2011年06月30日

過去ログ移転:三光作戦(5)中帰連批判に対する疑問

 要するに昔掲示板に書いたことをコピペしてるだけっす。リンクもほとんどデッドリンクになってるし。

--------------------------------------------------------------------------------
全然まとまっていませんよ。振り出しですw
投稿番号:19478 (2004/07/13 19:12)
--------------------------------------------------------------------------------

内容

山田さんお久しぶりです。

>ノンポリさんは食糧問題で忙しいでしょうから返信も反論も求めません。

いえ、別段忙しくはありません。「問答有用」という掲示板に時々顔を出している程度です。

>でも、いちおう目を通しておくくらいの軽い感じでは読んでくださいね。

「返信も反論も求めない」のに、「軽い感じでは読んで」欲しいとは、随分勝手な要求ではありませんか?
読んで欲しいのならば反論されることを嫌ってはなりませんし、
反論を嫌うのならば書き込まなければいいのです。
貴方の投稿は完全に無視されるかもしれませんし、欲しくもない反論レスがつくかもしれません。
自分の期待が裏切られることを恐れるのならば投稿しなければよいのです。掲示板など読まなければいいのです。

>> せめて山田さんがどのような媒体によってその情報を得たか教えて頂けないでしょうか?インターネットでしょうか?何かの著書でしょうか?
>> 「1980年頃」ならば20年前ですね。20年前のことを鮮明に記憶していることは困難ではないでしょうか?
>
>記憶はあまり鮮明ではありませんが、

その割には随分と細かく書き連ねておられますね?

>覚えていませんか?

「1980年頃」のニュースでも、「昭和の重大事件ベスト100!」にノミネートされるような出来事ならば、「ああ、そんなこともあったな」と思い出すかもしれませんね。
繰り返しますが、ソース元を明らかにされていない以上、貴方の述べていることを評価することはできませんので、以降はがっさり割愛させて頂きます。

しかし、どうも貴方はソースを明らかにしないで話をする癖があるようですね。
掲示板の方では、
イラクの人質が「豪華なチャーター便」で帰国したのは、「家族が要求したからですよね。特に高遠さんのお母さん」
と述べられましたがこちらもソースを明らかにされておりません(ご丁寧にもNOR氏がそれを未来ボードに転載しています)。この件もソースを明示して頂きたいものです。
(どっちにしろ、チャーター便で帰国するのか自分が持っているチケットで帰国するのかを最終的に決定するのは当人の意思でしょう)

>その後のことですが、個人的に知己を得た中国人からいろいろと経緯が聞けました。中共の国家官僚で、日本を担当していた人です。

中国人の知り合いから「いろいろと経緯」を聞いた人とは、誰ですか?
まさか山田さんご本人ではないと思いますが・・・・

>> たとえ「金のためだけ」であろうとも、日本が中国で何をやったのか知らしめたのは功績でしょう。(勿論部分的に不正確な点もあると思われますが)
>
>中帰連のデビュー作「三光」を論じた記事がありました。
>http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo8.html

残念ですが、ご紹介の「満洲どよよん紀行」にはあまり説得力を感じません。

・・・・まず、
「「三光」収録の手記」のなかの、
「三光  殺光、焼光、略光  殺しつくし、焼つくし、略奪しつくす」
の筆者の「本田義夫」という人物は、実名は小田二郎さんという人であり、
そして、

「この手記の小田少佐が大隊長だった時期は昭和19年3月以降である。手記の日付の昭和16年にはまだ大尉であり、一般的に大隊長の地位にはなりえない。」
「当時は第35師団で旅団副官であり、800名の部下を指揮できる立場になかった。」
「小田少佐は一兵卒から苦労して少佐になり大隊長まで昇った人だった。そんな人が自分の所属や部隊長になった時期を間違えるはずがない」

と述べていますが、現実に小田二郎さん?は自分の名前すら「間違えて」、「本田義夫」という仮名を使っています。
わざわざ仮名を用いたのに、自分のいた部隊や階級を正直に記したら意味がないのでは?たちどころに実名が判明してしまいます。
「どよよん紀行」の作成者がこの疑問に拘るのなら、

「私は1900年、三重県に生まれ、高等小学校卒業後、1920年徴兵、下士志願、1929年少尉候補生として陸軍士官学校に入校。1943年少佐、大隊長として華中、華北に勤務したが1945年6月、偽満州国通遼付近に転じ敗戦に至る。本件は私が1941年河南省において、大隊長として犯した罪業である。」
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/04/honda_y_sankou.htm

小田二郎さん?自身がこのように述べているのですから、大尉が大隊長を務めることが「一般的」かどうかを論じるだけでなく、
実際に小田二郎さん?自身がその当時大隊長を務めたことがあったかどうかを検証すべきでしょう。

