過去ログ移転作業の続き。
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“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像
投稿番号:19491 (2004/08/28 02:09)
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内容
>>中帰連のデビュー作「三光」を論じた記事がありました。
>>http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo8.html
>
>残念ですが、ご紹介の「満洲どよよん紀行」にはあまり説得力を感じません。
(中略)
>さらに、
>★「しかし、時期、場所、部隊構成がデタラメでも行為は事実なのではないか、という見方もある。これを田辺敏雄氏が元78大隊の人に聞き取り調査をした。」
>
>ということですが、そもそも「元78大隊の人に聞き取り調査をした」ことが、上記で述べた点と同様に不可解なんですが・・・・小田二郎さん?と共に第35師団から第63師団の第78大隊へ配属された人に「聞き取り調査をした」ということでしょうか?
「満洲どよよん紀行」のソース元だと思われる、
「検証旧日本軍の『悪行』 歪められた歴史像を見直す」(田辺敏雄・著 自由社)の「第二章 手記「三光」に秘められた小田少佐のシグナル」(P-40〜56)を読んでみました。
それによると、小田二郎さん?と共に第35師団から第63師団の第78大隊へ転入した人は、「小田少佐と縁の深かった森田敬二郎」さんなどをはじめとして決して「少なくない」そうです。(P-47)
筆者の田辺氏は1998年、群馬県の磯部温泉(私もスキー帰りに寄ったことがあります)での第78大隊戦友会の会合に出向き、森田敬二郎さんらに取材を行ないました。
森田さんは「ナツメの木を伐採する作戦」について、「78大隊自体はまったくなかったと記憶しております」と答えていますが、もちろん「第78大隊とは、昭和19年6月に新設された第63師団の所属」なので肝心の手記の舞台である1941年当時の作戦とは全く関係がありません。
また第35師団の時期について、「多くの部隊が広範囲に散っていたので、知らない部分はそれだけ多かったといえます」と前置きしながらも「私自身、見聞きしたことはありません」と語っています。(以上P-51)
つまりこの森田さんは知らなかった、というだけではないでしょうか?
また他にも数名からこの件について訊ねたところ「そんなバカな作戦があるはずはない」という反応だったそうですが、その数名も小田少佐?と共に第35師団に所属していたかどうかについては全く記述がありません。もしこの数名が第35師団に所属していた経歴がないのなら全く無意味でしょう。
(しかし「ナツメの木を伐採する作戦」もたしかに「バカな作戦」ですが、中国人を動員して行なわれた遮断壕の掘削もまた、バカを極めた作戦だと言えます)
また敵性村落の焼却、村民への拷問についても「満洲どよよん紀行」で紹介されている程度の記述しかありませんでした。(もっとも川上秀一さんという人は「昭和19年頃だったと思いますが、逃亡兵の出たことがありました。捜索のためある部落で男を尋問しているとき、将校が横にあった棒でいきなり男をなぐったことを記憶しています」と証言しています(P-53)。つまり第35師団はともかく、第63師団の第78大隊では村民に対する拷問は行なわれていたのです)
ところで問題の手記には、小田少佐?の第78大隊時代の部下が実名で登場しているそうです。(榎本中尉、甲田大尉、清水中尉、大塚中尉、福富中尉、許司軍曹の6名。「小さな点を除けば階級、役職の記述も正確」だそうです。P-48より。いずれもシベリア抑留後に帰国、中国抑留経験なし)
自身は仮名を使いながらも自分の部下(しかも事件当時の部下ではない)を実名で登場させるとは、たしかに不可解であります。
1989年、第78大隊戦友会の会報「戦友」にこの手記が取り上げられ、「陣一兵」(仮名とのこと)という編者がこの疑問について「冷静でしたたかな計算が隠されているのを読みとることができるのだ」と記しています。これについて筆者も「小田少佐はシグナルを秘めて書いたという見方が当たっていると思う」と述べています(P-55)。
つまり「要するに『三光』は大嘘だという事である」(「陣一兵」のコメント。P-54)という“シグナル”を小田少佐?が送ったと述べていますが、
しかし「陣一兵」が「大嘘」だとする根拠は、
「昭和16年の5月、78大隊は河北省の固安におり、小田少佐はまだ大尉で35師団の旅団副官であったから、甲田大尉を指揮する筈もない」
「もっと肝心なことは、昭和19年3月小田部隊着任後、大隊総員800名を指揮して出動してことは一度もない」(P-54)
ということですが、第63師団の第78大隊の話を持ち出しても意味はないのです。全くお話になりません。
そもそも「三光は大嘘」であるというメッセージを込めるために実在の人物を登場させる、などという迂遠な手段を用いるでしょうか?小田二郎さんは1975年に亡くなったそうですが、「三光は大嘘」であるならば、何故生前にそれを告白しなかったのでしょうか?
また筆者は、
「明治生まれの小田は副官経験者ゆえに軍の公式文書に精通しているものの、『三光』のような文章が書けるわけがないというのも頷ける陣一兵の指摘である。おそらく、ほかの人間が相当に手を入れたのは間違いないと思う」
と述べておりますがこれは的を射た指摘かもしれません。おそらく第三者が小田二郎さん?の口述を基にあの手記を作成し、その執筆者はあろうことか事件と関係のない実在の人物を登場させてしまった。そのことに小田さんは後ろめたさを感じ、戦友会の会合には一度しか出席せず(P-56)、部隊史の作成も丁重に断った(P-56)ことの原因となった・・・・と推測すれば「頷ける」かもしれません。
・・・・しかしこの手記についての疑問は拭うことはできませんが・・・・仮にこの手記が作り話であったとしても、それは「三光」という本のタイトルチューン?の「三光 殺光、焼光、略光 殺しつくし、焼つくし、略奪しつくす ・・・・by本田義夫」が作り話であった、ということに過ぎません。
この手記の中で村民は生きる糧である棗の木を切り倒され、家を焼かれました。しかしこの村から立ち去ることを命令されてはいないのです。1931年以降、日本軍は中国の各地で「無住地帯」を設けて民衆を追い払い、そして時には虐殺しました。この手記の内容よりももっと過酷なことを日本軍は行なっていたのです。それらの事例が「検証旧日本軍の悪行」の中で紹介されています。
2011年06月30日
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