この男にとっては日本の戦争は「自存自衛」と「アジアの独立」のためであり、加害事実など全て事実無根のことなのであろう。かつその品性下劣さもインターネット上で無責任な書き込みを繰り返す輩と同然である。前社民党党首土井たか子氏に対して「万死に値する」と脅迫したことや、同じく自民党の議員である中川とともにNHKを恫喝し番組内容を改変させたことが記憶に新しい。
しかしこのような男が内閣総理大臣になろうとしているのである。政権に対する批判を封殺するため、「恒久的な」自衛隊の派遣を可能にして「集団的自衛権」を行使するため、憲法改悪、教育基本法改悪、日米軍事同盟の強化、共謀罪成立へ向けて遮二無二進んでいくだろう。
さらに「戦後教育は自虐」だと主張する彼は、かつて日本がアジアで行った事実をことごとく否定し歴史を歪曲することに執着するだろう。我々国民の歴史認識を歪めようとしているのである。日本軍の蛮行の中でも最も有名な事件である南京大虐殺についても否定するかもしれない。
このような圧力を跳ね返すためには、正しい資料を元に歴史の真実を追求し、歴史を歪曲しようとする勢力を厳しく糾弾しなければならない。歴史の事実を記した者が、虚偽を記したとして訴えられることがあれば、堂々と対決しなければならない。戦争犯罪の被害者を侮辱するような妄言に対しては、逆に司法の力で追い詰めなければならない場合もあるだろう。
南京大虐殺当時、二名の日本軍将校が無抵抗な捕虜に対して「試し斬り」という快楽殺人を行い、新聞記者に対して戦闘中での活躍であると偽って語り、「百人斬り」と宣伝された。この二名は戦犯として処刑されたが、歴史歪曲派がこの捕虜虐殺は事実ではないとして、二名の行為を著書に記した本多勝一先生や朝日・毎日両新聞社を名誉毀損で訴えた「百人斬り裁判」を起した(参考)。しかし今年5月東京高裁にて、一審に続いて原告全面敗訴の判決が下った。全く当然の判決であるが、原告の歴史歪曲派は最高裁に持ち込む構えを見せており予断は許されない。
また、亜細亜大学教授の東中野修道氏は、南京大虐殺の際に家族を殺された夏淑琴さんに対し、その事実を疑っている。しかし彼の論考は全く的外れであり、単なる侮辱に過ぎない。これに対し夏淑琴さんは南京の法廷にて名誉毀損訴訟を起し、先月勝訴判決が出た。しかしこれは日本では法的拘束力の無い物であり、東京に場を移した訴訟が焦点となっている。
9月22日午後1時10分より、東京地方裁判所709号法廷にて、第二回口頭弁論が行われる(30分ほど前から傍聴券の抽選が行なわれる模様)。我々「史実を守る会」は、百人斬り裁判に続いてこの訴訟を支援している。
6月30日の第一回口頭弁論の際には、西村修平を中心に10名ほどの右翼が裁判所前に集まり、大音響で原告の夏淑琴さんと我々を侮辱していた(もっとも人数では我々がはるかに勝っていたが)。首都圏以外に住む方々には非常に困難な話であり、しかも平日の昼間だが、当日都合のつく方は是非とも傍聴に訪れていただきたい(前回より小さい法廷で行われるので「狭き門」になってしまったが)。よろしくお願いします!
