2011年06月30日

過去ログ移転:三光作戦(3)「三戒」

 過去ログ移転作業の続き。--------------------------------------------------------------------------------
 Re(2):三光作戦
 投稿番号:18684 (2003/07/28 18:28)
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内容
さらにゲリラにトコトン苦しめられている「第一線の末端」の兵士は、ゲリラを支援している中国民衆に対して激しい憎悪を抱き、この作戦をより凄惨なものにしました。第三十七師団歩兵第二百二十七連隊・連隊長の皆藤喜代志大佐は、次のように回想しています。

「戦陣における軍人の心の動向は、軍律とは関係なしに、統率の力ではにわかに左右できない奇妙な底流がある。第一線の末端になるほど敵愾心が強く『一般民衆と敵性分子との区別はつくものではない』という民衆に対する不信感や『民族感情の暗黙の対立』、『中国人に対する罪の意識の薄弱』等による粗暴なふるまいがあり、『民心把握の意図の徹底』ほど骨の折れることはなかった」(「北支の治安戦A」P-195)

強姦・個人的な略奪など、お決まりの犯罪も後を絶ちませんでした。「支那事変の経験に基づく無形戦力軍紀風紀関係資料(案)」(昭和十五年十一月 大本営陸軍部研究班調整)では、「特に環境を整理し慰安施設に関し周到なる考慮を払い殺伐なる感情を緩和抑制することに留意す」(同上P-322)と、「慰安施設」の充実の必要を訴えています。
ちなみに「軍紀上特ニ留意スヘキ犯罪」によって処刑された将兵は合計801名に達し、そのうち強姦が108名、「掠奪」が243名ということです。(「軍紀上特ニ留意スヘキ犯罪処刑人員表」(昭和14〜17・10)同上P-323)(その他「対上官犯」が171名、「辱職」が127名、逃亡が243名、その他「奔敵」「利敵」が11名。脱走し八路軍に投降し「日本人反戦同盟(日本人民解放連盟)」に加わった兵士も少なくなかったのでしょう)。
また「北支那方面軍処刑人員増減表」によると、1938年から1942年10月までに処刑された人数は2598名を数えるそうです(同上同ページ)。

ところで岡村寧次大将という人は、1941年の北支那方面軍司令官着任時に「滅共愛民」という理念の下に「焼くな、犯すな、殺すな」という「三戒」標語訓示を強調したそうで、実際に1942年4月に北支那方面軍が全将兵に配布し一般にも公開した「国民政府の参戦と北支派遣軍将兵」には、「焼かず、犯さず、殺さず」と強く戒められていました。

「『焼かず』とは、すなわち彼らの家を焼かないことである。いかなる理由があるにせよ一度家を焼かれた中国人の恨みは未来永劫絶対に消えるものではない。たとえ敵地区への進攻作戦といえども家屋の焼却は絶対に禁止せねばならぬ。
『犯さず』とは、すなわち財物を略奪せず、婦女を姦せざることである。わが将校中かくのごとき鬼畜の振る舞いある者は一人といえども存在しないことを確信するものであるが万一、物欲、情欲に駆られて中国人を犯すがごとき将兵ありとすれば、皇軍の面子にかけても断じて許してはおけない。
(こういうフレーズ、聞き覚えがありますね。「うちのクラスには学校のトイレでタバコを吸うような奴はいないと思うが・・・・」なんて先生が言うときに限って、男子の半数はヘビースモーカーだったりして)
『殺さず』とは、すなわち無辜の民はもちろん、捕虜といえどもこれを殺戮しないことである。もし当然殺すべきと思われる場合でも勝手に殺してはならぬ。必ず軍律によって処断すべきである。特に匪、民いずれとも判明しない者を、十分に取り調べも行なわずに匪なりと断じ、あるいは不良中国人の利己的発言に乗ぜられて、かえって善良な者を処刑し、あるいは共産軍と日本軍の板挟みとなって、そのいずれにも媚び得ない憐れな心情を解せず、直ちに通匪行為としてこれを殺害する等のことがあっては、ただに中国人の民生を害するのみならず民生を失い、遂には皇軍の威信を失墜する結果となるであろう」(「国民政府の参戦と北支派遣軍将兵」昭和17年「同盟旬報」・・・・「北支の治安戦A」P-333〜334)

これを南京で敗残兵(らしき者)を即断処刑した部隊全員に朗読させてやりたいほどです。ゲリラの疑いがあろうとも(いうまでもなく民間人に化けた敗残兵の疑いがあろうとも)、それをしっかり調べずに処刑していいわけがありません。こんなことは日中戦争当時の日本軍にとっても常識だったのです。「南京事件否定派」の論理が如何に下らないものかお分かりいただけると思います。

