2011年06月30日

過去ログ移転:三光作戦(7)鈴木啓久元中将の回想

 過去ログ移転作業の続き。

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Re(1):“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像
投稿番号:19492 (2004/08/28 02:12)
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内容
この本の第九章「鈴木啓久師団長の供述と回想」(P-216〜)では、撫順戦犯管理所に抑留され戦犯として裁かれ、日本軍の残虐行為について告白した鈴木啓久元中将(第117師団長)の証言について検証しています。

・・・・よしりんによると鈴木啓久さんは、「洗脳が解けたと思われる」人だということで、なるほどこの人は中国での体験を開けっ広げに語っていたようです。
出身校である仙台陸軍幼年学校の会報「山紫に水清き」による1979年6月2日の取材に対して、飯盛山の自宅で次のように語ったそうです。
「・・・・だから(日本兵が)虐殺したと言われれば、そうですかと私は正直に受け取った。だから20年の禁固にされた。恐らく“やれ”と言った将校はおらないと思うんですが・・・・。目が届かなかったと言えばそれまでだが、それだけ訓練ができておらなかった。それは、やはり我々の責任ですよ」
「・・・・ありもしないことを住民がなんだかんだといいますからね。“鈴木部隊が、ここにこういうふうに入ってきた”と住民が言うので、“そんなところに私の兵隊を配置したことはありませんよ”といったって、“住民の言うことに間違いはない”と言うんだから。まあ、他の部隊がやったこともあるでしょうし、広い場所だから、やっぱり止むを得ないんですよ。罪を犯した本人がおらなければ、そこにおった司令官が罪にされるのは当然だと思って“ああそうですか”って。」

ただし同時に、八路軍と対比させて日本軍の軍紀の乱れが収拾のつかないものだったことも指摘しています。
「しかし、八路軍というのは強かったですよ。本当の共産党員というか、負傷して倒れている下士官だったか、助けてやろうと色々やったが、絶対にいうことを聞かない。それで動かんもんだから、とうとう置いてきてしまった」
(しかし八路軍は)「資産階級や豪農に対しては相当ひどいことをやったようだ」(“万人孔”のようなものが出来るほど虐殺し死体を埋めたそうです)
「その代わり、八路軍は民衆の針一本、糸くず一つ取らないんですから。家にも入らない。日本の兵隊はすぐに家に入っては村落露営だなんていっている。入るな、といっても駄目です。勅諭なんか口では言うけど、さっぱり実行しない将校が多いでしょ。それじゃ兵隊になんぼ言ってもだめですよ」
(以上P-216〜217)


・・・・
筆者の田辺氏は、鈴木啓久さんが1962年の帰国後に記した「中北支における剿共戦の実態と教訓」「第百十七師団長の回想」という二つの回想録を通じて、八路軍による神出鬼没な攻撃が日本軍を翻弄し追い詰めていった様相を明かしています。(この二つの回想録は「少なくとも『思想改造』を思わせるような違和感のある記述は見られなかった」(P-221)そうです)

「この共産軍は正規の軍隊、つまり自他共に常時軍隊として現れてくるのではなくて、或る時は『正規』の軍隊の姿で現れ、或る時は便衣に鉄砲という姿で現れ、或る時は一般住民の姿として存在しているのであって、今日は部隊をなして現れているかと思うとあるは全く姿を隠してしまい、昨日は程遠い処に居るとの情報を得たかと思うと、今日は足下近くから飛び出てくるという始末であって、数時間も経たない前は全く安全であった処が其数時間後には、雲でも湧き出たようにいつの間にか大軍となって目の前に迫ってくる」(P-222〜223)
「こうした彼等との戦闘であって見れば仮令、所謂『大戦果』を挙げたとしてもそれは徹底的では決してない。だから、いつどんな姿で『報復』としてハネ返って来るか判らないと云う心配が脳裏から全く離れない、所謂『油断もスキもあったものではない』という言葉の通りの在り方である」(P-223)

このような八路軍の縦横無尽な活躍は民衆との緊密な繋がりによって可能になったものでした。中国の民衆は一体となって八路軍に協力し、そして自ら侵略者に対峙していたのです。
日本軍が制圧している「治安区」でも、日本軍に協力的な人物は“漢奸”として蔑まれ居づらくなるだけでなく殺害されることすらありました(P-224)。
そして「未治安区」の村落では日本軍来襲の報が伝われば、敵に物資を与えてしまうことや「徴用」されることを防ぐために、すぐさま村民全員、家畜を含めた財産とともに避難してしまう「空室清野」作戦を実施し、それが間に合わなければ村に残った老人子供だけでにわか作りの日の丸で「恭しく」迎えます(同)。そして八路軍ゲリラが日本軍の虚を見て襲撃を行なったことでしょう。
また日本軍に関する情報の伝達も民間人によって行なわれていたそうです。
「其の伝達者は通常、14〜5才の少年少女であるらしく彼等は近道の間道をイダテン走りに走って伝達するのである」(同)
こうした通報は「未治安区」だけでなく「治安区」からも発せられたそうです。
このように日本軍は、サッカーに喩えるならば観客、審判団だけでなくピッチの芝の一本一本が全て敵、と言えるほどの絶望的な環境に置かれていたのです。勝てるわけがなかったのです。こうした連携プレーによって日本軍の動向は八路軍側にほとんど筒抜けであったと思われます。それは鈴木さんの回想が如実に示しています。
「大部隊を捕捉することは極めて稀であって、多くの場合、空撃するのは常」
「だが、討伐はいつも空撃であろうか、いやそうではなく之は大部隊を以て討伐した場合のことで、小部隊で出掛けると殆ど捕捉するのである。而かし、此の場合には之亦、殆ど例外なく不利な戦闘となるのが多い」(P-226)
サッカーでは常に「二対一」の状況を作り出すことが基本とされていますが、八路軍も住民から得られる豊富な情報によって、常に敵に対して有利な状況を作ることに成功していたのです。鈴木さんの師団も、少数のゲリラが存在しているとの情報を受けて相応の人数を出動させたところ大軍に取り囲まれて全滅、という失敗を数度経験しているそうです(P-227)。
そしてこのような局地戦での日本軍の壊滅は、
「全般に公表されることが少ないので、一般からはあまり目に立たないのであるが、損害を累計すると敵に比して我が方が非常に多いことになるのである」(同)
と述べています。八路軍の頭脳的な戦略はじわじわと効くボディブローのように日本軍を痛めつけていったのです。

そして追い詰められた日本軍は、激しいゲリラ討伐、拷問を伴う尋問、糧秣の略奪を始めますが(P-224)、それがさらに民衆を日本軍と傀儡政権から離反させることになります。(この本の第二章では筆者は日本軍による住民への拷問などあるわけがない、とする回想を紹介しながらも、第九章では拷問があったことをナニゲに認めています)
鈴木さんも「このような弾圧は日本軍の支配に役立つものでは決してなく、却って反感を助長し益々日本軍より遠ざかっていったのである」(同)と指摘しています。このようにして進退窮まった侵略者が住民への圧迫、果ては無差別虐殺によって打開を図ろうとするのは歴史の必然であり、日本軍もまたその例に漏れなかったわけです。
posted by 鷹嘴 at 21:08 | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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