さて、被告である東中野修道・亜細亜大学教授の主張にどのような問題があるのか書いてみる。
1.「「南京虐殺」の徹底検証」(展転社、1998年)
1937年12月13日の南京陥落の日、市内に住んでいた夏淑琴さん(便宜上「カシュクキン」と日本語読みしているが、正しくは「シャーシューチン」)宅に日本兵が多数押し入り、夏淑琴さんの9人の家族のうち7人と、家主の4人家族全員の合計11人を殺害した。生き残った夏さんと妹は事件後「南京安全区国際委員会」に保護され、安全区の委員の一人であるアメリカ人宣教師のジョン・マギー(John G. Magee)はこの事件を調査しフィルムに記録した。また終戦後夏さんは本多勝一先生などに証言を語った。
ところが亜細亜大学教授・東中野修道氏は、その著書「「南京虐殺」の徹底検証」(展転社、1998年)にて、夏さんがニセの証言者であるかのような記述をしている。
まずこの著書のP-241〜240にて、「南京ドイツ大使館公文書綴『日支紛争』」から、ジョン・マギーの記録フィルムの説明文を、自ら翻訳して引用している。
【十二月十三日、約三十人の兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人の家にきて、中に入れるよう要求した。(注:この文中に「マアという名の・・・」と部分があり、「馬」と解釈している訳文もあるが、正しくは「ハ」(Ha)である。つまり「哈」である。「Ha」のHの部分が原資料では不鮮明でMに見えてしまうらしい)
玄関を、@マアという名のイスラム教徒の家主が開けた。すると、ただちに彼らはマアを拳銃で殺した上、もう誰も殺さないでと、マアの死体に跪いて頼むAシアさん Mr.Hsia をも殺した。なぜ夫を殺したのかとBマアの妻が尋ねると、彼らはマアの妻をも殺した。
Cシアの妻はD一歳の赤ん坊と客間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。そして、一人かもっと多くの男たちから裸にされ、強姦された後、銃剣で胸を刺されて殺された。その上、陰部に瓶を突っ込まれ、赤子も銃剣で殺された。
それから、何人かの兵士が隣の部屋へと行った。そこには、シアの妻のE七十六歳とF七十四歳になる両親、それにG十六歳とH十四歳になるシアの娘がいた。この娘たちを彼らが強姦しようとしたその時、祖母が娘を守ろうとして拳銃で殺された。祖父が妻の体をつかむと、祖父も殺された。
それから、二人の少女が裸にされた。上の少女は二、三人に強姦され、下の少女は三人に強姦された。その後、上の少女は刺されて陰部に茎を詰め込まれた。下の少女も銃剣で突き殺されたが、母や姉の受けたぞっとするような扱いは免れた。
それから、兵士たちはもう一人のI七、八歳になる妹も銃剣で突き殺した。同じくその部屋にいたからである。
この家の最後の殺人はJ四歳とK二歳になるマアの二人の子供 children (筆者註:性別不明)の殺人であった。上の子は銃剣で突き殺され、下の子は刀で真二つに斬られた。
Lその八歳の少女 the 8-year old girl は傷を負った後、母の死体のある隣の部屋に這って行った。無傷で逃げおおせたM四歳の妹 her 4-year old sister と一緒に、この子はここに十四日間居残った。この二人の子供はふかした米を食べて生きた。
写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、上の八歳の少女からで、詳細は一人の隣人 a neighbor と一人の親戚 a relative から語ってもらって、確認と訂正ができた。
兵士たち the soldiers は毎日この家に物を取るためやって来たが、二人は古い敷布(シーツ)の下に隠れていたので発見されなかったと、この八歳の少女は語った。
このような恐ろしいことが起こり始めた時、近所の住民はみな避難民地帯に逃げた。それから十四日して、このフィルムに出て来るN老女性 the old woman が近所に戻って、二人の子供を発見した。その後、死体が全て取り除かれたあとの部屋 an open space where the bodies had been taken afterwards に、写真撮影者の私を案内したのは、この老女性であった。彼女や、シアさんのO弟(または兄) Mrs. Hsia's brother と、この小さな女の子にたいする質問を通じて、恐るべき悲劇についての疑問の余地なき理解が得られたのである。】
これについて東中野氏は様々な疑問点を挙げているが、どれも説得力を欠く。例えば、
【第四に、日本兵が玄関を開けさせ、突然入ってきた。そして、いきなり家主を撃ち殺したという。これは問答無用の計画的殺害であったことを窺わせる。ところが、どうしたことか、八歳と四歳の姉妹だけは殺されなかった。目撃者は消されるのが常であるにもかかわらず、なぜか二人は見逃された。それはなぜなのか。】(P-244〜255)こういう犯罪では常に、被害者全員が完璧に殺される・・・わけではあるまい?「八歳の少女」は刺されたが浅手だったので生き残っただけではないか?四歳の妹は隠れていたので発見されなかっただけではないか?それに「計画的殺害」ではなく、強姦と略奪が目的だったように見えるが?
【第五に、「このような恐ろしいことが起り始めた時、近所の住民はみな避難民地帯に逃げた」と言われるにもかかわらず、この二人の幼児だけは、無残な恐るべき十二人の死体と一緒に、二週間も寝起きを共にした。いったい、なぜ逃げ出さなかったのか。】(P-255)逃げるといっても、8歳と4歳の少女がどこに逃げるというのだろうか?どこに逃げれば安全か判断できるだろうか?家に留まっているのが自然ではないだろうか?
