過去ログ移転作業の続き。
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Re(3):三光作戦
投稿番号:18687 (2003/07/28 18:40)
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内容
「三光作戦」とは、「三光政策」とも言います。「殺しつく」すだけでなく、「焼きつくし、奪いつくす」政策だったのです。
ゲリラ抗戦の根絶は、ゲリラらしき者・ゲリラ協力者らしき者を殺戮しつくすだけでは達成できません。
ゲリラの根拠地となり得る村落を破壊し、ゲリラに供給される恐れのある物資を押収・破壊焼却することが必須となります。しかしこれは被侵略国の民衆の生活の基盤そのものを破壊することになります。
つまり日本軍の行なった「三光政策」とは、中国全てを破壊しつくすに至る「政策」だったと言えます。
・・・・八路軍などの共産軍が民衆と一体化して抗日戦を戦っている状況を、日本軍は深く警戒していました。
「国境地帯無人区化に伴ふ民心の安定」という通達を引用します。
「中共の現在採りつつある対日戦略とは、抗日民族統一戦線を拡大強化することで、抗戦を堅持し、最後の勝利を獲得せんが為には、須く積極的に民衆動員し、抗戦工作に参加協力せしむべしとし、政治方面に於いては、抗日政府を擁護し抗戦政策を支持せしめ、物的戦力を確保せんとして、軍事方面に於いては、兵力補充並軍事活動の援助に当らせ、武力戦の勝力を獲得すべしとの方針」(姫田光義・陳平(丸田孝志訳)共著・青木書店「もうひとつの三光作戦」P-122)
このような状況を打破する為に、「匪民(匪賊と民衆)の分離」、すなわち八路軍と民衆の関係を裂くことが計画されたのです。
さらに承徳(河北省北東部の都市。当時は「満州国」内)の日本憲兵隊が署名・発行した「減共対策資料」を引用します。
「冀察熱国境地区当前の情勢に稽へるとき、治本上第一に要諦される事柄は、何としても匪民(匪賊と民衆?)の分離であり・・・・」
「集家ということは、敵の遊撃区足り得べき国境地区の住民を、我方の拠点乃至その近傍地区に集住させ、全然敵の触手より隔絶し、我方に於いては掌握し、敵の所謂、人力物力工作を封殺せんとするものである」
「民衆の支持というのが、彼らの最大の強味であり、と同時に民衆という紐を切断されることは、詰まり命の綱を断ち切られることで、まさに致命的打撃となる」(同上同ページ)
前記した八路軍総司令・朱徳の発言に見られるように、共産軍は民衆を「水」に、共産軍を「魚」に喩え、「不可分の親密なつながり」を強調しました。自分たちを、民衆という海の中を自由に泳ぎまわる魚に喩えたのです。
そして日本軍は共産軍と民衆の関係を断ち切る(つまり民衆からの共産軍への物的・人的両面に渡る支援の断絶)必要を悟りました。ゲリラという魚が泳ぎまわる海から水をかきだしてしまおうとしたのです。
その為に、
★ゲリラ根拠地の疑いのある・またはそうなる可能性のある村落から食糧その他の物資を略奪・破壊焼却し、
★中国の大地を「治安区」(共産軍側から見れば「敵占領区」)、「准治安区」(同じく「遊撃区」)「未治安区」(同じく「解放区」)と3分割してそれぞれの地区に対しての政策を振り分け、さらに随所に「封鎖線」を設定し、物的・人的交流を断絶し、共産軍に対しての物資供給を断ち切り、経済的に追い詰め、
★「未治安区」の村落自体を焼き払って消滅させ、住民を八路軍と接触させない為に指定地域に強制移住させたのです。
これらを簡単に説明させていただきます。
★食糧その他の物資の略奪・破壊焼却
「経済封鎖月報(第一巻)」(昭和十七年八月三十一日 北支那方面軍「甲集団」参謀部)の、
「第十一 物資取得作戦の状況及其の効果影響」によると、
1.敵側抗戦経済地盤の奪取
2.敵地農工生産力(最近人的も含む)の破壊乃至取得
3.武力併用に依る我方必需物資の獲得の徹底化
(「現代史資料L 日中戦争D」(みすず書房)P-634)
このように、民衆による抗日ゲリラ支援を不可能にするために物資を略奪し(それを日本軍の糧として獲得し)、経済的活動・農業生産力を破壊する方針だったのです。
そしてこういった作戦は、
「前述せる如き作戦に依り敵側に与へたる影響は、
