2011年06月30日

過去ログ移転:戦略村

 過去ログ移転作業の続き。

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Re(2):ベトナム戦争
投稿番号:18711 (2003/08/03 00:37)
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内容
さらにアメリカ軍と傀儡軍は、民衆からの解放戦線への食糧供給を絶つ為、備蓄していた米などを押収または焼却し、また村落自体を焼却し消滅させ、住民を強制移住させました。

「・・・・ヘリの編隊は次の部落を襲った。そこにも200人近い村民がいた。ここでは米が焼かれた。ヘリの油をかけて火をつける。それを見つめていた四つか五つの子供の目から大粒の涙がぼろ、ぼろと落ちた。政府軍の兵士は難民収容所に来れば食べることができるのだから大したことはない、彼らがここを動きたがらないのが問題なのだといった。米軍の将校は私の表情に気づいて、
『ほっておけば食料はベトコンに流れる』
という。
『だが、どうして彼らの目の前で米を焼く必要がある』
『あの米を積んで帰るだけの時間的余裕はないのだ』
米兵たちはベトナムの農民にとって米がどんなに大事なものであるかを理解できない。米を育てるアジアの農民の心を知らない。私はあの子供はかならず“ベトコン”になるだろうと思った」(岩波新書・亀山旭・著「ベトナム戦争――サイゴン・ソウル・東京――」より)

これは旧日本軍が中国で行なった三光作戦と全く同じです。中国で民衆からの共産軍支援を絶ち切ろうとした日本軍と同じように、アメリカ軍はベトナムの農村を襲い、村民の食糧と家屋を焼き払い、強制移住させたのです。
このようなアメリカ軍の行為は、旧日本軍の三光作戦と異なり、映像に残されています。
「NHKスペシャル・映像の世紀 第9集 ベトナムの衝撃」という番組を以前録画したのですが(DVDの全集もあるが7万円もするのでちと手が出ない・・・・)、そこに三光作戦の実態が記録されています。
村民全員をホールド・アップさせ、従わない者は老人であろうと蹴飛ばし、穀類を焼き捨て、家屋を焼き払う・・・・数々のショッキングな映像が記録されています。これが三光作戦の実態です。
(ところで日本軍は押収した食糧は基本的に自分たちの糧にするために持ちかえり、運搬できない場合のみ焼き捨てましたが、日本軍と違って食糧に困ることはなかったアメリカ軍にとって村落に備蓄されていた食糧に価値はなく、その場で焼き捨てるのみでした。これが一層民衆の憤激を買ったことでしょう)
生まれ育った村落を追われた村民は、日本軍が民衆を「集団部落」に押し込めたと同様に、「戦略村」や鉄条網で囲まれた「難民収容所」に押し込めましたが、そこも日本軍の「集団部落」と同様、非衛生な環境と貧しい生活が待っていました。難民には食糧と生活費が支給されることになっていましたが、南ベトナムの官吏の横流しのためたびたび滞りました。解放戦線側に売り渡すことすら珍しくありませんでした。日本軍が中国の各地に設けた傀儡政権と同様、南ベトナムという傀儡政権も根底から腐りきっていたのです。
このような分離政策にもかかわらず、民衆と解放戦線との接触は絶たれることはなく、門や壁には解放戦線のスローガンが殴り書きされ、元の村に舞い戻るため脱走する者は後を絶ちませんでした。

(ところで岩波ブックレット「三光作戦とは何だったのか」の52ページによると、「・・・・そして後世、ベトナム戦争においてアメリカ軍がこの経験を継承して南ベトナムで『集団部落』を作り、住民を囲いこんで解放戦線と切り離そうとしたことはよく知られているところである」ということですが、ちょっと信じられません。逆効果に終わったこの政策をわざわざ模倣するでしょうか?実際、フィリピンを占領していた日本軍もゲリラに悩まされたため、この政策を行なおうという意見があったのですが、中国での苦い経験があったので立ち消えになりました。それなにの20年後のアメリカ軍は逆効果に終わったことを知りながらも実行してしまったのでしょうか?アメリカ人というのはよっぽど馬鹿なんでしょうか?ともかく、旧日本軍の三光政策とアメリカ軍の対ゲリラ政策が気持ち悪いほど酷似しているのは事実です)

しかし生まれ育った村に還ることは、日本軍侵略下の中国民衆と同様、生命の危険が伴うことでした。
18687で紹介した鈴木啓久元中将の告白によると、(日本軍にとっての)「未治安区」をある日突然「無人区」と宣言することは、そこに存在する人間に対する無差別殺戮開始のゴーサインだったようですが、同様にアメリカ軍が解放戦線の勢力化にある地域を「自由砲撃地帯」(free fire zone)と規定することは、「中にいる民間人はすべて自動的にベトコン、あるいはベトコンの同調者と疑われる」ことになり、「サイゴンや地方官庁の承認を得る」ことなく、「数万トンに及ぶ爆弾、ロケット弾、ナパーム弾、そして砲弾が、1965、66、67のほとんど全期間、毎週自由砲撃地帯に注ぎこまれた」のです。(「ソンミ  ミライ第四地区における虐殺とその波紋」より)
もちろんこれはアメリカの傀儡政権である南ベトナム国内でのことです。文字通り「自由砲撃地帯」として、その中の民衆は無差別に虐殺されました。

このように旧日本軍が行なった三光作戦は第二次世界大戦終結の20年後にベトナムの地に於いて再現されました。追い詰められた侵略軍が最終的にこの作戦をとってしまうことは古今東西共通のようです。
ゲリラの根絶というこの作戦の目的の達成のために、ベトナム人を殺し続け、ベトナムの大地を荒廃させ続ける以外になかったのです。

旧日本軍が中国で民衆を虐殺し、「無人区」を設定し住民を強制移住させ田畑を荒廃させ、また堤防を決壊たように、アメリカ軍はベトナム民衆の無制限殺戮というジェノサイド(genocide)と、「自由砲撃地帯」の設定と住民の強制移住によるベトナム農業の破壊+枯葉剤の大量散布による自然環境の破壊、いわゆるエコサイド(ecocide)を続けたのです。
侵略軍は尽きるところ相手国の民衆を殺し続け国土を破壊し続ける存在である・・・・という本質的な面では旧日本軍もベトナムでのアメリカ軍も同質ですが、アメリカの国力がもたらす物量が、これをさらに凄惨なものにしたのです。
posted by 鷹嘴 at 21:14 | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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