【第七に、銃剣で「重傷」を負った八歳の少女が何とかショック死を免れた。しかし、傷を負った身で、十四日間も生き永らえることができた。それはなぜか。】(P-255)それは、傷の深さや出血量などでケースバイケースだと思うが?(この部分については後述)
続いて、以下の記述が氏にとって最も重要な主張であると思われる。
【第九に、家族の総数が違う。『南京安全地帯の記録』の事例二一九(マギーの説明)では総数は二家族で十三人であった。しかし、「日支紛争」のなかのマギーの記録では、十四人であった。「八歳の少女」が、生き残った夏淑琴さんのことを指していることは前提として理解していると思われるが、しかし「シア(夏)夫婦の娘なのか、マア夫婦の娘なのか分からない」と主張している。
そのうえ、家族関係がよく分からない。唯一の生存者と主張する二人の子供、具体的には「八歳の少女」とその妹は(四歳)は、いったい誰の子供なのであろうか。
マギーはいきなりLの「八歳の少女」は「母の死体のある隣の部屋に這って行った」と説明したのである。その「母」とは、Cのシアの妻を指すのか。それともBのマアの妻のことなのか。】(P-256)
【仮に、「八歳の少女」がシア夫婦の子であったとすると、「八歳の少女」はシア夫婦のIの「七、八歳になる妹」と姉妹であったことになる。もし両者が双子ならば、「七、八歳になる妹」は八歳であったが、それが七歳か八歳か分からなかった。「八歳の少女」と「老女性」と「シアさんの弟(または兄)」の三人に「確認」しても、分からなかった。ということは、両者は双子ではなかった。双子でなければ、七歳になるが、それが七歳かどうかも分からなかった。ということは、「七、八歳になる妹」は、妹ではなかったと考えるのが自然である。従って「八歳の少女」はシア夫婦の子ではなかったことになる。この部分、何度読み返してもなかなか理解できなかった(笑)要するに東中野氏は、
では、「八歳の少女」はマア夫婦の子供であったのか。「八歳の少女」には、四歳の妹がいた。マア夫婦にも、四歳の子供(性別不明)がいた。ということは、「八歳の少女」の「四歳の妹」Mと、マア夫婦の「四歳」Jの子供は、双子であったことになる。双子は一目瞭然だから、特に双子と明記されていたことだろう。また男の子か、女の子か、性別は明らかであったはずである。ところが、この二点さえも不明であった。従って「八歳の少女」がマア夫婦の子供ではなかったと考えるのがやはり自然であろう。
このように「八歳の少女」は、シアの子供でもマアの子供でもなかった。その姓は、シアでもなかった。もちろん、マアでもなかった。】
●もしも「八歳の少女」がシア夫婦の娘ならば、「七、八歳になる妹」と双子かもしれない。
しかし双子だったならば、一方を「7、8歳」などと漠然とした表現は用いないだろう。8歳だとはっきり書くはずである。だから双子ではないだろう。
●もしも「八歳の少女」がシア夫婦の娘であり、かつ「その八歳の少女」と双子ではないのならば、
「八歳の少女」が姉で、「七、八歳になる妹」が妹ということになる。
しかし「七、八歳になる妹」が妹だったならば、「7、8歳」などと漠然とした表現は用いないだろう。7歳だとはっきり書くはずである。だから姉妹でもないだろう。
●ゆえに、「八歳の少女」は、シア(夏)夫婦の娘である「七、八歳になる妹」の双子でも姉でもない。「八歳の少女」は、シア夫婦の娘ではない。
●結論として、生き残った「八歳の少女」は、夏淑琴さんとは別人である。
・・・と、いうことを主張したいようである。
しかし、そもそも「八歳の少女」と「七、八歳になる妹」を別人だと考えていることに疑問がある。
「マギーはいきなりLの「八歳の少女」は・・・」などと書いているが、「八歳の少女」はいきなり登場したわけではない。氏自身が「その八歳の少女」と訳しているのである。「その」という形容詞がついている以上、「その八歳の少女」は「七、八歳になる妹」のことを指していると判断すべきであろう。「8歳」なのか、「7歳か8歳」なのか、統一して欲しかったものであるが、
たとえば、「**署は第一通報者の25、6歳の男から詳しい事情を聞いている。警察官が駆けつけたとき被害者は全員死亡していた。その26歳の男は・・・」
・・・という文章の中では、「25、6の男」と「26歳の男」は同一人物であることは言うまでもない。
しかし「その八歳の少女」は生き残ったが、「七、八歳になる妹」は銃剣で殺されたことになっている。これは氏が、マギーの説明文(英文)を翻訳する際に誤訳をしたせいであろうと考えられている。
「七、八歳になる妹」は日本兵が「銃剣で突き殺した」と訳してしまったので、
「夏夫婦の娘である『七、八歳になる妹』は殺されてしまったので、当然生き残った『八歳の少女』とは別人である。
つまり生き残った夏淑琴さんと、『七、八歳になる妹』は別人である。
だから夏夫婦の娘だったと主張する夏淑琴さんの証言は疑わしい」
・・・と考えたのだろう。
(原文)The soldiers then bayoneted another sister of between 7-8, who was also in the room.