1.敵側自給経済地盤の喪失乃至戦力の低下
2.敵養兵乃至抗戦行動の経済的制約
3.抗戦陣営の物心両面の動揺乃至民衆生活力の低下を招致し致命的打撃を与へつつあり」
(同上P-635)
「独立混成十五旅団管内中宛平縣に於いて昨年秋の収穫期を期し、敵地区の糧食取得を目的とし、占拠地区より民衆約三000名を連行二週間に亘り糧食の取得を実施し粟(2文字不明)高粱等約二百万斤を得運搬不能なるため焼却せる食糧物資三百五十万斤に及び之が為敵地区の食糧は欠乏し、共匪の大部隊の行動に一大支障を来さしめたり」(同上)
と、大きな効果を上げたのです。
また第一軍(岩松義雄中将・司令官)が1942年2月2日から3月2日にかけて行なった「冬季山西粛正作戦」では、についての「第三十六師団歩兵二百二十二連隊戦闘詳報」によると、
「今次作戦に於ける徹底せる敵性物資の壊滅は敵に甚大なる打撃を与えたるも、反面敵は之が報復と民心把握の為、日本軍の暴虐的破壊工作なりとの宣伝に狂奔するならん。・・・・・・敵地区一般住民の被害少からざるべし。真に敵性物資なること明瞭なるもののみ制限せざれば、民心離反永続し悪影響を熟すに至るべし」(青木書店「十五年戦争史A日中戦争」より引用))
このように共産軍の活動を困難たらしめるに留まらず、一般民衆の生活にも大きな打撃を与えるものだったのです。
★「封鎖線」の設定
「経済封鎖月報(第一巻) 昭和十七年八月三十一日 北支那方面軍「甲集団」参謀部」によると、
「二、封鎖実施状況 現在実施されある経済封鎖を要約すれば次の如し
1 直接封鎖線の形成
(1)封鎖線の堀開、遮断壁の構築
各兵団により封鎖地帯を設定し之に対し封鎖壕を堀開す、平原地区の如き河川等の自然物を以て封鎖壕を形成し得られざる場合は幅六米、深さ四米を基準とする封鎖壕を構築し、堀開不能の地にありては遮断壁を一連に構築し車馬は勿論人の交通も出入口以外は遮断す
尚山西地方五壷付近にては封鎖線外に無住地帯を設定して封鎖を強化しあり。
(2)監視線の形成
封鎖壕の要所に柩舎又は検問検索所を設置し監視を実施し、封鎖壕に沿ひ警備道路を設け巡察、討伐に便ならしむ。
2 検問所検索による敵地区への物資流出遮断
各要地に検問、検索所を設け(城市の出入口、停車場、埠頭、河川等)又移動検問、検索班により物資流出を監視す
封鎖線外よりの物資を我が方に搬入する場合は自由とし指定地以外への搬出は之を禁止す
3 物資配給制実施により余剰物資の匪区地区への流出阻止
4 軍、官、民各機関の活動による敵地区よりの物資獲得
進んでは敵生産機構の覆滅」
(「現代史資料L 日中戦争D」(みすず書房)P-591〜593)
また、
「独立混成第四旅団作名甲第百二十七別冊 昭和十六年八月三日」によると、
「封鎖線は日本軍の許可せるものの外一切の人及物資の通過を許さず
若し之を犯すものあらば其の敵性あると否とを論ぜず直ちに捕獲押収し若くは銃殺す」
(「北支の治安戦A」P-554)
このように厳重に警備されたものだったのです。
・・・・・エジプトのピラミッド・万里の長城・戦艦大和は、俗に「世界の三馬鹿」と言われていますが、「封鎖線」の設定に伴う「遮断壕」の構築もこれらに匹敵すると言えるでしょう。万里の長城は実質上中原の防衛には全く役に立ちませんでした。「遮断壕」も同様に八路軍に対して全く効果のないものでした。深さ4メートルの溝なんて、ちょいとした梯子があれば乗り越えられるでしょう。こういう馬鹿げた構築物を周辺の住民に対する強制労働によって作ったのです。
しかも「経済封鎖月報(第一巻)」(昭和十七年八月三十一日 北支那方面軍「甲集団」参謀部)の、
「第十二 我施策に対する影響並効果の概要」によると、
「(山東省及河南省北部)我経済封鎖に依り敵側の経済的困窮は武力的に弱体化し抗戦力は漸次削減せられつつあるも経済封鎖の我方にもたらす影響も亦次項の如き相当なるものあり」
イ、敵地区よりの流入物資の減少
ロ、物資搬出入の手続きの複雑を嫌ひ一般農民に拠る物資流動不活発は闇取引、不正取引の横行
ニ、諸物資隠匿による物価騰貴
ホ、治安地区に於ける都市よりの搬入物資の過少に依り物価騰貴し民衆生活の困窮化
(「現代史資料L 日中戦争D」(みすず書房)P-637)
また、「剿共指針」(昭和十九年四月 北支那方面軍参謀部)
