」んでいたことを示していると言えるでしょう)

・・・・元山西野戦軍副司令官の城野宏さんという人の証言によると、1940年の北京の北支那方面軍司令部の会議」「兵団長会議」にて「燼滅作戦」についての命令を受け、
「“注意事項”には、敵性地区の食糧は全て押収するか焼却すること、とにかくその場に食糧を残さないこと、そして、『敵地区には人を残すな、敵と協力するおそれのある人間は治安地区に居住させる等の手段を講じて、その場に存在させないように』という意味のことが書いてあった」
そうです。

「・・・・命令はもちろん、そのまま実行された。敵地区を燼滅せよというわけだから、男は見つけ次第殺す。命令には女を殺せとは書いていないが、これは、わざわざ書くまでもないというだけのことで、部落を壊し、男を殺してしまえば、女、子供、老人が残るわけです。しかし、敵地区を無人化するのが目的だから、どこかへ連れていくのがたてまえなんだが、彼女らを養う食糧もあるわけじゃない。
慰みものに使ったあとは、殺してしまうのが普通でした。こうして、命令というものは、うけた者によって既定事実がつくられ、どんどんエスカレートしていくのです。しまいには、こんな論理がまかりとおっていました。
“女は子供を作る。子供は将来抗日分子となるであろう。殺すべし。子供は、成長したらこれまた八路になる。殺すべし”とね」

「1941年には、やはり“燼滅スベシ”を趣旨とした大岳作戦が、山西省中部地区泌水県を中心に実施されました。第一軍全体の作戦で、このときは第四十一師団本部へ、某軍参謀がきて、“訓示”をたれているんです。
要するに、“殺しかたが足りない”と、どなりつけただけですが、司令部で部隊全員を集めて、
“諸君らは、この作戦の重要性がわかっていない。八路軍は、根拠地そのものを無人化しない限り、生きかえってしまいしぶといものなんだ、小節にこだわらず、この際人情はすて、命令を忠実に実行せよ”
といっていました。自分は今日、燼滅したはずの村へ行ってみたが、村人がチラチラうごいていた、こんなことでどうするのか、というわけですな。
そして最後には、おきまりの“聖戦遂行”で話をしめくくるという寸法です。
ある兵長は、これを聞いて、“こりゃやらにゃいかん”とばかりに、その日に、その村で女子供を六人洞窟に放りこんで、たきぎを投げこんで焼き殺してしましましたよ」(潮出版社「日本人は中国で何をしたか・中国人大量虐殺の記録」平岡正明・著より)

こういった民間人殺害の証言には枚挙に暇がありません。

「師団命令は“敵の利用しうる一切のものを燼滅せよ”やった」「苦労したのはニイコ(中国人)や。“一切のもの”と言うんは物だけか、て師団司令部に問い合わせたら、“モノ”は者を含むて言う返事やったんやて。えらいこっちゃった、荷物運びの苦力に使うニイコ以外、皆殺しにせなならん」
「一々殺すの、面倒臭くてかなわんで、名案考えた。部落の風上から火イつけた。火に追われて風下へ、ジジイもガキも出て来よる。そこを軽機で待ち構えて、ダダダダダや。ビックリして部落の中に戻りよって、火に撒かれて死んでくれたわ」(第十一軍所属の第三十四師団の元将兵の証言・・・・阪本楠彦「湘桂公路1945年」―――青木書店「十五年戦争史A日中戦争」より引用)

・・・・日中戦争のような(侵略)国家と、(被侵略国の)民衆との戦いに於いては、女子供や老人も標的となることを免れず、民族絶滅作戦の様相を呈していったのは至極当然と言えます。

posted by 鷹嘴 at 21:03 | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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