(東中野氏の訳)【それから、兵士たちはもう一人のI七、八歳になる妹も銃剣で突き殺した。同じくその部屋にいたからである。】
つまり“bayonet”という動詞を「銃剣で突き殺した」と訳したのであるが、 “bayonet”という動詞には、「銃剣で突き殺す」という意味と、「銃剣で突く」という二つの意味がある。必ずしも刺殺する事だけを指すものではない。原文全体を読めばこの部分の「銃剣で突き殺した」という訳は、文脈から相応しくないことが分かる。“EyeWitnesses to massacre”という洋書のP-209〜210にて、原文を確認できる。
On December 13, about thrity soldiers came to a Chinese house at #5 Hsing Lu Kao in the southeastern part of Nanking, and demanded entrance. The door was opened by the landlord, a Mohammedan named Ha.このように“bayonet”という動詞が5箇所で登場する。
They killed him immediately with a revolver and also Mr. Hsia, who knelt before them after Ha’s death, begging them not to kill anyone else.
Mrs. Ha asked them why they had killed her husband and they shot her dead.
Mrs. Hsia was dragged out from under a table in the guest hall where she had tried to hide with her one-year-old baby.
After being stripped and raped by one or more men, she was bayoneted in the chest, and then had a bottle thrust into her vagina, the baby being killed with a bayonet.
Some soldiers then went to the next room where were Mrs. Hsia’s parents, aged 76 and 74, and her two daughters aged 16 and 14.
They were about to rape the girls when the grandmother tried to protect them. The soldiers killed her with a revolver.
The grandfather grasped the body of his wife and was killed.
The two girls were then stripped, the older being raped by 2-3 men, and the younger by 3. The older girl was stabbed afterwards and a cane was rammed into her vagina. The younger girl was bayoneted also but was spared the horrible treatment that had been meted out to her sister and her mother.
The soldiers then bayoneted another sister of between 7-8, who was also in the room.
The last murders in the house were of Ha’s two children, aged 4 and 2 years respectively. The older was bayoneted and the younger split down through the head with a sword.
After being wounded the 8-year old girl crawled to the next room where lay the body of her mother.
Here she staid for 14 days with her 4-year old sister who had escaped unharmed.
The two children lived on puffed rice and the rice crusts that form in the pan when the rice is cooked.
It was from the older of these children that the photographer was able to get part of the story, and verify and correct certain details told him by a neighbor and a relative.
The child said the soldiers came every day taking things from the house, but the two children were not discovered as they hid under some old sheets.
All the people in the neighborhood fled to the Refugee Zone when such terrible things began to happen. After 14 days the old woman [15] shown in the picture returned to the neighborhood and found the two children. It was she who led the photographer to an open space where the bodies had been taken afterwards. Through questioning her and Mrs. Hsia’s brother [16] and the little girl, a clear knowledge of the terrible tragdey [sic] was gained.
The picture shows the bodies of the 16 and 14 year old girls, each lying in a group of people slain at the same time.
Mrs.hsia and her baby shown last.
1. まず夏夫人の受けた行為の中で登場する。彼女は強姦され胸を銃剣で刺され、さらに膣に何らかの瓶を挿入された。この状況では“bayonet”は「銃剣で胸を刺されて殺された」という東中野の訳に問題はないだろう。
2. 彼女の1歳の乳児は、“killed with a bayonet”(つまり銃剣で殺された)のであるから、この部分の訳も問題はない。
3. 14歳の少女も銃剣で突かれたが「母や姉の受けたぞっとするような扱いは免れた」のであるが、この説明文の最後に“The picture shows the bodies of the 16 and 14 year old girls”(16歳と14歳の少女の6歳と14歳の少女の死体が写っている)という記述がある。だからこの部分も「銃剣で突き殺された」という訳に問題はないだろう。
4. “Ha”夫婦の4歳の子供についても“The older was bayoneted”という表現しかないが、その前に“The last murders in the house”(この家で最後の殺人)という説明がある。ゆえに「上の子は銃剣で突き殺され」という訳が相応しいだろう。
5. しかし「七、八歳になる妹」についてはただ“bayoneted”とだけ書いてある。しかし上述したように生き残った「八歳の少女」とは「七、八歳になる妹」だと解釈するのが相応しい。この部分では「銃剣で突き殺す」ではなく「銃剣で突く」と訳すべきである。氏はこの誤訳によって詭弁を膨らませたわけである。
・・・ところで上でも引用したが、(以下はK−Kさんが「史実を守る会」のMLで流した疑問を受け売りさせて頂きます!)