によると、
「(二)我が方地区民衆の窮乏化・・・・ 治安地区民衆特に准治安地区民衆は数ヵ年に亙る双方の過大戦時負担の為生産は低下し壮丁は欠乏し牧畜は減少し戦禍に因る大被害を被り農村生活は破綻を来しありて殆ど飢餓線上を彷徨するの窮乏状況に陥らんとしあり」(「北支の治安戦A」P-479〜480)
このように「封鎖線」の設定は、「治安区」の住民をも苦しめる両刃の剣だったのです。
・・・・余談ですが、「治安区」は同胞を裏切った中国人によって荒廃していきました。
せっかく共産軍を追い払って「治安区」を作り出しても、全ての地域を日本軍の兵力だけで掌握し続けることは到底不可能なので、傀儡組織を用いて各地域の治安維持・行政を任せることにしました。
「華北政務委員会」という傀儡組織が行なった「第一次治安強化運動」の「運動計画書」によれば、委員会の各級政府機関、華北治安軍、新民軍などの各種団体が、「友軍(日本軍)との協議の下に、よろしく民衆を指導し、その職務を全うする」ものとされていました。そして村落に於ける「保甲制度」という「隣組」のような組織や、「自衛団・青少年団・婦女会・労働協会」などの民間組織によって、密告制度を強化し、共産勢力の浸透を喰い止めようとしたのです(「もうひとつの三光作戦」より)。
しかし、腐敗しきった傀儡政権の支配は民衆をさらに苦しめることになり、そのため中国共産党の影響を受けていなかった民衆すら、「抗日」に目覚めさせてしまったのです。上記の「剿共指針」より続く部分を引用します。
「中共軍が軍政両面より之を把握しありし時期に於ては之等農民の不平と暴民化を制圧し且得意の宣伝戦を以て民心の自暴自棄化を抑制しありたり 然るに昨今皇軍が中共勢力をして遠く僻地に後退せしむるに至るや之等地域に於ける中共の軍党勢力は消散乃至減殺せしめ得たるも皇軍亦現兵力のみを以てしては新たに修復せる旧中境地盤地区の全面的治安維持に任することは不可能にして已むを得ず新政権側の腐敗せる武装勢力を以て治安維持を担当せしむるの余儀なき状況に至れり その結果之等地区の民衆の窮乏は愈々加重さるるに至るべく民心亦その帰趨を失ひ自暴自棄となり遂には匪化するは明白な理なりとす 茲に於て極度なる窮乏に辛うじて耐へ来りたる彼等の土匪化、暴民化は漸次顕著となりつつあり
(三)新政権側の腐敗堕落の激化
新政権の腐敗堕落と政治的無力無能化は既に甚だしく中共より何等の影響をも蒙りあらざりし清純なる我が方民衆すら昨今に至りては第三的(第一重慶、第二延安)抗日思想を包蔵し来るに至れり 況んや中共思想策動を受け又はその政策の下に生活せし民衆は新政権に対する期待を裏切られ全く中共側宣伝の正鵠なりしを再認識するが如き恐るべし結果を招来しあり 新政権の腐敗堕落は一面民衆をして思想的抗日新政権化せしむる利敵効果を発生しあると共に一面直接間接なる対共援助を為す結果となりあり公然たる通敵行為は勿論物資武器等の対敵供給も亦決して減少しあらず その言動の如き中共並びに民衆をして日本必敗の信念醸成に資するところ莫大なるものありとす」
・・・・このように日本軍の支配は根底から崩壊していきました。しかし、同胞を裏切るような輩が「腐敗堕落」した行政を行なうのは自然なことでしょう。つーか目先の利益のために侵略者に協力するような者ならば、欲に目が眩んで同胞を搾取の対象とするのも当然でしょう。
★「無人区」の設定
日本軍は村落から物資を強奪したりゲリラ容疑者を連行したり焼き討ちするだけでは飽きたらず、共産軍の策源地となり得る村落を消滅させることを計画し、中国大陸に広大な「無人区」を設定しました。特定地域の住民全員を強制移住させ、そこを無人地帯にしてしまうのです。そして監視が容易な地域に住民を押し込め、ゲリラとの接触を絶とうとしました。
これは以前から「満州国」でも行われていました。激しい抗日活動に手を焼いた関東軍は、1933年から延吉、和龍、琿春県などに「集団部落」を建設し、1934年には「集団部落建設」を布告し、さらに1936年の「治安粛正三ヵ年計画」によって4000箇所、翌年には1万2565箇所の「集団部落」が建設されたそうです。
これが「満州国」内でのゲリラ対策にとって極めて有効であったので、北支那方面軍もこの政策を採用したのです。
