過去ログ移転作業の続き。
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フィリピン2
投稿番号:19095 (2003/12/26 01:40)
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(この投稿は、過去にも散々お世話になった「太平洋戦争日本の敗因D レイテに沈んだ大東亜共栄圏」(NHK取材班編/角川文庫)より激しく引用・・・・つーか丸写しさせて頂きます)
1944年7月、ハワイに於いてルーズベルト大統領、海軍提督のニミッツ、そしてマッカーサーなど軍首脳が今後の日本への進攻ルートについて会談する場が設けられました。海軍首脳が日本に近い台湾への進攻を主張したのに対し、マッカーサーは「道義的責任がある」として、日本の支配下にあるフィリピン奪回を強硬に主張したそうです。結局マッカーサーの意見が通りましたが、このときマッカーサーはルーズベルトと二人だけで密談し、フィリピン攻略の承認と引き換えに次期大統領選立候補を断念したと言われているそうです・・・・・・。
マッカーサーにとってフィリピンは、単なる太平洋上の軍事的な要所ではありませんでした。彼の父のアーサー・マッカーサーはフィリピンの軍政長官でした。ダグラス・マッカーサーもウエスト・ポイント(陸軍士官学校)を卒業した後フィリピンに赴任しています。
1935年、日本の軍事的脅威を感じていたフィリピンのケソン大統領は、マッカーサーを軍事顧問として招聘しました。当時既に55歳のジジイだったマッカーサーは高額の報酬を要求し、それをアメリカ資本の鉱山へ投機し、さらにはマニラ・ホテルの会長に就任しました。こうしてフィリピンの財界人の一人となった彼はいたせりつくせりの待遇のなかで王侯貴族のような生活を送っていたのです。
真珠湾攻撃とほぼ同時に開始された日本軍によるフィリピン侵攻によって翌年2月に命からがら逃げ出したマッカーサーにとっては、フィリピン奪回はまさに「道義的責任がある」ものだったのですが、日本とアメリカという帝国主義国同士の争いに巻き込まれたフィリピン民衆は甚大な被害を蒙ってしまったのです。
1945年2月のマニラ市内での日本軍による民間人虐殺の人数は、東京裁判のフィリピン側検察官の主張によると9万1184人ということですが、実際には雨あられと降りそそいだアメリカ軍の砲爆撃による犠牲者の方が多かったそうです。アメリカ軍は日本兵が潜んでいると見られる建物は民間人の有無など確認せずに爆破したのです。
こうしてアメリカは日本軍を追い払い、1946年にはかねてからの約束を履行しフィリピンを独立させますが、植民地時代と変わらずアメリカに大きく依存する国家が出来上がったのです。フィリピンの歴史家の「コンスタンティーノ」という人は、再びアメリカの植民地に戻るだけであったと指摘しています。
「あれは「解放」ではなく「再占領」でした。アメリカは、再びフィリピンを植民地とするために戻ってきたのです。我々は日本軍に対して戦ったように、アメリカの再占領をも拒むべきでした」
つまりフィリピンは日本という帝国主義国からアメリカという帝国主義国の手に戻っただけだったということです。しかもフィリピン国民の多くの犠牲を伴うことで。
「コンスタンティーノ」さんの第二次世界大戦に於けるフィリピンの立場についての見解は、共産ゲリラ・フクバラハップのルイス・タルク司令官の「日本という大きな悪魔を倒すために小さな悪魔アメリカと手を結んだ」が「やはりアメリカもまた大きな悪魔であったと思い知らされた」という述懐と同様です。また、アメリカ軍による民間人虐殺が激しさを増すイラクにて、バクダッド陥落時は銅像が引き倒されるのに歓呼していた市民がその後「我々は、アメリカという大きな怪物と、フセインという小さな怪物にはさまれた」と悟り、フセイン拘束後も「フセインとアメリカに死を」と叫んでいるのと同様です。