第七に、銃剣で「重傷」を負った八歳の少女が何とかショック死を免れた。しかし、傷を負った身で、十四日間も生き永らえることができた。それはなぜか。とあるが、この「八歳の少女」についての原文は以下である。
After being wounded the 8-year old girl crawled to the next room where lay the body of her mother.
これを東中野氏は、「その八歳の少女 the 8-year old girl は傷を負った後、母の死体のある隣の部屋に這って行った」と訳している。その訳自体は問題ない。
しかし氏は「銃剣で『重傷』を負った八歳の少女が何とかショック死を免れた。しかし・・・」と書いている。「その八歳の少女」についての記述では“bayonet”という単語は全く登場しないのに、「銃剣」という言葉を持ち出しているのである。
一つの推測だが、東中野氏は「八歳の少女」は「七、八歳になる妹」と同一人物であり、「銃剣で突き殺された」のではなく「銃剣で突かれた」ことを理解していたのではないか?つまりこの部分の“bayonetted”という表現を意図的に「銃剣で突き殺された」と誤訳し、読者を騙そうとしたのではないか?しかし迂闊なことに「八歳の少女」は「銃剣で『重傷』を負った」という文言を入れてしまったのではないか・・・と思う。
さて、このような東中野氏の誤解(あるいはトリック?)から発生した詭弁が全く無意味になる資料がある。アーネスト・H・フォースター(Ernest H. Forster)というアメリカ人宣教師の記録の中にも、ジョン・マギーの証言が登場するのである。
日本軍が南京城侵入最初の日〔12月13日〕、日本兵たちが市内の南東部にある夏家にやってきた。日本兵は、八歳と三歳あるいは四歳の二人の子どもだけを残してその家にいた者全員、一三名を殺害した。これは、八歳の少女(夏淑琴)が話したことを彼女の叔父と私を案内した近所の老女とに確認してチェックした事実である。「南京難民区の百日 ――虐殺を見た外国人――」(笠原十九司/著、岩波書店)P-254より引用。
この少女は背中と脇腹を刺されたが、殺されずにすんだ。殺害された人には、七六歳の祖父と七四歳の祖母、母親と一六歳と一四歳の姉と一歳の赤ん坊(妹)がいた。二人の姉ともそれぞれ三人ぐらいの日本兵に輪姦され、それから最も残酷な殺されかたをした。下の姉は銃剣で刺し殺されたが、上の姉と母のほうはとても口にできないやり方で殺害された。私は南京でそうした方法で殺害されたのを四件ほど聞いているが、ドイツ大使館の書記官(ローゼン)は、一人の女性は局部に棒切れを押しこまれていたと言っている。彼は「あれが、日本兵のやりかたさ」と言った。
この文書によると夏淑琴さんの家族の中で殺害されたのは、
▼七六歳の祖父
▼七四歳の祖母
▼母親
▼一六歳
▼一四歳の姉
▼一歳の赤ん坊(妹)
以上の6名であり、夏さんの父親が抜け落ちている。しかし生き残ったのは「三歳あるいは四歳」の子供と、「八歳の少女」である。
「七、八歳になる妹」あるいは「八歳の少女」という曖昧な表現は存在しない。
繰り返すが東中野氏は生き残った「八歳の少女」を夏家の娘だと解釈するのは無理があると、主張する。しかしフォースターが保存していたマギーの証言によると、夏家の「八歳の少女」がマギーに状況を話したのである。東中野氏の詭弁は全く意味事実を無視した無駄な物だったことが分かる。
また、この証言の中には「八歳と三歳あるいは四歳の二人の子どもだけを残してその家にいた者全員、一三名を殺害した」とあるが、この部分は「徹底検証」でも言及されている。
笠原十九司『南京難民区の百日』に、「八歳の少女(夏淑琴)」がマギーに語ったもう一つの話が出てくる。殺害されたのは夏さんの家族のうち祖父母、父母、二人の姉、1歳の乳児の計7人、家主であるHa(哈)の家族の4人、合計11人である。この件についてさる会合で、K−Kさんが著者である笠原先生に質問されたところ、これは笠原先生による誤訳だったとのこと。正しくは「13人を殺害」ではなく、正しくは「13人のうち・・・を殺害した」というものだったらしい。先生は「誤訳を東中野氏に利用されてしまった」と苦々しく語っていた。
≪日本兵たちが市内の南東部にある夏家にやってきた。日本兵は、八歳と三歳あるいは四歳の二人の子どもを残してその家にいた者全員、一三名を殺害した。≫
今度は十三人殺害の話であった。(「徹底検証」P-247)
