2011年06月30日

過去ログ移転:三光作戦(9)鈴木啓久元中将が語る「無住地帯」の設定

 過去ログ移転作業の続き。

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Re(3):“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像
投稿番号:19494 (2004/08/28 02:18)
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内容
さらにこの章の「4 『無人区』政策は三光作戦か」という項(P-246〜258)では、日本軍による「無人区」の設定(つまり住民を有無を言わさず追い出すこと)についても触れています。
まず「(1)興隆県の無住地帯」(P-247)では、私もこのスレで引用した「もうひとつの三光作戦」(姫田光義・陳平(丸田孝志訳)共著、青木書店)を批判しています。
この本は「満州国」に於ける強制移住政策について詳細に検証している力作ですが(現在手元になし)・・・・「『無人区』政策は日本軍による中国人抹殺計画、つまりは三光作戦そのものだと結論づけている(と、毎日新聞が発売時に評した)」ことが、田辺氏には耐え難いことのようで、「満州国史」(満州国史編纂刊行会71)から引用して「集家工作という移住策」について述べています。
それによると、ゲリラの跋扈に悩んだ「満州国」政府は、
「治安不良地区において分散した住戸を一ヶ所に強制移住させ、住民の通匪を根絶し、匪団に対する糧道と武器弾薬補給ルートを断ち、かつ討伐隊の基点とするため、集団部落の建設が必要視されるに至った」
ため、1937年に満州国民生部は「集団部落建設要領」等を設けて国庫負担によって移住先の家屋建設を補助したそうです(P-249)。
そして筆者は「集家工作」と「無住地帯」の設定は三光作戦などではない、と力説しています。

「右の説明から、『無住地帯』は住民の強制移住政策であり、中国人抹殺計画だの大量殺人だのと言えるわけがなかろう。抹殺計画ならどうして新部落建設が必要なのか。何のために住民を抹殺するのか」(P-249)

しかし「もうひとつの三光作戦」を読むまでもなく「満州国」による「住民の強制移住政策」は、明治以降昭和の前半まで日本がアジア各地で行なっていた三光作戦の根幹を成すものであり、ナチスドイツによる「ゲットー」の設定やイスラエルによるパレスチナ人追放政策と同質のホロコースト政策に他なりません。
「三光」とは、「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」作戦と言いますが、
いくら虐殺を続けても(殺しつくす)、いくら集落を焼き払っても(焼きつくす)、
いずれその地には人々が戻り日々の営みが復活することでしょう。そして蘇った集落は再び侵略者と対峙するゲリラの策源地となり得るのです。
侵略者はそれを恐れ、人間の生活にとって非常に重要なこと―――つまり己の居住地を確保すること―――の阻害を思い立つのです。「集家工作」という「強制移住政策」は即ち人間からその居住地を「奪いつくす」ことであり、「殺しつくす」「焼きつくす」よりも重い、ある民族に対する絶滅政策と同質の凶行と言えます。


・・・・続いて「(2)華北の無住地帯」(P-255)では日中全面戦争以後の「華北」(万里の長城の南側)に於ける「無住地帯」について、鈴木啓久さんの記録を元に論じています。
「あの討伐(1942年6月の冀東地区の作戦)以来、匪団の大きいものが見えないので表面は如何にも治安がよくなったかに見えるが、実際には一皮むけば下はマッカなので、考えようによっては却って治安悪化とも言えるのです」(P-255〜256)
一向に“治安の回復”の兆しが見えないのは「結局、八路軍及其の工作員と一般住民との区別が判然としない」ので、「良民証」を発行し住民に常に携帯させました。また遮断壕の構築によってゲリラの活動範囲を封じ込めようとしました。
しかし「良民証」はゲリラによって偽造されたり強奪されたり脅迫されて作らされたため実効力はなかったそうです。また万里の長城が「匈奴」の侵入に対して無力だったのと同様に、遮断壕も意味のないただの溝に過ぎませんでした。さらにゲリラが万里の長城の外側(「満州国」)と内側(冀東地区)を自在に行き来することも悩みの種でした。

そこで北支那方面軍は、住民を強制的に追放して「無住地帯」を設定することを決定するのです。鈴木啓久さんは「第百十七師団長の回想」に次のように記したそうです。
「歩兵団長は方面軍の右の指示による上記両県の長城より四粁以内にある住民を悉く追い払い、爾後再び一切復帰を許さぬ『無住地帯』となせとの師団命令を拝領した。私は9月中旬より該地区の全住民を運搬し得る限りのものを持参し、残存するものは家屋糧穀に至るまで一切を焼き払い二十日以内に長城線より四粁以上離れた地(図上によって一線を劃して示した)に移転し、爾後耕作に至るまで如何なる理由あるも再び復帰することを禁じ、巾四粁全長一〇〇粁余りの地を無住地帯と定め、第一連隊長をして遵化県内、第三連隊長をして遷安県の地域を主として県警備隊、已むを得ざれば一部日本軍を使用して住民を追い出さしめた。此の命令に反抗して惨殺されたもの二百余名に及び家屋約五万戸を焼き住民約十万人を追い拂った。之等の処置を住民は『三光政策』と呼んだ」

この過酷な措置に対しても筆者は「中国人抹殺計画だの三光政策などと言えるわけがない」との見解を崩していませんが、「熱河省との違いは集団部落を建設しなかったこと、代替農地が考慮されなかったことで、住民にすれば行くあてもなく生活の基盤を取り上げられたことになる」とボソリと述べています。

・・・・もし現代の日本に住む私が、突然会社をクビになり同時に住んでるアパートを追い出されたとしても、どっかの飯場に潜り込むなり残飯を漁るなりして、どうにかして生きていくことはできるでしょう。
しかしこの戦乱に国が揺れていた時代に、突然自分が耕していた土地から追い出された農民はどのようにして暮らしていったのでしょうか?どのようにして中国内陸部の厳冬を越したのでしょうか?このような殺人に直結しかねない暴挙に対して尚も「三光政策ではない」と言い張ることしかできない筆者の見識の浅さには言葉もありません。「無住地帯」の設定とは即ち、「三光作戦(政策)」と呼ばれることもあるホロコースト政策の一環に他ならないのです。
posted by 鷹嘴 at 21:10 | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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