過去ログ移転作業の続き。
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Re(2):“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像
投稿番号:19493 (2004/08/28 02:15)
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内容
そしてこの第九章では、中国での戦犯裁判に於ける鈴木啓久さんの「供述書」に記された、「魯家峪の虐殺」「潘家戴荘事件」などの虐殺の記録、そして「無住地帯」の設定について、
鈴木啓久さんが帰国後に記した二つの回想録(「中北支における剿共戦の実態と教訓」「第百十七師団長の回想」)を基に検証しているので紹介します。
★魯家峪の虐殺(P-231〜234)
鈴木啓久さんの「供述書」によると、1942年4月、鈴木さんは歩兵団長として豊潤県の魯家峪にて掃討戦を開始し、洞窟に立てこもる八路軍100名を「毒瓦斯」で殺し、さらに附近の山間に避難していた農民235名を虐殺し、女性を100名強姦し、妊婦の腹を裂くなど残虐行為を行なった、ということになっているそうです。
しかし「第百十七師団長の回想」によると、洞窟に立てこもって投降を拒み頑強に抵抗を続ける敵兵を「発煙筒、催涙弾を使用して殲滅」し、また魯家峪の村民の中から逮捕した者のうち、八路軍兵士は捕虜として「後送」し、他は「釈放」することを命じたそうです。どこにも住民を虐殺しただの、妊婦の腹を裂いただのという話は出てきません。今となっては真相は謎ですが・・・・。
ともあれこの作戦が行なわれた当時既に、「三月頃になると歩兵団司令部所在のわずか八粁の地で軍用トラックが八路軍によって襲撃されるまでに至った」ほど八路軍の動きは活発化しており、
また鈴木啓久さんにとって、洞窟に立てこもる敵に対して「発煙筒、催涙弾」を浴びせることによって得た「約三百殲滅」という戦果は、「八路軍と交戦した五年間で只一回のもの」であり、戦後に元部下に宛てた手紙に「多数戦友の尊い犠牲によって得た賜で不滅の特筆すべき勲功」と記すほど、華々しい思い出であったようです。言い換えれば日本軍は八路軍のお陰で滅多にいいことが無かった、ということでしょう。
★潘家戴荘事件(P-236〜239)
「供述書」によると、1942年11月、楽県潘家戴荘という集落について「其部落が八路と通牒して居る」との報告を受けると、直ちに「其の部落を徹底的に剔抉を行い粛正すべし」との命令を「第一連隊長田浦竹治」に伝え、そして田浦は騎兵隊と共同にて農民1280名を虐殺し、この集落の全戸800を焼き尽くしたそうです。
「第百十七師団長の回想」によると、
この地区にて潘家戴荘村の村民を強制動員して行なわれていた「遮断壕」掘削工事は、「八路軍の指嗾」によって逃亡者が続出していたため進捗状況が芳しくなく、
担当者の「鈴木“某”大尉」が業を煮やし、この村に「潜伏」している八路軍分子を逮捕しようとしたところ村民が協力しなかった為、「村民全員を惨殺、全村千余を焼き払った」そうです。
著者の田辺氏も「この事件の存在は以前から歩一の人たちから聞いていた」そうで、「鈴木“某”大尉の“犯行”であることは間違いない」と述べています。田辺氏自身もこの事件については事実であることを認めざるを得ないようです。しかしこの事件を指揮官個人の「犯行」として言及しているところに田辺氏の歪んだ見識が露呈していると言えます。
さらに鈴木啓久さんの「団下一般に『不殺、不犯、不焼』を厳守せしめる如く厳に要求したが事実は遺憾ながら逆であった」という、「別のところ」の述懐を引用し、「軍紀の乱れ」によってこのような「不祥事」が起こったと示唆しています。アジア・太平洋戦争での日本軍の「軍紀」など無に等しいものだったことなど百も承知ですが、この事件は「軍紀の乱れ」として説明できる性質のものではありません。むしろ当事者の「鈴木“某”大尉」は、イスラエルによる「分離壁」構築やナチスドイツによるユダヤ人迫害政策と同質である、日本軍による共産軍ゲリラ掃討作戦の本質を理解し実行したという点で、軍“規”については忠実であった、と言えるでしょう。
2011年06月30日
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