過去ログ移転作業の続き。まだ半分も終わってないし、これからHP内のリンクも変更しなきゃなんない。大変だぁ
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Re(4):“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像
投稿番号:19495 (2004/08/28 02:24)
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さらに、
この本の第十章「総検証『中国の旅』報道」では、本多勝一・著「中国の旅」に記されている三光作戦の事例(P-289〜298)について検証していますので、まずはその「中国の旅」(朝日文庫)より概略を引用します。
1971年の初夏、中国各地で日本軍の残虐行為の調査をしていた本勝は、三光作戦の実態の取材の為に天津から列車と車を乗り継いで途中一泊しながら「潘家峪」(バンカコク)という山村を訪れ、そこで「県の革命委員会」から潘広林さんという当時17歳だった虐殺事件の体験者を紹介され、「潘家峪事件」と呼ばれる虐殺事件について取材します。
九死に一生を得た潘広林さんの回想によると、この村は侵略者に臆することなく対峙していたそうで、食糧徴発には従わず、一方的に発行された身分証明書も受け入れず、傀儡政権の支配下に陥ることを拒んでいました。また「遊撃隊を支援」していた為に日本軍は度々掃討を行い、捕えた村民を拷問しました。このように無差別虐殺の標的となる下地が出来上がっていったようです。
そして1940年1月25日(旧暦だと大晦日の前日の12月28日)の早朝、事件当時1300人余りが常住していたこの村を日本軍が包囲し、全員を村の中ほどにある凍結していた池に連行します。そこでリーダーらしき「佐々木」という男が「東洋刀」(軍刀)を抜き払い、「村長はどこだ」「武装隊長は前に出ろ」「民兵は誰だ」「武器を持っている者がいるか」「八路軍の兵器工場はどこだ」「八路軍に協力したやつはだれだ」などと「悪狼のように」どなり散らしはじめ、「傀儡中国人通訳」を使って問い詰めましたが、住民は沈黙を守っていました。
そこで「佐々木」は村人を無作為に20人ほど選びだし、見せしめに銃剣や軍刀で斬殺しましたが、村人たちは口を開くどことか「怒りにふるえ、目を血走らせて日本兵をにらみつた」そうです。「佐々木」はそれに臆したのか、別の場所で「訓話を伝える」として、近くの大地主の屋敷に村人を誘導しました。
その高い土壁で囲われた屋敷の庭にはコウリャンの殻や松の枝などが敷き詰められ、石油の臭いが漂っていました。午前11時ごろ全員を押し込めてしまうと入り口は施錠され、ほぼ同時に火が付けられました。逃げ惑う村人に対して敷地内を見下ろす位置から機銃掃射が浴びせられ、手榴弾も「まるで雹のように」投げ込まれたそうです。
潘広林さんら強運な一部の若者は日本軍が銃撃を一時中断して殺戮の状況を調べているときに、土壁の隙間から辛くも脱出しましたが、逃げ遅れた女性や子供は猟奇的殺人の餌食になりました。幼児は石に頭を叩きつけられ、両足を引き裂かれ、妊婦は腹を裂かれ胎児を引きずり出されました。
さらにこの屋敷内での虐殺を終えた日本軍は再び村落全戸を捜索し、隠れていた老人や子供を皆殺しにして、村を焼き払いました。こうして1230人が虐殺されたそうです。
日本軍が撤収した後、生き残った村人は家族を捜し求めましたが「死体はほとんど黒こげで、だれかれの区別などわからない」という状態で号泣するあまりでした。
しかし午後10時ごろ、700人ほどの八路軍第十二連隊兵士が村に到着した時には皆「言葉にもならぬ喜び」に浸ったそうです(本勝注――――「『八路軍が現れた』という瞬間は、『白毛女』その他の劇などでも、クライマックスとしてよく出てくる」)。
日本軍襲来の報を受けて部隊はすぐさまアクションを起こしたそうですが、しかし時既に遅し、兵士たちは「折り重なる虐殺の死体をみて、村人と同じように声をあげて泣いた」ばかりだったそうです・・・・。
以上が、本勝「中国の旅」による「潘家峪事件」の概要です。ちなみに生き残った若者たちは八路軍に加わり各地で戦功を立て、1942年の旧暦7月には150人の日本軍を「撃滅」したそうですが、その中に虐殺事件を指揮した「佐々木」も含まれていたということです・・・・。
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この事件について田辺氏は、「第二十七師団隷下の支那駐屯歩兵一連隊(歩一)」の関係者から取材調査を始めましたが、「歩一」の内海戦友会会長はあっさりと『事件のあったことは事実です』と認めたそうです(さぞかし拍子抜けしたことでしょう)。
「あの部隊は『通匪部落』でいつも日本軍がやられていたところであり、それなりの理由もあったのだと話す。(中略)『殺さなければ殺される、これが戦場の現実なのです』と淡々と話す」
そして内海氏のつてで、佐々木信三郎中尉が率いていた第一機関銃中隊に事件当時属していた片川三蔵、筒中要之助両氏(田辺氏の配慮により両氏とも仮名)から詳しい証言を得ることになります。