「フィリピンは他人の戦争に巻き込まれたのです。あの戦争は、西洋の植民地帝国とアジアの植民地帝国の戦いでした。われわれは不幸にもこの戦争に放り込まれ、飢え死にし、討伐の犠牲となり、国土を踏みにじられたのです。二頭の巨象が戦い、地面の蟻が踏みつぶされたようなものでした」
(以上、「太平洋戦争日本の敗因D」より)
一頭の象に踏みつけられているだけならまだしも、象が二頭に増えてくんずほぐれつの乱闘を行なったのですから、踏みにじられている蟻にとってはたまったものではありません。しかも後から乗り込んできた象は、敵の象と雌雄を決する前に地面の蟻を一匹ずつ丹念に踏み殺すのに余念がなかったのです。
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1943年9月に定められた「絶対国防圏」は、翌年7月のサイパン陥落を始めとするマリアナ群島の喪失によって脆くも崩れ去りました。サイパンを失ったことはB29による本土爆撃の可能性をもたらすものでした。この事態により総辞職した東条内閣に代わって組閣された小磯内閣は「戦争指導の大網」によって「国力を徹底的に結集し」、「一億鉄石の団結の下」、戦争を継続することを宣言します。
また大本営は「絶対国防圏」の縮小版といえる「捷号作戦」の構想を立て、「捷一号作戦」にてフィリピン方面での決戦に備えました。(ところで「捷二号作戦」は台湾・沖縄方面での決戦を想定しています。既に日本の領土での決戦を覚悟しなければならないほど追い詰められていたのです)
アメリカ軍のフィリピン上陸に先立ち、日本軍は敵軍の上陸地点をミンダナオ島と予想していましたが、アメリカ軍はその裏をかいてレイテ島を襲撃します。日本軍の動静はフィリピン人ゲリラからの情報によって敵側に筒抜けだったのです。
そしてこの年の10月、アメリカ艦隊はレイテ湾に侵入し猛烈な艦砲射撃を浴びせ日本軍を圧倒し、マッカーサーが再びフィリピンの地を踏みます。レイテ沖決戦では栗田艦隊は「謎の反転」によってレイテ湾に突入せず、アメリカ軍の圧勝に終わります。戦艦武蔵などを失った連合艦隊は事実上崩壊しました。そしてアメリカ軍はフィリピンゲリラと合流し、日本軍を挟撃してくのです。このときのフィリピン民衆にとってアメリカ軍はまさに日本の植民地支配からの解放軍であり、しかも物質面でも心強い味方だったのです。
「住民にしたらアメリカ軍に味方せな損ですわ。味方したらチョコレートくれる、荷物運びの使役に行ったら缶詰くれる。そりゃ日本軍とは大きな違いですから。しようがないっていえばしょうがないですけど、やっぱり情けなかったですわなぁ。誰も味方するものはいないんですから。一般の住民を全部敵にまわしてしもうて」(第十六師団の通信兵だった中島建之介氏の回想・・・・「太平洋戦争日本の敗因D」より)
伝統的に占領地の民衆を無給で酷使するだけでなく搾取をほしいままにしていた日本が、フィリピン民衆の支持を受けるわけがありませんでした。たとえ本当にフィリピン解放の為に戦っていたとしても。
こうして「窮鼠猫を噛む」状態になってしまった日本軍は、アメリカ軍と最後の決戦を迎える前にまず、背後からゲリラに攻撃される恐怖を絶つために大規模な掃討を開始しました。そしてそれは民衆に対する大規模な虐殺作戦となったのです。
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太平洋戦争中フィリピンに従軍し、戦後は雑誌編集者をしていた「友清高志」さんは、
1983年に「狂気――ルソン住民虐殺の真相」(現代史出版会)という本を出版し、日本軍のフィリピンでの残虐行為を告発しました。
同著によると日本の敗色濃くなった1945年2月25日、秋田歩兵第十七連隊・兵団長の藤重正従大佐は、自分の率いる「藤兵団」の中隊長以上の将校を緊急召集し、次のように訓示したそうです。
「ゲリラが、いかに我軍に危害を加えているか、諸士の報告で明瞭である。
このゲリラを徹底的に粛清すべき時がきた。
住民でゲリラに協力する者あらば、そいつもゲリラと見做せ。
責任は一切この藤重が負う。対米決戦はそれからだ」
「おい、田辺少佐(リパ地区防衛隊長)。
思い切りやってしまえ。後世の人間が、世界戦史を紐といた時、
全員が鳥肌立つような大虐殺をやってみせろ」
そして「藤兵団」はこの命令の通りに、バタンガス州の村々から住民を騙して集合させ、数人ごと誘い出して虐殺したそうです。
しかし一兵卒だった「友清高志」サンが、将校同士の会話の内容を知り得るわけがありませんから、このエピソードは創作だと思われます。もっとも大戦末期のフィリピンに於いて多数の住民が日本軍に虐殺されたことは、自由主義史観研究会理事の杉本幹夫氏も認めています。
http://www.jiyuu-shikan.org/goiken/00/12/gmain.html
藤重正従大佐は戦後マニラ軍事法廷にて裁かれ、1946年6月14日に処刑されました。「責任は一切この藤重が負う」という発言を結果的に履行したことになります。
・・・フィリピンの「バタンガス市」郊外で家族を日本軍に虐殺された「カスティリョ」さんによると、アメリカ軍のフィリピン上陸を前にして日本兵が「アメリカ人と出会うフィリピン人は一人もいないだろう」(No Filipino will see American)と話していたそうです(上田敏明・著 勁草書房「聞き書き フィリピン占領」より)
日本軍はアメリカ軍の上陸によって、既に自分たちを充分苦しめているユサッフェやフクバラハップといったフィリピン人ゲリラ組織とアメリカ軍の挟み撃ちに遭うことを恐れたのです。アメリカ軍との決戦の前に、背後からゲリラに攻撃される不安を拭っておきたかったのです。
そして第十四方面軍司令部は「米軍上陸の際は、軍背後および周辺を無人地帯化すべし」という指示を出し(1983年10月別冊文芸春秋「虐殺」深田裕介・著・・・・「聞き書き フィリピン占領」より)、こういった軍の意向を忠実に実行した部隊の一つが「藤兵団」だったわけです。
その一例ですが・・・・バタンガス州に住んでいた弁護士の「フランシスコ・P・マドランバヤン」さんは、1945年2月27日の早朝、日本兵の命令によって街の教会に連行されました。協会の礼拝堂には300人ほどの壮年男子が集合させられ、その後さらに300メートルほど離れたところにある建物の地下室に押し込められました。日本兵は人々を全て収容すると扉を閉めて階段を駆け上がり、その直後天井にしかけられていたダイナマイトが爆発しました。一命を取り留めたフランシスコさんは死体のフリをして難を逃れましたが、爆破直後に地上に這い上がって逃げようとした人々は日本兵に銃撃されたそうです(同上より)。
この時期の日本軍は最早、一般市民と抗日ゲリラを選別するような余裕は全く失っていたのです。言い換えればフィリピン民衆が一丸となった侵略者への抵抗によってそこまで追い詰められ、フィリピン人全てを敵視するようになってしまっていたのです。
たとえばルソン島南部のパグサンハン町在住の「アルベルト・ヤメラ」という人は、華僑の抗日ゲリラに加わり、ラグナ州で日本軍と戦ったそうですが、ゲリラ容疑者に残忍な拷問を行なったり、生首を晒したりする日本軍の行為が、当事18歳の少年だった彼に「家族の中に殺されたものはいませんでしたが、ゲリラに参加することは義務だと思」わせてしまったのです。
ヤメラさんの回顧によると、ラグナ州には「ROTC(予備将校訓練課程ゲリラ)、比米軍(ユサッフェ)、マーキング・ゲリラ、PQOG(ケソン大領領ゲリラ)、華僑ゲリラ、フクバラハップ」などのゲリラ組織が存在し、「武器の貸借を除き、伝言や情報の交換で協力」していたそうです。これらのゲリラ組織は15歳から30歳前後の住民が参加し、食糧は住民から提供され、小学生くらいの子供も伝令として活動していたそうです(同上より)。さらにアメリカ軍からのフィリピンゲリラ支援も拡大していました。
こうした状況に苦しんでいた元日本兵らが、NHKの特番の取材で当時を回想しました(「太平洋戦争日本の敗因D」より)
「昼間歩けないんです。どこにゲリラが待ち伏せしているかわからない。向こうの方が地理に明るいですからなぁ。夜の夜中に移動するんですけど、気持ち悪いですわ。どこから弾が飛んで来るかわからんし。ひとりやふたりじゃ行かれません。少のうても、20人ぐらいはいないと。
点と線の支配というけど、点は危なくてしょうがなかった。連絡用のトラックに鉄板張るんです。どこから撃ってくるかわからんし、実際撃ってきおったんです。
ゲリラの装備は最初は旧式のピストル、青銅の管を切ってこしらえたような銃でしたけど、だんだんようなっていくんです。撃ってくる銃声でわかります。単発から連発になっていきました。こちらは三八式の歩兵銃。向こうは潜水艦で補給されたんでしょう、連発式のカービン銃です。日本軍側は、兵器の質でも数でも劣っていました。
とにかく気は許せなんだです。常にゲリラを念頭において警戒せにゃならんです」(中島建之介氏)
「民衆がゲリラの味方だから、限りなく大勢で、一万人おれば二万の目で、日本軍を監視しておるわけだ。マニラ湾に日本の船がいつ入って、いつ出港したか、クラーク飛行場に重爆撃機が何機きて何機飛び立ったかということは、すべて筒抜けだったね。それはもう、防ぎようがないんだ。
ビザヤ地区なんかでは、駐屯地の周辺を竹矢来を組んで囲うんだ。その中に日本軍がおって、ゲリラは外におるわけ。日本軍が動物園の檻の中におるようなもんだ。
無線機でも武器でも、向うの方が性能がいいんだ。向うは潜水艦で弾薬の補充をやってるけど、こっちは物不足と輸送船不足で弾薬の補給がきかない。もっとも、いちばんの問題は、ゲリラは将来必ず勝つという自信を持っておったということだな。それに対して日本軍は、もうどうなるんだろうという不安の方が強かった」(マニラ軍司令部参謀部付情報将校だった一木千秋氏)
このようにフィリピン人全てを敵にし包囲されてしまった日本軍には、行き当たりばったりの殺戮によって抗うしかありませんでした。「レイテ島でゲリラ討伐に明け暮れた」中島建之介氏の回想によると、それは最早「ゲリラ討伐」などではなく民衆に対する無差別殺戮に他なりませんでした。
「討伐に行っても、住民は全然協力してくれないんです。日本軍の姿を見たら逃げるし、うっかりするとバンバン撃ってくる。そんな奴をとっ捕まえるんですが、捕虜の方がこっちより人数が多くなる。連れて歩くと飯も食わさにゃあかんでしょう。だから殺すということになる。捕まえた者のほとんど、ほとんどというより80%ぐらいは殺したんじゃないですか。
殺すんでも、日本軍のやり方は銃で撃つことはせんのですわ。弾が惜しかったんか、銃声を聞かれるんが嫌だったか何か、とにかく銃剣で突いて殺せというから、残酷ですわ。銃で撃てば一発で死ぬものを、銃剣で突いて人間の死体をバーンと道端にほおっておくんです。
一週間もしたら腐って白骨になる。その道を通るたびに見にゃいかんです。嫌やな、と思いましたけれど、うかうかしてると自分たちもやられるんやから、やはりやらにゃしょうがないってことで。はっきりゲリラだと確認できたのは少なかったです」
フィリピン派遣軍報道部宣伝課長だった人見潤介元大尉の回想は、日本軍の標的はゲリラではなく、まさにフィリピン民衆そのものだったことを示しています。
「婦女子は敵じゃないじゃないかと、それを殺したのはけしからんというんですがね、そうじゃないんです。女とか子供とかが、女であること、子供であることの特性を利用して、ぶらーっと日本軍の所へ様子を見に来て、あぁ、あそこに機関銃が座っているな、あそこに砲が座っているなというようなことを偵察して帰って報告する。