ということは、東中野氏は「徹底検証」を執筆する前に笠原先生の「南京難民区の百日」を読んでいたことになり、フォースターの残した記録の中のマギーの証言も読んでいたことになる。要するに生き残った「八歳の少女」は夏淑琴さんのことであり、「八歳の少女」は「七、八歳になる妹」と別人などという奇妙な前提など全く成り立たないことを理解していたはずである。
「13人を殺害した」という部分のみに着目して、家族構成の部分は読み落としたのであろうか?あるいは家族構成を理解しつつも意図的に「誤訳」したのであろうか?そうだとすれば全く卑劣極まりないトリックだったことになる。
2.小学館「SAPIO」掲載文
「私を訴えた南京事件の“虚殺”目撃者こそ“虚構の産物”だ」
また、「「南京虐殺」の徹底検証」の第一刷は1998年8月15日であるが、東中野氏は小学館の雑誌「SAPIO」の2001年8月8日号にて、「私を訴えた南京事件の“虚殺”目撃者こそ“虚構の産物”だ」という文章を載せている。
ここでは、夏淑琴さんは「南京への道」(本多勝一/著、朝日文庫 P-197〜)に収録の証言にて「当時7歳」と語っていたが、ジョン・マギーの説明文では、生き残った少女は「八歳の少女」だったこと、「1994年に日本で講演したおり当時何歳であったとは言わず、1929年5月5日生まれと述べ」たことなどに言及し、年齢があやふやであるから生き残りである「八歳の少女」と夏淑琴さんが同一人物であるとは疑わしいと主張している。さらに殺された家族の年齢を証言する際にも食い違いが生じていることも言及している。
(「SAPIO」掲載文 「私を訴えた南京事件の“虚殺”目撃者こそ“虚構の産物”だ」(P-26〜28)より抜粋)(この引用文のうち斜線部分だけはこのブログを書いている人間による注釈)
夏淑琴氏は右の証言(「この事実を・・・」P-115)でも、事件当時「7歳」であったと語っていた。それから2年後の1987年の証言においても、本多勝一著「南京への道」によれば、「当時7歳」と語っていた。
しかしマギーは「少女C」(殺害事件の目撃者のこと)の年齢に関しては常に「八歳の少女」と記録していた。そこで問題になるのは、夏淑琴氏の言う7歳が数え年7歳(満6歳)ではなく満7歳(数え年8歳)を意味していたのかである。もし夏淑琴氏が数え年8歳の満7歳であったとすれば、マギーの記録した「8 歳」と一致することになる。笠原十九司著『南京難民区の百日』は後者の数え年8歳(満7歳 ) と解釈している。
しかし最近になって存在が明らかとなった史料、たとえばマギーの4月2日付マッキム氏宛の手紙は、「中国式計算」で「9歳の少女」と「5歳の子供」が生き残ったと記録していた。マギーは数え年という「中国式計算」があることを知っていたのである。従って「8歳の少女」が数え年9歳(満8歳)であったことは否定できない。それゆえ「少女C」の名前がマギーによって仮に夏淑琴と記録されていたとしても、「少女C」と夏淑琴氏とは、年齢が満8歳と満7歳と違う以上、単なる同姓同名に過ぎず、私たちがよく経験しているように別人ということになる。
ちなみに、夏淑琴氏は「7 歳」と二度も語っていたにもかかわらず、1994年に日本で講演したおり当時何歳であったとは言わず、「1929年5月5日生まれ」と述べるにとどめている。当時の年齢を言外に「満8歳」と述べて、辻棲をあわせたのである。(最近の笠原十九司先生による夏淑琴さんへの取材によって、正しくは1930年生まれだったことが明らかになった。「体験者27人が語る南京事件」参照のこと)
さらに夏淑琴氏の証言する5人姉妹の年齢も矛盾している。最初の1985年の証言は、長姉、次姉、本人、妹、末妹の年齢を、20歳、18歳、本人7歳、生き残った妹3歳、幼い妹と語っていた。しかし二回目の1987年の証言は、15歳、13歳、本人7歳、生き残った妹4歳、生後数か月の乳児と語っている。
自分を基準に考えると、これほどの差は出ないはずである。しかも自ら名乗り出てきての証言であり、証言する前に事前に準備ができていたから、これが思い違いであったという言い訳は通用しない。
決して変わることのない事実を、一人の人間がこのように変えて証言するということは、証言それ自体を疑わせることになるだろう。
●しかし当時の夏さんの年齢を日本の学校制度に当てはめれば、小学校2年生である(1929年5月5日生まれ)。そのとき幼い妹以外の家族と引き裂かれたのである。家族の年齢どころか自分の生年月日すら正確に記憶していなかったとしても無理はないと思うが?
