前回の投稿で述べたようにこの法案は、過去最大最悪の原発事故と放射能汚染を引き起こしている東京電力を保護しつつ、同社の賠償負担を軽減しようというものだ。
東電という犯罪企業が保護され賠償責任が軽減されることは許せないが、言うまでもなく福島原発事故の責任は東電だけにあるのではない。国策として原子力発電を推進し、東電のようなチャランポランな企業に任せた日本政府の責任は重い。責任分担も問題だが、ともかく全ての被害者に相応の賠償が行われなくてはならない。 ・・・と思うのだが、この法律の施行後「1年を目処」に、「原子力損害の賠償に関する法律」を改悪し、原発事故の賠償金額に条件を設け、原因企業の責任負担を制限することが「付帯決議」された。
◇ 原発賠償仮払い法が成立 東電の支払い分立て替え
◇ 東日本大震災:原賠機構法成立
整理すると、前回の投稿で述べたことは国が東電を保護し賠償金を貸付もしくは肩代わりするということだが、この投稿で述べる「原子力損害賠償法」の改悪とは、(東電あるいは国が支払う)賠償の金額に上限を設けようということだ。
1億円の損害が出たのなら(東電か国のどちらが払うかはともかく)1億円の賠償を要求したいが、この賠償金が減額されたり、あるいは既に賠償支払い総額の上限を超えたとして拒否されるかもしれない、ということだ。
「原子力損害の賠償に関する法律」の第3条は、原発事故などで損害が発生した際は原子力事業者に賠償責任があると定めている。
また第6〜7条は、原子力事業者は「原子力損害賠償責任保険契約」か「原子力損害賠償補償契約」による「損害賠償措置」を講じなくてはならないとしている。これらによる「賠償措置額」は1200億円以内だが、第16条では賠償額が「賠償措置額」を超えた場合に、政府が「必要な援助を行なう」とある。
要するに1200億円を越えた場合は、賠償金支払いを国が「援助」するということである。金を貸すのか肩代わりするのか分からんが。こうして支払われるべき賠償金の上限については特に定めがない。電気事業連合会のサイトではこの法律について「原子力事業者に無過失・無限の賠償責任を課すとともに、その責任を原子力事業者とする」と説明している。
しかし今後、賠償額に上限を設けようというのだ。仮に電力会社の賠償責任が軽減されても国が賠償を肩代わりする、というならまだしも、ある線で打ち切ろうというのだ。
まだ福島原発事故が起こってから半年も経っていない。農産物・畜産物・水産物への影響は今後も拡大するかもしれない。秋の収獲を迎えて汚染の規模を思い知らされるかもしれない。また東日本の住民には10年・20年先に癌や白血病など健康被害が発生する可能性があるだろう。なによりも福島原発で働く労働者たちは毎日大量に被曝している。しかし東電と日本政府は今後考えられうる賠償責任を放棄しようというのだ。つまり将来癌や白血病になり、福島原発事故との因果関係が認められたとしても、賠償を拒否されるかもしれないのだ。
7月26日東京新聞【こちら特報部】の「審議大詰め 原発賠償法案 電力会社の責任『有限』に見直し?」は、賠償責任の上限設定は原発政策を維持するも区的もあると指摘している。
「無限責任の見直しは有限化を意味する。無限責任なら、電力会社は長期に渡って賠償を支払い続けなければならないが、有限責任になれば一定の賠償を済ませた後は支払い義務はなくなる。電力会社から見れば、原発事業を継続しやすい環境整備につながる」(編集部)こうして日本政府と財界は、東電と国の賠償責任を制限し、原発政策を維持しようとしているのだ。
「将来の事故に対しても無限責任となれば、金融機関が電力会社への融資をためらうと考えたのだろう。政府は現在の原発政策が維持できなくなるのを恐れている」(7月25日参院会館の集会での、福田健治弁護士の発言)