甚だしきは、北支那方面軍と「関東軍西南防衛軍」が共同で、「満州国」の国境でもある万里の長城の両側を、「満州国」の南端の渤海湾を臨む山海関西側の九門口から、内陸部に向かって、途切れ途切れながらも約850kmにも渡る地帯が「無人区」と設定されました。「満州国」の抗日勢力と八路軍が万里の長城を越えて結束することを恐れたのです。
第二七歩兵団団長兼・北部地区(唐山)防衛司令官(その後第一一七師団長・中将)だった鈴木啓久という人の指揮下にあった第二連隊の「連隊史」によると、1941年11月6に工事完了したとして次のように書いています。
「遮断壕二四五キロ、その他の遮断線工事七四キロ、・・・・以上の工事に要せし日数五十二日、作業人員延一九五七000人(゚Д゚ ハァ?)・・・・長城無住地帯七十六部落、一二三五戸、六四五四人、一時無人部落二十八、二三四二戸、一二〇三六人に達せり」
また方面軍参謀長によると、このような工事は「協力する農民の犠牲的労力奉仕により・・・・華北の治安圏は逐次拡大されてきている」ということです。
こんな大工事を日本軍の軍属だけで行なえるわけがないので当然付近の農民を強制的に動員する以外なく、またその労働の報酬を支払うような財力など日本軍にはないので、無給でこき使わざるを得なかったのです。
鈴木啓久サンは戦後の回想で、
「この工事に動員した民衆は約60万を超え、農作物の収穫に少なからぬ損害を与えた。・・・・方面軍はまた八路軍の根拠地である長城線に沿う地区を無住地帯にするように命じてきた。地区隊は武力を用いて立ち退きを強制したが、この処置は住民怨嗟の的となり、“三光政策”だとして八路軍の宣伝に利用された」
と述べています。
(以上、岩波ブックレット・姫田光義・著「三光作戦とは何だったのか」及び「もうひとつの三光作戦」より引用しました)
原野を切り開き、耕し、肥料を撒き、雑草を取り除いて、作物が収穫できる状態に育て、それを毎年維持するというのはどれだけの汗と涙が必要でしょうか?またそうして先祖代々耕作してきた土地から追われるというのはどれほどの憤激でしょうか?私は農家ではないので想像も及びません。
農民にとって田畑は命の綱です。また農業は人類にとって不可欠です。それを破壊した「無人地帯」設定という行為は「三光政策」以外の何物でもありません。
土地を追われた農民たちは、移住先で僅かな小作地を耕すのみの貧しい生活を余儀なくされました。極めて非衛生な環境で伝染病も多発したこのような部落を、民衆は「人囲い」と呼んで恐れました。
もちろん元々の自分の畑が心配で脱走することもありましたが、「無人区」に入り込むことは命がけだったのです。
ところで、鈴木啓久サンは終戦時にソ連軍に拘留され、その後中国に送致されて(後に帰国)戦犯裁判を受けますが、そこで無人区化政策の実情について告白しました。
「(無人区を作ったことについて)これは1942年9月から始まったことです。私は遷都県と遵化県の長城線沿いの(幅)約4キロの広大な地域で迅速に無人区を作りました。その方法とは、日本軍と治安軍が定められた村に行き、居住民が直ちに長城線の南側4キロ以上離れた地方に移住するよう命ずるのです。各部隊はこの命令を執行し農民を強制的に移住させました。中国農民が移住させられた後は、日本軍がたえずこの地域を巡回し農民が入り込んで耕作するのも許しませんでした。無人区に入りこむ住民をみな追い出すべきであるとして、私はこんな規定を作ったことがあります。つまり無人区の建設中あるいは建設以後、日本軍がこれらの地区を巡回していて、もし日本軍の命令に服従しない者がおれば、即刻処分してもよいというものです。このために殺害された居住民は二百数十人いました。私は地図の上から、この広大な(無人区とされた)地域の居住民はほぼ七−八万人から十万人くらい、焼き払われた家は一万数千戸くらいと見ていました。これら居住民が出て行くとき、彼ら自身に放火させたり、日本軍や偽軍(治安軍)に放火させたりして、家を焼き払ったのです」
(中央大学人文科学研究所「日中戦争 日本・中国・アメリカ」第二章「日本軍による『三光政策・三光作戦をめぐって』」(姫田光義)P-136より)
このように「無人区」に入り込むことは絶対許さず、発見次第銃殺していたようですが、
鈴木サンのこのお話から、「無人化政策」の一つの側面を推測できないでしょうか?