(ちなみに日本軍も、15年戦争中を通じて「便衣戦術」を活用していたことはよく耳にします。
↓こちらは最近出回っているコピペ。沖縄の日本軍も「便衣隊」を組織していたそうです。
http://mytown.asahi.com/okinawa/news02.asp?kiji=992
また、「昭和十七年度粛正計画 昭和十七年四月十五日 第三十六師団司令部」の「第三 粛正要領 其三 粛正討伐に関する事項」では、「便衣隊の利用」の検討も含めて各種の戦法を推奨しています。
「・・・・対共戦法は最近の情報に基く敵勢の動態を精察し且既往に於て自衛並びに他隊に於て得たる敵戦法を検討し奇襲、急襲、欺瞞、迎撃、誘致、反撃、便衣隊の利用、謡言の流布、支那側警備隊の利用等の適切なる活用により常に戦法に工夫を加へ寡少兵力を以て最大の効果を獲得する如く著意するものとす」(「現代史資料L 日中戦争D」(みすず書房)P-576)
国民党軍や八路軍だけでなく当時の日本軍も、ハーグ陸戦法規がどうたらと悩んでいる余裕は(つーかそういう発想自体)無かったようです)

しかし・・・・軍人に対して「放火すんな!」「強姦すんな!」「民間人を殺すな!捕虜も勝手に殺すな!ゲリラらしき者もむやみに殺すな!」と、こんな当たり前のことを戒告しなければならないとは実に嘆かわしい限りだったでしょう。
まるで自動車免許更新のときに「運転するときは免許証を持ちなさい、赤信号では止まりなさい」と講釈たれるが如きです。このような戒告が行なわれたこと自体、「殺つくし、焼きつくし、奪いつくし、犯しつくす」状態であったことを如実に示していると言えます。

また岡村大将の戦後の弁によると、日中共産党が自分の訓戒を「岡村の可焼、可犯、可殺の三光政策」とパロって宣伝し、「驚くべきことに日本の『進歩的学者』までがそれに便乗している」ということです。
しかし、岡村着任後に日本軍の北支戦略が変更されたわけではありませんし、また前任の多田駿司令官の下で既に「三光政策」は実行されていました。(ちなみに17745で紹介した「満州国」の実情や、「日満議定書」発布と同時に起きた平頂山虐殺事件も立派な「三光作戦」と言えます)
それに前出の城野宏さんという人によると、岡村大将は1931年から34年にかけて蒋介石軍が紅軍(共産党軍)を包囲殲滅せんとした「瑞金討伐作戦」を、「観戦武官のような形で」観察していたそうです。

「瑞金地区に根拠地をおく中国紅軍に対し、蒋の軍隊は、軍事顧問だったドイツ軍人・フォン・ゼークトの進言で、独自の包囲戦術でいどんだ。
百万の大軍で根拠地をとりかこみ、村落から紅軍協力者を探しだして皆殺しを行い、穀物も家も焼き、あらかじめ共産軍への補給源を断って、それから、軍そのものをじわりじわりと攻めていくというやりかたです」(潮出版社「日本人は中国で何をしたか・中国人大量虐殺の記録」平岡正明・著より)

・・・・これも立派な三光作戦と言えるでしょう。もしかしたら「三光」という造語のルーツは国共内戦なのかも??しれません。
これを観察したはずの岡村大将は、ゲリラ対策の為に根拠地を掃討し物資を奪うという方針が、民衆への無差別虐殺、略奪、強姦などの事態を招いてしまうことを理解していなかったのでしょうか?ならば岡村サンはいったい何を見て来たのでしょうか?それとも蒋介石軍は極めて軍紀が良好だったんでしょうか??(それは絶対ない!)

ともかく岡村大将は、国共内戦での蒋介石軍の「共産軍への補給源を断」つという方針と同一の、対共産軍戦略を改めることはありませんでした。
たとえ岡村大将の訓示によって、個人的な略奪・強姦・行き当たりばったりの殺戮が根絶されようとも、
日本軍の対共産軍戦略の基本方針は、ゲリラ支援を絶つために、
●民衆から食糧など物資を奪い、
●国内の自由な物的・人的交流を阻害し、
●ゲリラ支援地区の生産力を破壊し、
●ゲリラと民衆の接触を絶つために、民衆を先祖伝来の土地を追い出し、強制移住させる
・・・・・・という、中国という国を根底から破壊し、民衆の生活・生存自体を脅かすことを主要な手段としていたのです。
ゲリラ活動が終息しない限りこの作戦を終わらせることはできず、中国民衆はどこまでもとことん衰弱し、中国の大地は荒廃していったでしょう。
つまりこれは民族を絶滅させることによってしか完結させることのできない、日中戦争に於いて三光作戦と呼ばれた作戦に他なりません。

そして岡村大将も他の将兵も意識していなかったのかもしれませんが、この段階に於いて日本軍の敵は蒋介石の国民党軍でも、毛沢東の共産党軍でもなく、中国の民衆そのものだったのですから、この作戦が実行されたのは当然でしょう。日本軍が中国大陸から駆逐されないためには、つまり敵(中国の民衆)と戦っていくには、中国の民衆を果てしなく殺し続けるか、または彼らの生活・生存自体にダメージを与え続ける以外、なかったのです。

posted by 鷹嘴 at 21:04 | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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