【追記のお知らせ 2017年4月9日】
 記事「【5月7日】雁屋哲さんの講演+井戸川克隆さんと対談」に、「美味しんぼ『鼻血問題』に答える」から福島現地での鼻血の症状についての報告例を引用しました

2012年07月01日

2年ぶりに花岡に行ってきた

 そういうわけで6月29日から7月1日まで2年ぶりに秋田県大館市を訪れ、花岡事件慰霊式や集会に参加した。
 かつて花岡町(現大館市)で鉱石を採掘していた花岡鉱山では、戦時中軍部の要求に応えるため無計画な採掘が行われ、落盤で22名が犠牲になる事故も発生した。そのため鹿島組(現鹿島建設)が土木改修工事を請負い、戦時中の労働力不足のため中国から強制連行された人々がこの工事に従事させられた。
 しかし鹿島は中国人たちを連日長時間酷使するだけで満足な食事も報酬も与えず、「補導員」たちは何かにつけて中国人たちに暴力を振るうため多数の犠牲者が出ていた。中国人たちは座して死を待つより活路を見出すため1945年6月30日の夜に一斉蜂起し、補導員らを殺害し逃亡。しかしあえなく鎮圧・捕縛され、さらに多くが虐殺された。花岡に送られるために連行された中国人986人のうち419人が、生きて故郷に還ることはなかったという。
 戦後、乱雑に埋められたままの犠牲者たちの遺骨埋葬そして送還が行われ、花岡事件の調査が行われ、蜂起を指揮した耿諄さんら生存者も再来日し、大館市では毎年慰霊式が行われるようになった。そして受難者への謝罪と賠償を求めた訴訟が始まったが、このカテゴリーに書いたように原告団長の耿諄さんも激怒し絶望するような「和解」で終結した。
 2010年には中国人たちが河川改修工事に従事させられた花岡川の畔に「花岡平和記念館」が開館した。当時の弁護団や支援者の影響力の強いこの記念館には、耿諄さんに関する展示もあるが、彼が和解内容に絶望したことに言及していない。今回2年ぶりに記念館を訪れたが展示に大きな変更はなかった。何も知らない人が遠方から花岡に来ても、労工大隊長であり蜂起の指導者であった耿諄さんが和解内容に絶望していることを、知ることはできないのだ。これ、けっこう重大な問題だと思うよ。

 ところで地元ではこの記念館建設を快く思わない声もあったという。そもそも「花岡」事件という呼称にさえ抵抗感があったという。たしかに「花岡」事件ではなく「鹿島」事件と呼ぶべきかもしれない。同様に水俣病ではなくチッソ病、福島原発事故ではなく東京電力原発事故と呼ぶべきかもしれない。もっとも(以降は受け売り)当時の住民も蜂起鎮圧に協力し、共楽館の前で縛り上げられた中国人たちに罵声を浴びせたという、言わば鹿島と官憲に加担した過去もあるのだが。そう考えてみれば水俣病の例でも、かつて水俣市はチッソの城下町であり、住民たちの一部は患者を差別していた。言わば加害者側に立った歴史は否定できないだろう。

 6月30日は10時20分から市内の十瀬野公演墓地で慰霊式が行われ、強制連行被害者の遺族の方々30人、中国大使館員、日中友好協会、大館市長・市議、秋田県議、JR東労組、市民団体などが参列した(強制連行被害者は高齢のため一人も参加できなかった)。見渡したところ200人は集まったと思う。遺族の方々は慰霊碑の前で紙幣に模した紙を燃やして弔い、感極まって号泣する方もいた。
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 午後からはフィールドワークに個人参加。信正寺裏の供養塔(犠牲者の遺骨が一時埋葬されていた場所)や日中不再戦友好の碑などを2年ぶりに訪れた。

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 日中不再戦友好の碑に行く途中の狭い道より。この道路は滝沢第二ダム(鉱滓ダム)の堤防であり、高さ43mとのこと。眼下はゴミ処理施設など

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 このようにダムは土砂で埋まっている。貯水するのではなく鉱山で出た土砂を捨てていくためのダムだったという。

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 しかし日中不再戦友好の碑から見下ろす上流部分は沼になっていて、中山寮跡地はこの沼の底だという。碑の前でも紙幣を模した紙が燃やされ、遺族の方々が号泣した。
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 そして今回は「滝ノ沢暗渠跡」を初めて見学した。ここは滝沢第二ダムの奥の滝沢第一ダムの暗渠(トンネル排水路)だった。ダムと言っても水を貯めるのではなく土砂を捨てていくための鉱滓ダムだから、水が溜まって決壊するのを防ぐため排水路が必要だった。そのため元からあった谷川を利用して暗渠を造ったらしい。
 恥ずかしながら不勉強なため知らなかったが花岡の第一次強制連行被害者は花岡川の改修工事ではなく、ここで暗渠建設工事に従事させられた。被害者の一人の孟繁武さんは戦後の1994年に来日した際、花岡川へ案内され、「なぜ自分が働かされた場所に案内してくれないのか?」と、日本人に不信感を持ったという。翌年は「自分の働いていた場所を確かめたい」ので、6月30日の慰霊式の前に来日し、暗渠跡を確認したという。
 孟繁武さんの証言によると、元々の谷川を深さ平均1m、幅3mに掘り拡げ、型枠を組んでコンクリートで固め、アーチ状の暗渠を構築し土砂で埋めるという作業だった。発破は行われず、ツルハシやスコップを用いた手作業で、大きな石や木の根に悩まされた。ノルマは一人一日1立方メートルの掘削だった。型枠を組む作業は朝鮮人の労働者が担当していた。話かけようとしたが手を振って拒絶されたという。
 冬も冷たい水に浸かり、一度靴が支給されたことがあるがサイズが会わず、ワラジの支給があったが足りず、裸足で作業したりコンクリート袋を足に巻きつけたりした。コンクリートの材料(セメント、砂利、水)を運ぶ作業では、運ぶ量や時間を厳しく管理され、たびたび補導員から棒や牛の睾丸を乾燥させた鞭で殴られ、革靴で蹴られた。どの補導員も殴ったそうだが、一人の若い補導員は厳しい監視をせず、同僚が来たときだけ「仕事しろ」と言ったという(以上は記念館に展示の資料より)。
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 小川がトンネルに潜っているところが暗渠跡
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 青いフェンスが目印

