2011年06月30日

過去ログ移転:シベリア出兵

 過去ログ移転作業の続き。




アイルランド出身のロックバンド“U2”の“Sunday Bloody Sunday”は大好きで、今でも車の中で聴いています。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Screen/2209/u2-01.html
この曲は1972年1月30日、北アイルランド・デリー市で起きた「血の日曜日」と呼ばれる虐殺事件をテーマにしています。アイルランド人のデモ隊に向ってイギリス軍が自動小銃で攻撃し、13名が亡くなり、多くの負傷者を出した事件です。

ところで「血の日曜日」といえば、ロシアで百年前に起きた事件の方が有名です。
1905年1月22日、ロシア・ペテルブルクの冬宮前広場で、不当な解雇に抗議し神父ガボンに率いられ請願書を提出しようとした労働者のスト隊に対してロシア軍が発砲し、数百人の死者が出た「血の日曜日」事件です。
この事件によってロシア民衆の「父なるツァーリ(皇帝)」という素朴な信仰は揺るぎ、ロシア全土で抗議ストライキが起こりました。そして各地で「ソビエト」という名の労働者の代表機関が設立しました。こうして第一次ロシア革命が始まったのです。
革命勢力を弾圧しなければならなくなったロシア政府にとって、その時継続中だった日露戦争は大きな負担となりました。極東の島国と争っているどころではなくなったのです。同年5月の日本海海戦でバルチック艦隊は壊滅し、9月にアメリカの仲介によって講和を受け入れることになります。日露戦争によって国内の革命への気運を逸らしたい期待もあったのですが、思いもよらぬ苦戦によって終結を急ぐことになってしまいました。
その後革命派は徹底的に弾圧されますが、1917年の二月革命によってロマノフ王朝は崩壊し、十月革命によってボリシェビキは政権を握ります。こうしてソビエト連邦が誕生したわけですが、各地に旧政権の勢力が残存していました。これはイギリス、アメリカ、日本など列強にとっては革命に干渉する絶好の口実となったのです。地球上に初めて誕生した社会主義国は、誕生と同時に列強の侵略を受けてしまったのです。

ところで中国を侵略していた日本軍による八路軍などの共産軍に対する行状は、蒋介石軍の共産軍に対する行状と同様に残虐でした。ベトナムを侵略したアメリカ・韓国のベトナム民衆に対する残虐行為は南ベトナム政府軍の行為など比較にならぬくらい残虐でした。
国内の反共産勢力による「白色テロ」よりも、得てして侵略軍による共産勢力に対する行状の方が残忍無残なようです。これはシベリア干渉戦争に於いても同様でした。シベリアを侵略した日本軍の行為は、コルチャーク軍(コルチャークとは、日露戦争にも従軍し黒海艦隊司令官にもなったロシア海軍の提督で、革命後には列強の支援を受けシベリアで軍事独裁体制を樹立させます。後に銃殺刑)などと同様、若しくはそれ以上に残虐でした。
ベトナム戦争や日中戦争の時と同様に、革命パルチザンは民衆の厚い支援を受けていました。民衆の海の中で神出鬼没に抗戦するパルチザンをに苦しめられ追い詰められた日本軍は、近辺の村落を焼き払い、住民を虐殺するに至ったのです。日本軍による三光作戦は、1918年から始まったシベリア出兵に於いて、既に実行されていたのです。

(以下は、「シベリア出兵 革命と干渉1917-1922」(原暉之・著 筑摩書房)より全面的に引用します)

シベリアを軍事的に支配しようとしたコルチャーク軍の残虐行為は民衆を震え上がらせていました。
「彼らは父親の眼の前で息子の新規召集兵を殺し、娘を強姦し、何の罪もない住民を殺し、農民の所持品、財産を奪い、農民が汗水流して得た小銭まで盗んでいる」(「ターセヴォ軍事革命本部広報」第一号)
このようなシベリアの反革命勢力にとって、母国を侵略している日本軍は頼もしい存在だったようです。反革命軍が日本製の小銃を備えることも少なくなく、また日本軍が行なった三光作戦は、残虐非道なコルチャーク軍でさえ、お手本となり得るほどの徹底したものだったのです。

1919年3月20日、コルチャーク軍の陸相「スチェパーノフ少将」がイルクーツク軍管区司令官に宛てた書簡は次のように綴られています。
「最高統裁官は貴殿に以下のことを伝えるよう命じた。
余のたっての希望は、エニセイスク県下の反乱に対して、叛徒はもとより、彼らを支持する住民にも厳しい措置、残酷な措置にさえ訴えて構わぬ、できる限り速やかに徹底的根絶を図れ、ということである。この点、ボリシェヴィキを匿っている村は焼棄せよ、と宣言したアムール州の日本軍の例が、おそらく森林地帯でのパルチザンとの困難な闘争で成功を収める必要性そのものによって想い起こされる。いずれにせよ、キーヤイ、コーイの両村に対しては厳しい懲罰が適用されなければならぬ」

ベトナムでの三光作戦はアメリカ軍が先導したように、シベリアに於ける三光作戦も純然たる侵略者である日本軍が先導し、徹底的に行なったようです。言語も風俗も宗教も異なる侵略者にとっては、自分たちを苦しめるパルチザンを支援する現地の民衆には、些かの温情も抱かなかったのでしょう。
そして後にアジア各地で行なったように、厳寒の地・シベリアに於いて民衆の住居を無差別に焼き払う暴挙に出るのです。

1919年2月中旬、歩兵第十二旅団長山田四郎少将は、「師団長の指令に基き」、次のような通告を発しています。
「第一、日本軍及び露人に敵対する過激派軍は付近各所に散在せるが日本軍にては彼等が時には我が兵を傷け時には良民を装い変幻常なきを以て其実質を判別するに由なきに依り今後村落中の人民にして猥りに日露軍兵に敵対するものあるときは日露軍は容赦なく該村人民の過激派軍に加担するものと認め其村落を焼棄すべし」

また、ウラジオストック派遣軍政務部長松平恒雄の内田外相宛の電報「別電一五九号」には次のように記されています。
「最近州内各地に於いて過激派赤衛団は現政府及日本軍に対し州民を煽動し向背常なく我軍隊にして其何れが過激派にして何れが非過激派なるかの識別に苦ましめ秩序回復を不可能ならしめつつあるが斯くの如き状態は到底之を容すべからざるものと認め全黒竜州人に対し左の通り通告す
一、各村落に於て過激派赤衛団を発見したる時は広狭と人口の多寡に拘らず之を焼打して殲滅すべし」

侵略軍にとって、民衆からの抗戦組織への支援を根絶するための三光作戦を実行するに当たり、民衆を一人ずつ殺していくよりも、物資を強奪または破壊焼却するよりも、民家を手当たりしだい焼き打ちすることが最も安易かつ効果的だったのでしょう。

ウラジオストック派遣軍参謀長は、上記の宣言が忠実に実行されれば「諸種の問題を惹起するに至るべく又永久に庶民の怨を買ふが如き結果に陥るなきやを惧る」という、全く当然の懸念を第十二師団参謀長に伝えたところ、
「家屋焼却等は戦闘上避くべからざるもの『チェルノフカ』及び『パーロフカ』等十数軒に止まり農民は案外に少数なる驚きあらんと思はる。良民を虐殺する等は絶対に無く強姦等は勿論なり」
という返信がきたそうです。ともあれ「家屋焼却」が「戦闘上」必要であり、実行していることは認めています。(因みにソ連の歴史家は1919年3月にアムール州で数多くの村々が焼き打ちに遭ったことを一つ一つの村の名前を挙げて示しています)

この州で同年1月には、「マザノヴォ」という村で日本軍「現地守備隊」の暴虐に耐えかねた村民が立ち上がり、近隣の村落も巻き込んで大規模な戦闘が始まり、日本軍は零下42度という過酷な気象条件の中で苦戦の末敗走し、一時は街角に赤旗が翻ります。
しかし「守備隊長マエダ大尉」(前田多仲大尉)の率いる日本軍討伐隊が来襲し、道すがら手当たりしだい村々を焼き、農民を虐殺し、蜂起民が逃げ散った「マサノヴォ」を占領しさらに「ソハチノ」という村に到着するや、女子供も含む逃げ遅れた村民全てを銃殺し、村を徹底的に焼き払ったそうです。
日本軍の「出兵史」でも、「同地には我が守備隊よりの掠奪品を隠匿しありしを以て懲膺の為過激派に関係せし同村の民家を焼夷せり」と、村落の焼き打ちが行われたことを記しています。村民をマイナス40度という「マローズ」の中へ放り出すことへの後ろめたさを感じる余裕など無かったのでしょう。

こうした日本軍の蛮行によって、アムール州で最も甚大な被害を蒙ったのが「イヴァノフカ」という村でした。
この村は革命派の勢力が強く、反革命派の武装解除要求にも従いませんでした。そこで反革命派は日本軍の応援を頼み、この村を強制的に捜索し、武器の押収、革命分子の逮捕・銃殺を行いました。しかしこういった蛮行は民衆を憤激させ、革命勢力をより深く浸透させることになり、イヴァノフカはパルチザンの大きな拠点となりました。
この情勢を察知した日本軍「討伐部隊」が1919年2月に襲撃を開始したところ、逆に地形を知り尽くしているパルチザン部隊によって誘いこまれて袋の鼠になってしまい、田中勝輔少佐率いる歩兵七十二連隊第三大隊が「最後の一兵に至るまで全員悉く戦死」するなど、大損害を受けました。
そして翌月、日本軍はこの村を「黒竜州に於て過激派の跋扈したる其の当初より既に彼らの有力なる巣窟」であり、「其の住民中男子は殆ど赤衛軍に参加」したとして、残虐な復讐戦を行なうのです。
その半年後、ウラジオストク派遣軍政務部はこの村に調査団を派遣し村民からの聴き取りを行い、「黒竜州『イワーノフカ』『タムホーフカ』村紀行」という報告書をまとめています。
「過激派の為に田中大隊全滅の悲惨を見たる九州男子の憤怒よりして此の大活劇を演じたとして見れば焼いた方にも無理は無さそうである」と、日本軍を擁護する論調ながらも、残虐行為を告発する内容になっています。

「本村が日本軍に包囲されたのは三月二十二日午前十時である。其日村民は平和に家業を仕て居た。初め西北方に銃声が聞へ次で砲弾が村へ落ち始めた。凡そ二時間程の間に約二百発の砲弾が飛来して五、六軒の農家が焼けた。村民は驚き恐れて四方に逃亡するものあり地下室に隠るるもあった。間もなく日本兵と『コサック』兵とが現れ枯草を軒下に積み石油を注ぎ放火し始めた。女子供は恐れ戦き泣き叫んだ。彼等の或る者は一時気絶し発狂した。男子は多く殺され或は捕へられ或者等は一列に並べられて一斉射撃の下に斃れた。絶命せざるもの等は一々銃剣で刺し殺された。最も惨酷なるは十五名の村民が一棟の物置小屋に押し込められ外から火を放たれて生きながら焼け死んだことである。殺された者が当村に籍ある者のみで二百十六名、籍の無い者も多数殺された。焼けた家が百三十戸、穀物農具家財の焼失無数である。此の損害総計七百五十万留(ルーブル)に達して居る。孤児が約五百名老人のみ生き残って扶養者の無い者が八戸其他現在生活に窮して居る家族は多数である」

ちなみに、翌年2月にアムール州にソビエト権力が復活すると、州都である「ブラゴヴェシチェンスク」の新聞社は「赤いゴルゴダ」というタイトルのルポを発行しましたが、それによるとイヴァノフカでの蛮行による被害者は乳児も含む291人ということです。
ところでアムール州は極東ロシアの穀倉といわれた地で、中でもイヴァノフカという村は「人口八千からある」大きな村で、「米国式農具」も使用していたほど、「富に於ても亦州内其比を見ない位の村」でした。日本軍はこの村の村民を、パルチザン支援者であろうとなかろうと無差別に虐殺したのです。
「殺された者の内には過激派で無い者が多く焼かれた家は全然過激派の家ではない。寧ろ反過激派とも称すべき資産家許り」
こうした行為は自然と、抗日・反帝国主義意識を高めさせることになったと、『イワーノフカ』『タムホーフカ』村紀行」の編者は観察しています。
「此の事あって以来村民の大部分は極度に日本軍を恨んだ。そして自然過激派に変ずるものも少なくなかった」
日本軍が中国で民衆を殺せば殺すほど、アメリカ軍がベトナムで民衆を殺せば殺すほど、民衆の抵抗が弱まるばかりが逆に、民衆の侵略者への憤激は高まり、帝国主義国の侵略軍は自分たち民族を殺し続けていくものだと悟らせ、そしてさらに民衆による抗戦が激しくなって侵略者を追い詰めていったのと同様に、
日本軍のシベリアでの蛮行は、反革命勢力や日本などの列強からの侵略軍を追い払わなければならないことを民衆に自覚させ、そして早急なるソビエト体制の確立を望ませることになってしまったのです。
この点日本軍はシベリアの共産化に一役買ったことになります。


・・・・・このような、秀吉の朝鮮出兵と同様に意味のない馬鹿げた侵略戦争について、国内でも批判が高まってしました。
1920年2月の第42回帝国議会にて、野党の憲政党は「西伯利出兵に関する質問主意書」提出しましたが、シベリア出兵の目的についての政府の説明に対し、「従来政府は我が西伯利出兵に関し或は過激派討伐と云ひ、或は『チェック』救援と説き、或は鉄路保護と称し、或は過激思想防遏と唱え、随時随処其の説を異にしたり」と批判しています。
いくら美辞麗句を並べてみても、シベリア出兵は無計画な侵略戦争に過ぎないことは政府も自覚していたことでしょう。しかしこの愚行に学ぶことなく、二十数年後にはシベリア出兵と全く同様な無意味な侵略戦争を開始し、国を滅ぼすことになります。

日本軍が完全にシベリアから撤兵したのは1922年でした。この間に日本軍の戦死者は1533名、病死者591名に達し、戦費については当時の金額で公式統計4億3859万に達するそうです。こうした大きな代償を支払いながらもこの戦争で日本が得たものは何もありませんでした。(つーか金塊を強奪して持ち去ったことだけがささやかな戦果と言えるかもしれません?17431参照)
それにシベリア民衆の損害は計り知れません。日本軍によるシベリア出兵とは、村落を焼き払い、民衆を虐殺するためだけに行なわれた戦争だと言えるでしょう。

ところで、日本軍がシベリアで強く警戒し場合によっては虐殺したのは、ソ連人の民衆だけではありませんでした。それにこの時期ユーラシア大陸の東端に日本軍が侵攻し民衆を虐殺したのは、ソ連邦領土内だけではありませんでした。
つづく
posted by 鷹嘴 at 21:21 | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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