敵という定義が、制服の軍人だけでなしにゲリラ、民衆、我々に敵対するものは全部敵という解釈になるから、それは全部殺せとこうなってくるわけですね。ですから、善良な市民であったかもしれないけれど、それを見分ける術がない。戦争という限られた時間の中で判断を迫られると、どうしても間違いが生じる。だから善良な人も巻き込まれて死ぬことになってしまったのです」
「ゲリラ掃討」という名で行なわれる行為は、民衆に対する無差別虐殺と同等であることを証言者自身が認めていると言えるでしょう。ゲリラからの攻撃を完全に根絶するには・・・・フィリピン人を絶滅させる以外、無かったのです。
しかし民衆を敵にしてしまった侵略軍には決して勝利などあり得ないのです。中島氏もこの無意味さ、無力さを嘆いています。
「当時は『大東亜共栄圏』建設のための戦争だといわれ、我々もそう信じていました。しかし今になって考えてみると、あんなん無駄なことでした。向こうに損害を与えて、こっちもあんだけの損害受けて、いいことは何もなかった。いちばん損したのはフィリピン人です。
人間の気持ちだけは、武力では支配できんと思います。それを日本の軍部はもっと早う、中国大陸の戦いで気付かなかったのか。アメリカのような物資の豊富な国でも、やっぱり住民の反感買ったらベトナムで負けた。ソ連も同じことをアフガニスタンで経験していますしね。
レイテ島でもし仮に住民が協力してくれたら、最終的にはアメリカに負けたにしても、食糧は手に入れられたでしょう。アメリカ軍も住民もみんなが敵やったから、山の中に入って、人目につかんよう生きるしか仕方がなかった。飢餓に苦しみながら、さすらうしかなかった。レイテは世界最悪の戦場でした。日本軍は住民を敵にまわして壊滅したんです」
・・・・そして、アメリカ軍とフィリピン民衆に追い詰められた日本軍の凶行はマニラ決戦を迎えて極に達します。防衛庁防衛研究所に保存されているマニラの市街戦を前にした1945年2月11日の海軍陸戦隊の報告電にはこのような一節があるそうです。
「各地区共住民は全面的に敵と連絡、我らをして困窮せしむるものあり。之に対し断固容赦せざるに決す」
このようにマニラ市民全てを敵と見なしていたのです。
マニラ陥落後、住民虐殺の命令文がアメリカ軍に押収され、後に東京裁判にて提出されています。
「敵侵入せば、爆破焼却の機を誤らざるごとく注意せよ。比島人を殺すには極力一箇所に纏め、爆薬の労力を省くごとく処分せよ。死体処理うるさきを以て、焼却予定家屋に集め、或は川に突き落とすべし」
また虐殺命令を受けた兵士の日記も検察側から提出されました。
「男子は全て殺すようにとのこと。今度の討伐戦は見物だ」
「目的は男子は殺傷して情報の収集。逃げる女性は殺すこと。いずれにしても人員の消滅にあり。今夜は元気充分に寝る。故郷の夢でも見るか」(以上全て「太平洋戦争日本の敗因D」より)
こうして日本軍は多くのマニラ市民を虐殺した後アメリカの軍門に下りました。そのころ硫黄島もアメリカ軍の手に落ち、B29による本土爆撃のための重要な中継基地となりました。また凄惨な沖縄戦も目前だったのです。
日本軍の東南アジア支配はマニラ陥落によって実質上終わりを告げたと言えます。マニラの市街戦は、フィリピンで民衆虐殺を続けていた日本軍の最後の狂宴であり、「大東亜共栄圏」の総決算だったのです。アジア各地で殺しつくし、焼きつくし、奪いつくした「大東亜戦争」は、こうして終焉に向っていきました。
日本がこの戦争を続けるには、アジアの占領地の人間を絶滅させ、この巨大な領域を完全なる「無人区」と化すしかなかったのです。それが「大東亜共栄圏」の完成だったのです。
・・・・さて、なんとなくダラダラと書き続けてきたこのスレをそろそろまとめたいと思います。