さらには、
★「「本田義夫」とは第63師団 独歩第78大隊大隊長・小田二郎少佐(故人)だった。」
★「第63師団は北支方面軍の直轄師団として昭和19年6月に新設された。2個の歩兵旅団を所轄し各旅団はそれぞれ4個の独立歩兵大隊で編成された。」
★この手記の小田少佐が大隊長だった時期は昭和19年3月以降である。手記の日付の昭和16年にはまだ大尉であり、一般的に大隊長の地位にはなりえない。当時は第35師団で旅団副官であり、800名の部下を指揮できる立場になかった。

としながらも、

★また、第78大隊の警備地区は河北省の固安であり、河南省の濮陽県に行くわけがない。

とはどういうことでしょうか?
第78大隊とは、昭和19年6月に新設された第63師団の所属であり、当時小田少佐はその大隊長だった、
と説明しているのに、第63師団自体が存在しない1941年当時の出来事を当てはめてどうするんでしょうか?
それとも、第78大隊は1941年当時は小田二郎さん?のいた第35師団の管轄下だったのでしょうか?(そんなことあんのか?)

ちなみに、「日本陸海軍の制度・組織・人事」(日本近代史料研究会)によると、
第63師団は独歩77〜79、24、35、80、81大隊を擁し、
第35師団は歩219、220、221にて編成されていたそうです。この資料は簡単な紹介だけですので何ともいえませんが。
また第35師団は1941年、黄河南岸の前進拠点を確保するため「河南作戦」を実施したそうです(朝雲新聞社刊、防衛庁防衛研修所編「戦史叢書18・北支の治安戦<1>」P-591より)。
もっとも、この作戦は10月2日から11月19日に行なわれたそうですから、小田二郎さん?の手記とは時期が異なりますが・・・・。


さらに、
★「しかし、時期、場所、部隊構成がデタラメでも行為は事実なのではないか、という見方もある。これを田辺敏雄氏が元78大隊の人に聞き取り調査をした。」

ということですが、そもそも「元78大隊の人に聞き取り調査をした」ことが、上記で述べた点と同様に不可解なんですが・・・・小田二郎さん?と共に第35師団から第63師団の第78大隊へ配属された人に「聞き取り調査をした」ということでしょうか?

★「『ナツメの木を切り倒すなどという作戦があるはずない』こと。」

小田二郎さん?は棗(ナツメ)の木を伐採させた理由を、

「河南は棗の名産地で、一年間の収穫は、農民の大きな生活の源だった。ここだけでも棗の収穫はしろうと目にも2−30トンの収獲が予想される。重なりあった小枝は、やっと芽がふくらんで、春の陽気を待っていた。私はこの棗林を眺めながら、これを完全に切り倒してしまえば、住民は生活の道を失い、きっと八路を離れるにちがいないとうなずきながら、つぎからつぎに音を立て、土煙りをあげて倒されて行くさまを、心地よく聞いていた。」
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/04/honda_y_sankou.htm

このように述べています。つまりこの村落の生活の糧を破壊することで、八路軍への支援を不可能たらしめるのが目的です。これは日本軍の、「未治安区」に対する基本的な方針です。
棗の木を切り倒せ、などという具体的な命令などあるわけがない、ということに過ぎません。
ゲリラへ支援している(と思われる)住民の生活の手段を奪うことが目的ですから、棗の植林でも麦畑でも芋畑でも不思議はありません。「元78大隊の人」は実に意味の無いことを仰ったものです。

★「『敵性村落を焼いたことが二例ある』こと。ただし敵性村落とはいわば山城で、各所に地雷が仕掛けられ危険極まりない陣地そのものであった。」

日本軍は各地の「敵性村落」にて、巧妙に隠匿されている武器を押収することに苦心していました。
言い換えれば「未治安区」の村落は全て「敵性村落」であり、日本軍にとって危険な「山城」であったとも言えます。それだけ民衆の抗日意識が強かったということです。

★「『治安を保つのが目的であるから拷問などやらなかった』こと。」

つまり対日感情の悪化を懸念し、拷問は行なわなかったということでしょうか?
ならば何故日本軍は、民衆の生活を確実に破壊する「封鎖線」や「無人区」を設定したのでしょうか?
「アメリカ軍はイラク民衆の支持を得ることが必要だから、拘束者への虐待など行うはずがない」
と述べるのと同様に無意味な発言です。
ちなみに「北支の治安戦<1>」P-559の、「晉察冀邊區西邊粛正作戦」について編者が整理した「教訓及び所見」によると、
「(素直に投降する者もいたが)しかし、第二十一師団の捕虜中、婦人将校がいたが、共産主義に忠実であって死を賭しても自白を拒んだ」
ということです。殺してしまうまで自白を迫ったのかどうかはわかりませんが、少なくとも捕虜に対して拷問が行なわれたのは明らかでしょう。またこの時代「特高警察」などで凄まじい拷問が行なわれていたことも忘れてはなりません。