ある地域を『無人区』として宣言することは、その地域の住民に対しての無差別殺戮のゴーサイン?だったのでは・・・・?
最後に・・・・・
第五十九師団は故意に堤防を決壊させ広大な農地を消失させるという、人類史上にも稀な恐るべき犯罪を行ないました。
「衛河」(南運河)という川は太行山脈に流れを発して黄河に合流しますが、山東省臨清県より下流は隋の時代に建設された運河となっています。
山東省で「衛河」を跨いでいる「津浦線」という鉄道は、日本軍にとって重要な幹線鉄道でした。「満州国」から中国南部に至る軍事輸送や、山東省で採掘される石炭・鉱物資源などの輸送として手段として重要な役割を果たしていたのです。
1943年8月、降雨が続き「衛河」が増水し、「津浦線」の鉄橋に徐々に迫ってきました。そこで第五十九師団は、鉄橋を保護するためと「衛河」の左岸の「未治安区」に打撃を加えるために、堤防を決壊させることを思いつきました。
「広瀬分隊」の兵士が、制止する村民をスコップで殴りつけながら、堤防に対して垂直に溝を掘り進みました。連日の豪雨で水をたっぷり吸った土は以外と簡単に掘ることができたそうです。そして堤防ぎりぎりまで増水していた水は、兵士たちが掘った溝を流れ、みるみるうちに溝の幅を押し広げ、そして堤防は完全に決壊してしまい、左岸の農地は一面湖となりました。この事件によって周辺7県の約百万人の住民が被害を蒙ったと言われています。
直接の指揮者だった小島少尉という人は1955年当時、戦犯として撫順収容所でこの犯罪を告白しました。その時見せられた決壊の被害に遭った畑の現在の写真も、石ころが転がった河原同然の姿だったそうです。
(中国帰還者連絡会「侵略―――中国における日本戦犯の告白」(新組新装第1刷)、第5章「陰謀――衛河の決壊」(難波博・元少尉)、及び本勝「天皇の軍隊」より引用しました)
・・・・・・世に尽きることのない「天災」も、多くは本質的に「人災」でしょう。阪神大震災のとき倒壊した高速道路の支柱には重大な手抜き工事がありました。強度を増すために溶接箇所の高さを一本ずつ変えなくてはならない基準があったにもかかわらず、全て同じ高さで溶接されていたのです。また、1999年の台湾地震で倒壊した建物のコンクリートの中には石油缶が入っていました。
日本軍が支配していた当時のベトナムでは、1944年から1945年にかけて天候不順による不作によって百万人とも言われる餓死者が出ました。しかし日本軍による食糧の大量徴発や、軍需のための強制的な作付け転換が原因となっているのです。これも立派な「人災」です。
しかし人為的な堤防決壊という、あからさまな「人災」は人類史上そう多くはありません。これが「大東亜戦争」の真実の姿でしょう。日本軍が「大東亜共栄圏」を構築しようとした行為は、アジアの人々を殺し続け、アジアの国々の生存を脅かす行為だったのです。
この事件は、追い込まれた日本軍は中国人絶滅によってしか完結しない作戦を行なってしまったことを如実に示しています。
日本が中国に勝つ手段はただ一つ―――中国人を絶滅させる以外に、無かったのです。
2011年06月30日
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