●たとえば「お前の祖父が亡くなったのは、お前が何歳の時か?」などと質問され、間違って答えてしまうこともあるだろう。俺は小学校5年の時だったのは憶えているのだが・・・
●また、もし夏さんが自分の生年月日を中華民国の暦(事件があった1937年は「民国26年」)で記憶していたとしたら、西暦では1929年か1930年か間違えてしまうこともありえるだろう。中国のこの年代の方々にどれほど西暦が身近なものになっているか定かではないが、少なくとも現代の日本の同年代の方に、自分の生年月日を西暦で答えて下さいとお願いしても、誤答率(?)はかなり高いのではないかと思う。
・・・と、以上のような疑問をさる会合にて述べてみたのだが、笠原先生によると、当時の中国の貧しい人々は娘の年をいちいち数えることはせず、せいぜい干支を憶えているぐらいで、だいたい名前すら付けない場合も多かったという。(たとえば漢帝国を造った英雄「劉邦」の「邦」という字の意味は、「劉さんちのお兄ちゃん」という程度の意味らしい。だから「張さんちのお姉さん、陳さんちの末っ子」という程度の「名前」は存在したのだろう)
それに当時、中華民国の暦は庶民の間ではあまり浸透していなかったという。
だから夏さんの年齢についていろいろ詮索するのは全く無意味なのである。
そもそも、夏さんが自分の年齢を訂正したことを問題視し、そういう人物の証言は信用できないというのは意味が無い。証言の内容自体とは全く関係のないことである。「年齢をサバ読んでいる芸能人は何を言っても信用できない」と言うのと同じことである(笑)
*ちなみに数え年9歳であれば満年齢で7歳か8歳のどちらかである。マギーの記述もむしろ親切なものだと言えるかもしれない。
それにこの「SAPIO」掲載文では、「南京虐殺の徹底検証」に於ける、
「生き残った『八歳の少女』と、『七、八歳になる妹』(夏夫婦の娘)とは別人、だから夏淑琴さんは当事者ではない」
という主張が出てこない。「七、八歳になる妹」には全く言及していない。「徹底検証」に於ける自分の主張が全く無意味だったことに気付いたようである。「私を訴えた南京事件の“虚殺”目撃者こそ“虚構の産物”だ」と叫びながらも、訴えられる元となった「徹底検証」の主張をあっさり取り下げるとは大した卑劣漢ではないか?
「一人の人間がこのように変えて証言するということは、証言それ自体を疑わせることになるだろう」などと述べているが、この言葉に“のし”をつけて返したい。
「一人の人間がこのように主張を変えて反論するということは、主張それ自体を疑わせることになるだろう」
#ちなみにこの掲載文では、夏さんの年齢に対する疑問の他に、
「日本軍にはアリバイがある」として、「夏さんの証言によると日本兵が襲ってきたのは12月13日朝9時頃らしいが、日本軍が中国軍を撃破して城内に入れたのは昼12時ごろである。朝9時頃にはまだ城外で交戦中だった」と主張している。
しかし夏さんは事件から14日も経ってから発見されたのである。朝9時であったか、昼頃であったか、はたまた夕方であったか思い違いが生じても不自然ではないと思うが?
そもそも、事件から10日以上経っているのであるから(しかも両親を殺され幼い妹と共に物陰に隠れていたのだから)、それが14日前だったのか13日前だったのか(つまり12月13日だったのか14日だったのか)記憶違いが起こっても当然ではないか?