★『第78大隊の軍紀は比較的厳正であり「三光」に書かれたような悪逆非道な部隊ではなかった。したがって「三光」は大嘘』だということ。

軍紀が乱れている部隊では掠奪、強姦、敵前逃亡、命令違反などの事件が多発するでしょうが、逆に軍紀が厳正に守られている部隊ではどのような残虐な命令でも黙して実行されるでしょう。小田二郎さん?の手記を読む限りでは、この部隊は厳しい拷問や棗の木の伐採や焼き討ちなどの上官の命令に忠実に従い、軍紀の乱れを思わせる面は微塵も感じません。またしても「元78大隊の人」は実に意味の無いことを仰ってくれたものです。

さらに言えばあのHPは
「「三光」収録の手記」15件のうち、8番目の、
「三光  殺光、焼光、略光  殺しつくし、焼つくし、略奪しつくす」
だけを論じ、
「三光」は大嘘な本であり、だから三光作戦など行なわれなかった!・・・・・と結論付けたいようですが、
「三光」という本の中で、三光作戦について述べているのは「8.本田義夫 三光」だけではありません。
「4. 難波博  陰謀 衝河の決壊」
「6. 鈴木良雄  放火 母子もろとも農家を焼く」
も、三光作戦―――つまり、ゲリラへの支援を絶つために民衆に刃を向け、あるいは民衆の生活基盤を破壊する軍事行動―――について記されています。
また私は「三光」の復刻版である、
「中国帰還者連絡会編・「侵略―――中国における日本戦犯の告白」(2002-7-15新組新装第1刷)」
が手元にありますが、その中の「4.無住地帯・・・・鈴木啓久」も三光作戦についての記述です。
あのHP作成者が中帰連の刊行物を通じて三光作戦を否定したいのならば、これら3点についても論証しなければならないでしょう。

>今ではメンバーの殆どが既に他界してしまい、残った者もかなりの高齢者ばかりであるため、団体としては解散しました。
>http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/other/gaiyou.htm

はい、「その事業を「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」に受け継いだ。」そうです。
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/ml/ml.htm

ちなみに「季刊中帰連WEB」の作成者は、
月刊『自然と人間』、及び季刊『中帰連』編集長であり、最近私も首を突っ込んでいる「問答有用」掲示板の管理人でもある熊谷伸一郎さん(通称クマさん)です。
(ちなみにイラクで拘束された今井紀明さんも『自然と人間』に執筆されたことがあります)
中帰連の刊行物に対して物申すおつもりがあるのなら、私なんぞにレスするよりも「問答有用」にて問題提起する方が手っ取り早いと思われます。
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_index
貴方があそこでクマさんや常連の方々を沈黙させることができたなら、私も貴方が述べていることが正しいと認めざるを得ないでしょう。

ところで貴方は19475では、中帰連についてのみ述べておられます。私の投稿:19452の以下の部分には全く反論していません。

>>ここに挙げられたことは戦時下における普通に当り前の軍事行動であって、“三光”ではありません。
>
>たしかに侵略軍にとっては「普通に当り前の軍事行動」かもしれませんね。
>ゲリラに手を焼いた侵略者が、民衆によるゲリラ支援を根絶するために民衆そのものに敵対する行動を取り始めることは、古代よりの戦争、先の大戦、ベトナム戦争、そして現在のイラク侵略に至るまで「普通に当り前」のようですね。
>侵略行為に対する当然の反作用としてのゲリラ抗戦を掃討する為に、民衆の生活の糧、生活の場を徹底的に破壊し奪い続け、時には無差別虐殺も躊躇しません。そして侵略軍と民衆の間に決定的な溝が生じ、さらに激しい抵抗を呼んでしまうのです。
>
-------------- 以上 ノンポリさん(投稿番号:19452)より引用 --------------

反論がないということは、
日本は中国にて、侵略軍にとっては「普通に当り前の軍事行動」として、
民衆によるゲリラ支援を根絶するために民衆そのものに敵対する行動を取り、
民衆の生活の糧、生活の場を徹底的に破壊し奪い続け、時には無差別虐殺も躊躇しなかった。
・・・・ということを山田さんは認めるのですね?

>こんな人達に騙されつづけるノンポリさんが不憫です。嗚呼。
-------------- 以上 山田としあきさん(投稿番号:19475)より引用 --------------

ソースを提示しなければ説得力など生まれないことすら分からず、反論出来ない部分は無視して自分の理想の世界で満足している山田さんが不憫です。合掌。
posted by 鷹嘴 at 21:06 | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック