2011年06月30日

過去ログ移転:南京から上海へ

 過去ログ移転作業の続き。

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南京への道
投稿番号:18777 (2003/08/21 00:43)
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十五年戦争の間に日本軍が行った無数の残虐行為の中で、1937年12月〜翌年2月の南京大虐殺だけが突出して有名です。しかし言うまでもないことですが、南京大虐殺という事件は、民間人に対する計画的な虐殺行為ではありません。
勿論多くの民間人も犠牲になりましたが、それは市内への爆撃や、陥落前後の戦闘の巻き添えや、捕虜の中に民間人が少数ながらも混じっていたり、民間人に偽装した敗残兵の選別が大雑把だったり、兵士の個人的な犯罪などによって起こってしまったことです。
これは日清戦争のときの旅順虐殺事件と同様の、都市の占領に伴う混乱によって起きた不祥事であり、勿論形容しがたき日本軍の愚劣さが発露された事件ではあるのですが、決して民間人への無差別虐殺を目的にしていたわけではありません。
対して中国東北部での平頂山事件やその後各地での「匪賊討伐」という名目の焼き討ちや、日中戦争での三光作戦に伴う各地の村落での虐殺行為などは、個々の事件として南京大虐殺と比較すれば遥に小規模ですが、民間人の無差別虐殺自体が目的だった点で遥に悪質と言えます。
何故南京大虐殺は民間人に対する大量虐殺にはならなかったと言えば、武器を捨て軍服を脱ぎ捨てて安全区に逃げ込んだ敗残兵は日本軍に抵抗する意思を全く失っており、また南京城内に実際に存在したと見られる「本物の便衣兵」の活動も日本軍を大きく脅かすほどのものでなかったからです。


しかし・・・・
よく聞く話ですが、南京戦の前哨となった第二次上海事変で、上陸直前の部隊が民間人の集団の中から手榴弾を投げつけられるなど、既に日本軍は「便衣」の者からの攻撃を受けていたそうです。日本軍は日中戦争(盧溝橋事件以降の日本の侵略を「日中戦争」と表することにします)の初っ端からゲリラ戦に悩まされていたのです。これは、昭和に入り本格化してきた日本の中国侵略による中国の民衆の抗日への目覚めがもたらしたものだと言えます。
幕府山で捕らえた捕虜を虐殺した“山田支隊”の山田栴二少将も、民衆の抗日意識の高まりを感じ取り日記に記しています。
「小学校其他の壁書、道路の宣伝皆然らざるなし、倭奴、鬼子」
「活動写真の広告、エロ本の中にも必ず抗日の記事を発見せざるなし、暴日侵略暦日、年表、或は記事、画面、影画等々、戦争に関する画報にても、俆県の家にて見たる丈にて、『血戦画報』、『戦争画報』、『抗戦画報』、『抗敵画報』、『抗戦撮影集』と各種あり」(「南京戦史資料集U」P-335)


詩人の萩原朔太郎も1937年に「改造」という雑誌に「北支事変について」というコラムにて、中国民衆の抗日について警戒しています。
「支那の民衆が日本に対して強い敵愾心を持っているという事実が、今度の事変によって明白に発見された。そしてこの発見が、僕らにとって一番薄気味悪く恐ろしいのだ。・・・・(日清戦争のときは支那民衆はほとんど無関心であったが、三二年の上海事変から真に抗日の敵愾心を示しはじめた)。土地に無限の宝庫を有し、世界の人口の四分の一を占める支那民衆が、真に自覚して団結したら、これほど恐ろしい敵はないだろう。・・・・・日本は支那の政府や軍閥を敵にしても民衆を敵にしてはいけないのである」(中公新書・大杉一雄・著「日中十五年戦争史」より)

明治以来の不断の中国侵略は、満州事変、盧溝橋事件→第二次上海事変と拡大していき、中国の民衆に大きな危機感を抱かせ、自分たちの民族は自分たちの力で守らなければならないことを教えたのです。そして「便衣兵」として戦う者も現れてきたのでしょう。
こうした状況は上海に上陸し南京を目指した日本軍の将兵に、中国の民衆に対する強い猜疑心を抱かせることになります。それは途上の村落での民間人に対する無差別殺戮につながっていくのです。

秦郁彦「南京事件」より少々引用しますが・・・・
平松鷹史「郷土部隊奮戦史」という本には、第六師団司令部に「女、こどもにかかわらずシナ人はみな殺せ。家は全部焼け」という命令が届き、「こんなバカな命令があるか」と、平岡副官が握りつぶした話が出てくるそうです。
「宮下日記『徒桜』」によると、第十軍・国崎支隊歩四十一連隊に従軍した宮下光盛一等兵は、杭州湾上陸時に「我が柳川兵団は上陸後、@民家を発見したら全部焼却すること、A老若男女を問わず人間を見たら射殺せよ」との命令を受けたそうです。ちなみに第十軍司令官の柳川平助中将は、「山川草木全て敵なり」と異常なまでの敵愾心を燃やす人物だったそうです。

このように中国民衆そのものに敵愾心を持った日本軍が、上海戦及びその後の南京への追撃戦に於いて、途上の村落で小規模ながら後年の「三光作戦」と同様の民間人の無差別虐殺を繰り返しながら南京へと急進した模様が、いくつかの「陣中日記」に窺えます。

