2012年05月25日

「不謹慎」という日本語:世界で唯一の観念

 2012年05月13日、目黒区民センターホールという結構大きい会場で、【浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍】という集会が行われた。主催は「全体像を残す会」
 植垣康博さんらOBや、塩見孝也さん、鈴木邦男さん、映画監督の森達也さん、雨宮処凛さん、「レッド」を執筆中の山本直樹さんら多彩な論客が登場し、5時間ぶっ通しの充実した集会だった。
 つーか俺は連合赤軍について書けるのは映画「あさま山荘への道程」で知ったことぐらいだし、なにしろ夜勤明けで非常に疲れていたし、どんな集会だったか知りたい人は中川文人さんのレポートを読むといいと思う。

 ところでこの集会の中で気になるというか考えさせられる発言がいくつか出たので、(既にツイッターに書いたが)断片的に紹介する。ってゆうかメモってなかったから発言の詳細は正確ではないが、趣旨は間違っていないと思う。

 ご存知のように連合赤軍はあさま山荘に立てこもるより先に各地の「山岳ベース」で、仲間たちの些細な言動をあげつらい、「総括」という名のリンチ殺人を続けていた。これを危惧した植垣康博さんは「こんなことをしてていいのか、と坂東に言ったが、『党のため』と言われると何も言い返せなかった。そういう思考停止に陥っていた」という。
 「坂東」というのは当時のリーダー格の一人だった坂東國男さんのことだろう。「党のため」なら、自ら戦力を削ぐような愚かなマネは思いとどまるべきではないか?しかし植垣さんはそのとき何も言い返せなかった。強弁すれば植垣さん自身も総括されただろう。
 連合赤軍に限らずどんな組織の中にいても、おかしいと思っていても口に出せず周囲に同調してしまうことがあるだろう。それが破局を迎えることもある。

 オウム真理教のドキュメンタリー映画を撮った森達也さんは、
 「連合赤軍の事件は、永田洋子さんや森恒夫さんのような、嫉妬心や独占欲の強いリーダーだけのせいじゃない。みんなが彼を追い込んでいったのだろう。オウムだって麻原だけのせいじゃない。ポルポトも、昔の日本も、同じ構図」
 と指摘する。かつてこの国では軍部への不満や戦局への不安を口にするだけで弾圧され、ほとんどの国民は口をつぐんでいた。強大な独裁者がいたわけでもなく、軍部も最初から(柳条湖事件以降の)中国侵略・対米開戦を計画していたわけではない。立ち止まることができず、流されるままに破局へと進んでいったのだ。(それにしても明治以降の日本帝国主義が国民全体に与えた苦しみは、連合赤軍のリンチなど比較にもならないよな)

 森達也さんは映画「311」の共同監督だが、タイの映画祭のとき通訳が、劇中に出てくる「不謹慎」という日本語を訳せない、と困っていたという。去年石原が「花見は不謹慎」などとほざいていた、あの言葉だ。
 「『不謹慎』、という日本語に相当する単語は、どこの国の言語にもない。『不謹慎』の基準は無い。みんなと違うことすれば『不謹慎』だと責められる。共産革命を目指した連合赤軍も、どっぷり日本的だった」
 この指摘に全く同意する。この国では、反革命分子の総括に反対するのは「不謹慎」なのだ。「挙国一致」で戦争に向かうとき自分だけ非協力的なのは「不謹慎」なのだ。天皇が危篤のときに通常の番組を放送するのは「不謹慎」なのだ。「天皇」という単語に「陛下」を付けないのは「不謹慎」なのだ。公共工事の予定地から自分だけ立ち退かないのは「不謹慎」なのだ。裁判の和解決着や政治決着に異を唱えるのは「不謹慎」なのだ。原発が止まっているのにパチンコで遊ぶのは「不謹慎」なのだ。金持ちなのに親が生活保護を受給しているのは「不謹慎」なのだ。同僚が残業しているのに自分だけ定時で帰るのは「不謹慎」なのだ。自分だけ飲み会や社内旅行に参加しないのは「不謹慎」なのだ。周囲の人間と違うことをするのは、違うことを言うのは、「不謹慎」なのだ。社会に受け入れがたい異質の存在として排除されてしまうのだ。サヨクやリベラルを気取る人々も、こうした性質とは無縁ではないようだな。
 こうした日本人の性質がアジア・太平洋戦争を招き、こんな大陸プレートの境目に54基もの原発を建設させたのだろう。

 ところで橋下の話になったとき、雨宮処凛さんが「彼は空気を読む天才。彼一人じゃなく、世間が、ああいうのを作り出している」と指摘した。
 橋下は元々日本の核武装に言及するような人間だが、現在の世論が脱原発を向いているため、それに迎合しているのだろう。次の総選挙で電力会社や官僚の言いなりの民主党が惨敗し「維新の党」が躍進しても不思議ではない。
 ともかく奴の、空気を読むというか空気に合せる能力は大したものだ。市職員が特定の市長選候補を応援するのは「不謹慎」だろう(俺はそうは思わんが)。市職員のクセに刺青をしているのは「不謹慎」だろう(俺はそうは思わんが)。財政を立て直すためなら職員数を削減し、負担になっている施設はどんどん廃止するべきだろう(俺はそうは思わんが)。
 橋下はこういう世間の感情を捉えうまく利用している。というか雨宮処凛さんが指摘するように我々市民の、たとえばネットに腹立たしい発言があればたちまち炎上させるような感情が、橋下のような政治家を生み出しているのではないか。
 その先にあるのが刑事事件の厳罰化であり、弱者切捨てであり、人権の軽視であり、労働者の権利の低下であり、言論統制である。「原発反対」なんて言えないような社会が生まれるだろう。それを我々市民が望んでいるわけではなく、気付かぬうちに自らそのように導いているのだ。


 蛇足だが鈴木邦男さんは「左翼は人を大事にしない」と指摘。新右翼の状況は存じないが、連合赤軍に限ったことじゃなく、この指摘は的を得ていると思うな。たしかに大事にされてなかったな。
 鈴木邦男さんとも知り合いの、とあるジャーナリストが牛耳っていた市民団体では、会議で決まったことに全員大人しく従え、ってノリだったもんな。会議やる意味ないじゃん。一人一人に自分の意見を持たせようとしないんだ。考えさせようとしないんだ。面倒くさい仕事は下っ端に押し付けるし、しょっちゅう誰かの本を買えとか押し付けるし、右翼が来るかもしれないから警備やれとか、人を貯金箱下げた番犬だと思ってたのかな。
 しかも、明らかにおかしいと思うことをMLで提議しても、団体の方針に合わなきゃ排除されちまうし。関係者の機嫌を損ねたくないらしいぜ。黒いカラスを白い鳩だと言いくるめるような世界だったな。きっと俺ら排除された連中は「不謹慎」だったんだろう。俺らに「空気を読め」って言いたかったんだろう。それにしてもあんな輩が反戦とか人権とか原発反対とか言ってんだから情けねえよな。

posted by 鷹嘴 at 23:33| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
愚かな多数に委ねる社会体制になっているからだ。
日本は一人の天才であり徳のある哲人に委ねる哲人政治をやるべきだ。
空気というのは徳のある哲人であり一人の天才によって管理運営されるべきだ。
Posted by 七畳 at 2014年08月29日 22:51
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