・・・ところで水俣病のケースも福島原発事故と同じ構図が見られる。当時、チッソの水俣工場でのアセトアルデヒド製造は国策として推進されていたため、被害が拡大しても水俣工場の操業は続けられ廃液垂れ流しが続いた。そして国は莫大な賠償責任を負ったチッソを援助・保護している。
過去ログからの焼き直しだが、1986年11月17日の大阪地裁(関西訴訟)の証人尋問にて、次のようなやり取りがあったという。
原告側の小野田學弁護士が、
「かつて浦安の漁民がパルプ廃液の被害を訴えたとき、本州製紙江戸川工場は操業を停止した、水俣では人が死んでいるのに、なぜ操業停止を命じなかったのか」
とただすと、秋山(通産省の秋山武夫・元軽工業局長)はおおよそ次のように命じた。
「チッソが占める重要度の比率が違う。経済価値なり周囲に与える影響なりを考えると、紙もアセトアルデヒドも同じという結論にはならないはずだ」
アセトアルデヒドの重要度は水俣の人命以上だ、と言ったのに等しいことに、彼自身気づいていたのだろうか。人を人と思わないとはこのことではなかろうか。(「水俣病事件40年」P-224)
また、1959年に水産庁の職員が通産省対し「チッソの排水規制の指導をすること」を申し入れたが、通産省は「すでにチッソには排水措置を命じた」と返答するのみだった(しかしその排水措置にはメチル水銀を除去する能力は無かった)。チッソの廃液が水俣病の原因だと疑うこの水産庁の職員は、他の省庁から煙たがられていた。
食品衛生調査会答申後の奇病対策協議会に出た井上(水産庁の職員)は、ある種の有機水銀とわかったのだから、しかるべき対策を講じるべきだと主張し、他の省庁との間で激論となった。そんな井上が会議に出ていくと、ほかの省の者たちは露骨にいやな顔をして、「一言で言えば工業立国だよ井上さん」と言ったりした(同上P-264)
この会議に出ていた汲電卓蔵・経済企画庁水質調査課・課長補佐は、1995年7月1日のNHKの番組(NHKスペシャル戦後50年「チッソ水俣工場の技術者の告白」)で語ったところによると、水産庁は「とにかく排水を止めさせて、ゆっくり原因を調べるべきだと主張していた」が、それは政府にとって出来ない相談だった。
「会社の操業より生命が大事とわかっていても当時は止められなかった、高度成長という時代に負けて何もしなかったと言われても仕方なく、謝るしかない。排水が原因だとわかってやった『確信犯』だったと言える」(同上P-265)
これらの対応は、福島原発事故・原発政策への、日本政府・財界の対応とそっくりではないだろうか。所詮連中は人間の命よりも電力の確保とそれによって維持される経済活動が重要なのだ。
原発事故以来、政治家も財界人もマスゴミもその辺のオッサンも「原発は危険というけれど、原発を止めたら電気が足りない」と口を揃えるが、これは「チッソ工場止めたらアセトアルデヒド作れない」というのと同種だ。「アセトアルデヒド製造のために不知火海周辺の住民は水俣病で死ね」というのと同じだ。「景気回復のために、被曝した人間は死ね」というのと同じだ。
政治家・官僚・大企業・御用学者・マスゴミにとってはどうなのか知らんが、電力供給よりも経済活動よりも、安全な農作物・畜産物・水産物、そして自然環境と人間の健康のほうが大切だ。電気がいくらあっても食い物が食えなきゃ意味無い。だから電力供給能力を根拠に原発の是非を問うのは愚かなことだ。それこそ、東電管内の原発依存度が50%だったら「原発止めても電気は足りる」とは言えないだろう。しかしそれでも原発は止めなければならない。
ゆえに「脱原発」ではなく「反原発」を訴えたい。「原発を止めても電気は足りるから原発はいらない」ではなく、とにかく原発とはあってはならないものだからすぐ廃止しなくてはならない、と訴えたい。
正直俺も、太陽光発電や風力発電を原発の代わりにするのは非常に困難だと思うよ。しかし電力供給なんぞ全部原発止めてから考えりゃいいことだと思うぞ。(ってゆうか実際原発止まってもなんとかなってるしw)