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ところで両氏の記憶によると事件の発生は「たしか昭和16年(1941年)2月初めだった」ということで、「中国の旅」の記述と1年食い違いますが、両氏の足跡から判断して1941年が正しいと言えるそうです。田辺氏はこれを「(中国側の)調査が杜撰というより、1000人以上の殺害があったとする状況を作り出すための方便(大晦日の前日なら村に多くの住民がいて当然)」と推測していますが・・・・現地の「潘家峪惨案紀念館」では、
「紀念館に来ていただきまして歓迎いたします。 この潘家峪で大きな悲惨な出来事があって、それは1941年1月25日のことでした。旧暦で言うと、前の年の12月28日。 その時、日本軍はここで悲惨な事件を起こしました。」
と説明しているそうです。
http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/panjyai.html
つまり1940年というのは単なる本勝のチョンボのようで、田辺氏の憶測は全く意味を為しません。しかしこんなことは少し調べれば判明するはずです。ノソポリ(最近ついたあだ名)レベルの失敗だと言えるでしょう(笑)
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片川氏によると、事件当日の午前1時ごろ部隊は豊潤という町を出発し、明け方に包囲を完了します。部隊の人数については、片川氏は4、5百人+傀儡中国人で構成された県警備隊が約百人、一方筒中氏は百人未満、傀儡兵については人数はわからないとしています。
田辺氏は、佐々木中隊長が「(豊潤の第一大隊の)4人の中隊長をさしおいて大部隊の指揮をとるというのは考えにくい」として、筒中氏の説を支持しています。
「片川は、『あれ(襲撃)は計画的だった。でなければああはいかない。佐々木中尉の独断だったかもしれない』とも話しているので、筒中のいう人数が真実に近いのかもしれない」
そして部隊は村民を「広場(中庭)」に集め、穀類を供出させ、機関銃隊は警戒のために村内に入らず小高い位置に重機を据えました。
「『狩り出された人数は約300人』で小さな広場はほぼ一杯だったと片川は話す。そこで小銃と軽機関銃で射撃を開始する。一方で出させたコウリャンの束に火をつける」
「目前で起こった光景を見て『兵隊はいやなものだな』と思ったと片川はいう。また、村の指導的立場(?)にあった約20人を、河原で射殺するところを伝令の帰りに目撃したとも話している」
「筒中の方は、小さな部落だったといい、死傷者について『部隊の遠方で銃を据えていて、部落には機関銃隊は入っていませんのではっきりわかりませんが、小銃隊の話を総合すると、村民死傷者200〜300人位のようです』と回答、後日小銃隊(歩兵)から聞いた話だという。そして『中国の旅』記述は、『中国側の一方的な宣伝臭がします』とつけ加えてあった」
ちなみに、中国の旅に記されている猟奇的な殺人については「反論することなく苦笑いするばかり」だったそうです。
・・・・以上、殺害された人数やその方法、その他事件のディテールに異なる点が見られるものの、村民を集合させて銃撃+焼殺した事件であるという点では、「中国の旅」の記述と田辺氏の取材結果は合致しています。つまり田辺氏は、一部からの悪評が高い「中国の旅」の内容の一部が真実だったことを証明したことになります。
もちろんこのような虐殺の証言を紹介している本はいくらでもあります。たとえば「南京大虐殺のまぼろし」の中の南京での最大の虐殺事件についての部分では、「山田支隊」関係者から重要な証言を紹介しています。しかしそれらの証言は、事件当時捕虜を解放するつもりだったという言い逃れに基づくものです。
このような荒唐無稽な弁明は一顧だに値しないことは、このボードでもK−Kさんによって論証済みです。ですからこれは歴史資料としての価値は一段低いと言わざるを得ません。
しかし田辺氏の得た証言は、「山田支隊」関係者のような歪んだ立場からのものではなく、記憶に留まっているものだけを淡々と述べています。この証言だけでも、三光作戦の一要素である民間人への無差別虐殺が「中共のプロパガンダ」でも「サヨクの捏造」でもなかったことが明らかになっているのです。全く田辺氏貴重な証言を得たものです。
・・・・しかし残念ながら、田辺氏はこれだけ重要な証言に接しながらも依然として歴史を公正に観ることができないようです。
「この村は八路軍の妨害工作、つまり通信線の切断、自動車道路の破壊、日本軍の行動を通報する、また物資(食物、武器弾薬)を補給するなど「敵性部落」だったという。この付近でしばしば待ち伏せにあって損害を出す。このため、佐々木中尉の独断が引き起こしたというのが大方の見解といってよかろう」
このように、「潘家戴事件」について「鈴木“某”大尉」の個人的な犯行であるかのように述べているのと同様に、この事件についても佐々木中尉一人に責を帰すような見解を示しています。