もっとも東中野氏の「日本軍が中国軍を撃破して城内に入れたのは昼12時ごろである」という主張は、ゆうさんによって徹底的に論破されている。夏さんの家から最も近い「中華門」も、午前3時半頃日本軍によって開放されていたのである。
笠原十九司先生の「南京事件」(P-140)も、南京陥落の瞬間の情景を記している。
深夜の零時半をすぎると、城内一帯の砲声や銃声も途絶え、南京の戦場は異常な静寂におちいった。それまでに中国軍のすべての抵抗は瓦解した。最後に残った中山門も、第一六師団の歩兵第二〇連隊が無血占領、門の鉄扉に「昭和十二年十二月十三日 午前三時十分 大野部隊占領」と白墨で書きつけた。
南京城はついに陥落した。
3.東中野氏の主張の原理
以上のように東中野氏の主張の問題点を指摘してきたが、「南京虐殺の徹底検証」で夏淑琴さんの事件について取り上げている「第十一章 南京安全地帯の記録(一)」の、最後に紹介しているある虐殺事件についての考察が、氏の主張には全く常識を欠いていることを端的に示している。
事例一八五しかし東中野氏は以下の部分を引用することによって、この猟奇的殺人は「合法的処刑」であったと結論している。
次は、『南京安全地帯の記録』に掲載されているLの番号を付した「事例一八五」の場合である(二三八頁参照)。ただ、引用に関しては、南京ドイツ大使館公文書綴「日支紛争」から引用を行っている。
≪一月九日の午前、我々が再び南京に到着する数時間前のことだが、クレーガー氏とハッツ氏(オーストラリア人)が大使館のすぐそばで、次のような武士道の現実的適用を見た。英国の義和団事件補償委員会の家と、通称バイエルン広場との間を走る大使館通りの左側に、一部氷の張った小さな池があるが、そこに一人の市民服姿の支那人が腰まで水に浸って立っていた。その貯水池の前では日本兵二人zwei japanische soldatanが銃を構えて立ち、後ろの将校の命令で、この支那人が倒れるまで発砲した。何しろ南京や周辺の池や貯水池の多くが死体で汚染されているように、この死体もご多分にもれず今なお水中にある。≫(括弧内原文)(P-251)
合法的処刑だったことを認める「注」(括弧内≪≫は、「日中戦争南京大残虐事件資料集A英文資料編」P-115にも紹介されている。邦訳は細部の相違あり)
ところが、次に大きな違いが現れる、それは、この事件から約一年後に編纂された『南京安全地帯の記録』には、看過できない事実が「注」として付記されたのである。
≪日本軍の行う合法的な処刑については、我々に抗議する権利などない。しかし、これが非能率かつ冷酷な方法で執行されていることは確実である。その上、日本大使館との個人的な会話でも度々触れたように、これでは或る問題が生じる。つまり、安全地帯内の池でこのように人々を殺すことは汚染につながり、安全地帯の人々への水溜まりの水の供給がひどく減少してしまった。この長い乾燥続きで、水の入手に実に手間取る時、これは実に重大なのである。≫
(中略)
しかし、「注」を考慮に入れると、この出来事は「合法的な処刑」legitimate executionであったことになる。つまり、調査された「市民服姿の男」とは、軍服を脱ぎ捨てて市民に変装し、処刑されても致し方のないことを働いた兵士だったのであろう。(P-253〜254)
たしかにその記録には「日本軍の行う合法的な処刑については、我々に抗議する権利などない」と書かれている。しかし「合法的処刑」か否かをどうして安全区委員会が知ることができるのか?
安全区委員会は「もし合法的処刑であったならば抗議する権利はない」と述べたに過ぎないのである。
「非能率かつ冷酷な方法で執行されている」が、日本軍が「合法的処刑」だと言い張るのなら仕方ありませんよね、ということである。
しかし驚くべきことに東中野氏は「安全区委員会も、この事例が合法的な処刑だったと認めていた」と、強引に解釈してしまったのである!
いくら氏でも(失礼!)、これが婉曲な嫌味であることくらい理解できるだろう。ヤクザが言葉尻を掴んで因縁をつけるような開き直りではないか?「もし本当にそんな借金があるのなら払わなくちゃいけないと思いますけど・・・」と言ったら、「今、本当に借金があるって言っただろ!」と絡むようなものではないか?
恐らく氏は、自分の主張に世間一般の説得力を得ようとは思っていないのだろう。ただ「南京大虐殺など、無かった!」と叫べば支持してくれる層だけがターゲットなのだろう。
氏の著書を好んで読むような人々は、恐らく小林よしのり氏の「戦争論」も愛読書の一つであろう。また昨年「マンガ嫌韓流」という、日本の朝鮮支配を美化しようとする漫画が話題になった。これらの現象について朝日新聞で次のような分析があった(昨年11月24日)
一方、一橋大学の歴史家、吉田裕教授は、南京での旧日本軍の暴行などを否定する動きが強まっているのは、自信を失っている国家にとって『宗教』のようなものだ、という。たしかに、「南京大虐殺も強制連行も左翼の捏造だ、従軍慰安婦はただの売春婦だ」などと主張する人々にとっては、その主張が真実かどうかは関係なく、ただ主張することだけに意味があるのだろう。東中野氏もその一派のようである。
『自信がないから人々は癒しの物語を求める。それは事実と異なると言っても彼らには何の意味もない』
・・・以上、当ブログに於ける東中野批判でした!
ネタばらししちゃいますが、以上はK−Kさんの南京大虐殺 論点と検証と、
ゆうさんの夏淑琴さんは「ニセ証人」か?−東中野修道氏『SAPIO』論稿をめぐって−と、
続・夏淑琴さんは「ニセ証人」か?−東中野修道氏『「南京虐殺」の徹底検証』を検証する−、
6月30日の集会で貰ったパンフ、
それからK−Kさんに直接質問したこと、笠原先生から教えていただいたこと、「史実の会」のミーティングで知ったこと、その他からのパクリでした!


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