「上羽日記」
(10月16日)「・・・・畠にテントを張って馬の上るを待つ。台湾の民夫が働ゐている。日給一円六十銭、民夫は戦争に来るのを大変喜こんでゐるそうな。
台湾兵が人を切るのを見る。おやじを切る、子供を次々に切る。母がすすきのかげからおづおづして子供の死を見て居る。一寸涙なくしては見られるものか。娘を引ぱって一晩とめては返す。」(青木書店「南京事件・京都師団関係資料集」P-26)

「北山日記」
(9月20日)「高屋が“サソリ”に噛まれてやかましく云ってゐる。随分痛いらしいが話しに聞いてゐた程の命とりでもないらしい。支那人は一人残らず殺して終へとの命令である。
十二中隊が二十人程你公を今川原で殺していると云うので、皆面白がって見に行く。嫌なことである」(同上P-48)

「牧原日記」
(11月18日)「・・・・ある中隊の上等兵が老人に荷物を持たせようとしたが、老人が持たないからといって橋から蹴倒して小銃で射殺しているのを目前で見た。可愛想だった」
(11月22日)「・・・・道路上には支那兵の死体、民衆及婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可哀想である」
(11月26日)「・・・・住民は家を焼かれ、逃げるに道なく、失心状態で右往左往しているのもまったく可哀想だがしかたがない」
(11月28日)「・・・・自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を争って逃げて行く。何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。部落の十二、三家に付火すると、たちまち村は全村を包み、全くの火の海である。老人が二、三人いて可哀想だったが、命令だから仕方がない。次、次と三部落を全焼さす。そのうえ五、六人を射殺する。意気揚々とあがる」
(11月29日)「・・・・武進は抗日排日の根拠地であるため老若男女を問わず全員銃殺す」
「・・・・三時過十二中隊は五、六人の支那人を集め手榴弾を投げて殺していた。壕にはまったやつは仲々死ななかった」
(同上P-132,134〜135)

【堀越文雄】陣中日記
(1937年10月6日)「濾水車をひいて七時出発、重いし、道のりは長いしいかんともなしがたく応援をたのむ。
それも道程とほく及びがたく予備班は午後四時頃かへる、帰家宅東方に至る、
すなはち、支那人女子供の“とりこ”(虜?)あり、銃殺す。
むごたらしきかな、これ戦いなり」
(11月9日)「・・・・捕虜をひき来る油座氏これを斬る。夜に近く女二人、子供ひとり、これも突かれたり」(大月書店「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(大月書店)P-63,71より)

・・・・このように日本軍は1937年の秋の南京追撃戦に於いて、既に「三光作戦」と呼べる行為を繰り返していたのです。民衆からの抵抗を恐れていた日本軍は、上記のような皆殺し行為で応ずるしかなかったのです。
しかしこうした残虐行為の果てに到達した南京では、民間人に対する計画的な殺戮は行なわれませんでした(無論敗残兵らしき者の殺戮は充分民間人に対する虐殺と言えるものですが、建前上は民間人に偽装した中国兵の処刑でした)。
崩壊した南京防衛軍の敗残兵は安全区委員会に銃器を託し保護を求めました。抗戦する意欲は皆無だったと言えます。本物の「便衣兵」も存在したと思われますが、その活動は日本軍に南京占領政策の転換を迫るほどの規模ではありませんでした。
日本軍はあっさりと南京を占領し、楽に占領していたのです。それが南京の市民には幸いしました。もしも日本軍に対する「便衣」の者からの抵抗が激しければ、1942年のシンガポールでの華僑虐殺のように、民間人を計画的に殺害し続けたことでしょう。そしてホントに10万だの20万だのといった人数の被害者が出ていたかもしれません。

ところでドイツ駐中大使「トラウトマン」は南京攻防戦より前から停戦工作を続けていました。両国の態度次第ではまとまりかけたこの交渉も、日本が南京占領に驕り和平の条件を厳しくしたことで流れてしまいました。こうして日本軍は停戦のチャンスを自ら打ち捨て、泥沼の戦争に落ち込んでいくのです。
南京戦など日中戦争のホンの序盤戦に過ぎず、広大な中国大陸の内部こそ、日中戦争の本当の舞台でした。
しかしそこへ迷い込んだ日本軍に決して勝利はありませんでした。民衆の海の中で溺れかけた日本軍が藁にすがるが如く実行したのが、民間人に対する無差別殺戮だったのです。

秦郁彦「南京事件」は、以下の文章で締めくくられています。
「南京戦以後、中国兵は負傷兵で歩けないものは自軍の手で殺して退却するようになったという。捕虜になれば日本軍に虐殺されるだけと判ったからである。住居を失った民衆はゲリラに走った。作らなくてすむ敵をわざわざふやして、さらに苛烈な三光政策を誘発するという悪循環を断ち切れぬまま、日本は敗戦の日を迎えたのである」

国民党政府の首都(だったはず)の南京を占領することによって蒋介石は屈服しこの戦争は終わるであろうと、南京攻略戦に参加した将兵は考えていました。日本政府も日本軍首脳部も、南京占領以降も戦争を継続することを計画していたわけではありませんでした。しかし南京戦は、日中戦争の流れの中では開幕式に過ぎなかったと言えます。そして南京大虐殺という世界的に有名な虐殺事件も、日本軍による中国大陸での残虐行為のプロローグに過ぎなかったのです。
posted by 鷹嘴 at 21:20 | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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