これは、
「朝鮮人従軍慰安婦が就業詐欺に遭ったのは朝鮮人悪徳業者の責任だ」
「南京での強姦事件は兵士の個人的な犯罪だから日本軍全体についてとやかく言うのはおかしい」
などと同種の空虚な主張です。侵略戦争とそれに伴う民衆を圧迫すること自体が目的である政策の本質を理解したくないのでしょう。
また、
「毛沢東の呼びかけに応じた村民が遊撃隊を組織し、手製の地雷を作って待ち伏せ攻撃をするなど『不屈の戦闘をくりひろげた』のが事実なら、日本軍にも村民の攻撃を正当化する理由が生じる。もちろん、女子供など明らかな非戦闘員を除いての話である。
だが『中国の旅』にあるような『村民の反抗はみなウソだ』と片川は断言する。なかには、八路軍に加わった村民もいただろう。子供も日本軍の動きを報じる伝令役となった記録もある。だが、一般の住民はおとなしく、八路軍に日本軍の行動を通報し、食料、武器弾薬を補給するなど、八路軍に便宜をはかるものの、直接武器をとって反抗するようなことはなかったというのである。多くの村では日本軍を接待する者、八路軍を接待する者とに担当があり、両者の力関係を見ながら過ごすという辛い立場に置かれていたのだ」
このように述べていますが、どうも田辺氏は、鈴木啓久さんが帰国後に記した民衆と八路軍との分かちがたい関係を第九章で引用したことを忘れているようです(笑)
仮にこれが真っ当な評価であったとしても、中国民衆にとって日本軍は忌まわしき侵略者であることには変わりありませんし、八路軍は民衆の信頼を得ていた事実も消すことができません。
たとえば「晉察冀邊區西邊粛正作戦」に従軍した「黄城事務所職員」は次のように記しています。
「従軍中連行した捕虜に、行軍中路傍の梨の実を採って与えたところ、農民のものは無断で喰わないと断った点、また龍華縣公安局に収監されていた八路軍の一兵士は、某村の宿営の際、一婦人と密談したとの理由により罰せられた点から見て、民衆の支持を得るためにも峻厳な規律を要求していることが窺える」(「北支の治安戦<1>」P-563〜564)
また同作戦について関係者の回想や独立混成第三旅団の記録を編者がまとめた「教訓及び所見」にはこのような観察があります。
「一方中共軍の対民衆態度を見るに、その規律は甚だ厳正親密であった。たとえば、わが工作員を敵性工作員として偽称して、部落に潜入させると、婦女子も恐怖することなく接近してくることが多かった」(同上P-562)
このように民衆は八路軍を、日本軍のような暴虐の限りを尽くす軍隊だとは見ていなかったのです。
さらに、仮に住民が「直接武器をとって反抗するようなことはなかった」にしても、可能な限り侵略者に対峙していたようです。
「民衆の中共軍に対する態度は心服でなく、ただ威圧による盲従畏服のようである。しかし、中には抗日思想、抗戦意識が熱狂的なものがある。たとえば独立混成第三旅団内においては次のようなことがあった。
(1)土民を捕えてこれに案内させた特殊工作員二名が、敵方の部落に接近するや、案内の土民は突如大声で「『漢奸』が来たぞ、皆出てきて引捕えろ!」と絶叫した。
(2)岡村支隊の一コ中隊が、大隊主力から分進した際、これを案内した土民は不利な地形に誘導し、われを共産軍の包囲下に陥れようとした。
(3)草野支隊の兵二名は、方角を見失った際、部落民のため敵軍の第四団第二本部の位置に誘導された」(同上P-559)
日中戦争とは、日本軍と国民党軍、日本軍と共産党軍との戦争だったという“だけ”ではありません。
ベトナム戦争に於けるアメリカ軍の敵は解放戦線だけでなく民衆そのものでもあり、イラク戦争もバクダッド陥落以降同じ様相を帯び始めたように、日中戦争は日本軍と中国民衆との戦いでもあったのです。
侵略戦争というのは、侵略を受け入れたくない民衆が存在する限り、得てして侵略者と被侵略国の民衆との戦いに変じていくものです。田辺氏には残念ながらこの視点が全く欠けているようです。
・・・・ともあれ、こんなスレを立てたクセに肝心の三光作戦については大して資料を提示していなかった私にとって、田辺氏の「検証旧日本軍の『悪行』」に出会ったことは、筆者の思想的偏向は別として非常に有意義なことでした。
田辺氏と、「満洲どよよん紀行」、そして山田としあきさんに感謝感激雨あられであります・・・・。
追記:
「潘家戴荘村事件」を実行した部隊の指揮官だった佐々木信三郎中尉は、「中国の旅」によりますと、1942年に潘家戴荘村の生き残りの青年たちによる「復仇団」との交戦によって戦死したことになっていますが、実際は佐々木中尉は1943年に「歩一」から転籍したそうです。その後インパール作戦に参加したという話もありますがはっきりせず、1979年10月に故郷の青森で亡くなったそうです。これぞまさに「中共のプロパガンダ」というべき事実の歪曲ですね(笑)
しかしこのような有名な事件の当事者からの証言が得られることはなかったということは、この国が自国の歴史の解明を怠っていることの一例と言えるでしょう。
2011年06月30日
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