イラク侵略戦争に於いて、バクダッド陥落によってアメリカは勝利宣言を出しましたがゲリラ活動は日に日に増加しています。フセイン拘束後もむしろ激化しています。アメリカ軍も、イラク侵攻という行為はフセイン体制だけでなくイラクの民衆も敵に回すことだったことをそろそろ悟っているでしょう。それはベトナム戦争も、また日本のアジア侵略も同様であり、侵略軍は民衆という敵と対峙することになるのです。
そしてその戦いは民衆に対する際限のない虐殺をもたらします。このようにしてアメリカや日本が近代の侵略戦争にて行なった行為は(最初に述べたことですが)、第二次世界大戦に於けるナチスドイツの行為と、本質的に同等であると考えるべきだと思います。
たしかにナチスドイツによるホロコーストには、ユダヤ人絶滅という目標があり、
一方アメリカにはベトナム人やフィリピン人を絶滅させる計画などありませんでした。
日本にも、中国人やシベリアのロシア人や朝鮮人や、東南アジア・南太平洋の民衆を絶滅させる計画などありませんでした。
しかし民衆によるゲリラ抗戦という形での抵抗を根絶しようとする行為は、必然的に「民族浄化」の性質を帯びてくるのです。
如何に侵略軍が強大であろうとも、戦闘員と非戦闘員の選別など不可能なゲリラ抗戦には全く無力です。そして侵略軍はゲリラ抗戦を一掃するために民衆からの支援を根絶せんとして、物資を奪い、村落を焼き払い、強制移住させ、さらに自然環境を破壊することで民衆の生活基盤を限りなく圧迫します。果ては老若男女の見境のない虐殺を始めてしまうのです。侵略軍はゲリラ攻撃の恐怖から逃れるためには限りなく民衆の血を吸うことを躊躇しないのです。こうして侵略軍の標的は、旧政権の残存勢力でも各種の軍閥でも独立運動家でもなく、占領地の民衆そのものになってしまうのです。
侵略軍がその支配を継続しようとするなら敵を、すなわち民衆そのものを根こそぎ倒さなければならないのです。侵略軍が唯一出来ることは、占領地の民衆を殺し続けることであり、そしてそれは占領地の民衆を絶滅させるまで終わることはないのです。アメリカ軍が南ベトナムでの勢力を保ち続けるには、ベトナム人を絶滅させる以外なかったのです。日本が中国や東南アジア各地での勢力を保ち続けるには、中国人や東南アジアの民衆を絶滅させる以外になかったのです。つまりこれはナチスドイツによるユダヤ人絶滅計画と結果的に同質になるのです。
日本が過去の戦争で行なったのは通常の戦争犯罪(?)であり、ナチスドイツの行なったのは戦争とは関係のない人道上の犯罪・・・・というのは「自由主義史観」の重要な主張でありますが、これは物事の本質を見極めていない認識だと言えます。
アメリカや日本が行なった行為もナチスドイツの行為と本質的に等しいものだという、簡単なことを理解し、そして歴史教育の場に於いてもこの認識を明言すべきだと思います。
ところで・・・・第二次世界大戦に於けるドイツ軍が連合軍の反撃を一切寄せつけないほど強大であれば、やがてナチスドイツはヨーロッパのユダヤ人を絶滅させたでしょう。
同様にベトナムを侵略していたアメリカ軍や、アジアを侵略していた日本軍が限りなく強大であれば、ゲリラ掃討という名の民族浄化作戦に明け暮れていた両軍はやがて占領地の住民を絶滅させてしまったでしょう。
つまり侵略軍は如何に強大であろうとも、決して勝利することはないのです。侵略行為の最終的な結末は、占領地の住民を絶滅させることですが、これは勝利などというものではないのです。
上記の中島氏の回顧に見られるように、軍隊の力で民衆の心までねじ伏せることは出来ません。侵略軍が存在する限り、抵抗は永久に続くのです。つまりは侵略者が勝利することなど、決してあり得ないのです。
軍隊という暴力集団は、敵国政府を壊滅させることはできますが、しかし民衆に対して出来ることはただ一つ――――戦闘員・非戦闘員の区別なく無差別殺戮を続けることだけのようです。
2011年06月30日
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