 続いて共楽館跡地を見学した。現在では市民体育館になっているが、敷地の道路寄りに記念碑が立っている。信正寺や記念館からちょっと遠いが歩いていける距離。





 67年前、ここで中国人強制連行被害者たちが炎天下の広場で3日間も縛り付けられ、拷問され、100人以上が亡くなった恐ろしい過去を窺い知ることはできない。

 翌日は市内で行われた集会にこれまた個人参加。歴史研究者、各地で活動されている方々、遺族の方々が発言した。興味深く感じた部分を書きとめておく。
 花岡の犠牲者の遺骨は戦後紆余曲折を経て中国に送還されたが、遺骨の数(犠牲者数)は記録によってまちまちだった。現在では犠牲者419人ということで決着しているというが、犠牲者数が「混乱した原因の一つに、鹿島が埋葬許可を取っていなかったことがある」という。たしかに鹿島は、死亡した中国人の遺体を、一切の手続きを無視し穴を掘って埋めていただけだ。まるで使い古した道具を捨てるように。
 資本家にとって労働者は生産のための道具に過ぎず、賃金というのは労働力の維持・再生産のコストに過ぎないというが、日本帝国主義と鹿島にとっても、強制連行された中国人は侵略戦争の継続のための使い捨て道具だった。
 そして日帝と資本は現在でも多くの非正規雇用労働者・外国人労働者を搾取し使い捨てている。原発労働者は電力会社・大企業・官僚・政治家の利権のために被曝を強制され、被曝線量さえ偽装され、見殺しにされるのだ。
 ところで蜂起の日が裁判記録などでは7月1日とされたのは「当時の警察と検察による記録改竄ではないか?」という考察もあるという。
 「殺された鹿島職員4人は、6月30日付けで解雇されたことにされた。鹿島職員ではなく一般人が殺されたことになる。そうすれば、国防保安法を適用できるから」
・・・実際に官憲は当初花岡蜂起を「国防保安法第16条第2項適用の戦時騒擾殺人事件等被疑事件」として扱った。7月11日の耿諄さんの尋問調書では、あたかも耿諄さんが日本を敗戦させるために蜂起した如く記されている(過去ログ参考)。花岡蜂起は鹿島の暴虐に抗したのではなく日本を敗戦に導く企てだとして、指導者らを国防保安法で起訴し、死刑にしたかったのかもしれない。
 それにしても殺された職員も、言うなれば日本帝国主義の被害者だ。勝手に解雇されたことにされてあの世で憤慨しているだろう。鹿島と日帝は強制連行被害者だけでなく鹿島組の労働者さえも見捨てたわけだ。

 また、遺族の一人は次のように発言した。
 「父たちの流した血を私たちは見ています。父たちの最期の血(血債)を決して忘れません。日本政府に謝罪・賠償をさせます。みなさんに支援を求めたい!」
 言うまでもなく花岡事件は鹿島だけの犯罪ではない。日本帝国主義が戦時下の労働力不足のため中国人を強制連行し、鹿島の工事に送り込んだのだ。たとえば水俣病についても、当時チッソ水俣工場で行われていた石炭を用いたアセトアルデヒド製造は国策として維持されていた。原発建設も国策だ。加害企業だけでなく日本政府の責任を追及しなくてはならない。日本政府こそ加害の主体であることを忘れてはならない。
 戦後賠償については日中共同声明や日韓請求権協定で個人の請求権も放棄された、という噴飯物の曲解によって絶望的に閉ざされている。我々日本人は、絶えず国の責任を回避し隠蔽しようとする今の政治を変えて、日本帝国主義が行ってきた(行いつつある)加害事実を糾弾し、語り継がなくてはならない。そして戦争被害者への、公害被害者への、国策による被害者全てへの賠償を実現しなくてはならない。
 
 この集会の最後に、15年戦争ではなく50年戦争の清算を、という発言が出た。
 つまりだ、日清戦争後に清国から台湾などを割譲させた下関条約(1895年)から、アジア・太平洋戦争の終戦まで50年。この50年はアジアへの侵略が継続されていた。
 そしてこの50年が終わった。日本はアメリカと戦争して負けたが自由と繁栄がやってきた。日本は生まれ変わった。と日本人は思い込んでいる。中国に負けたとは思っていないのだ。侵略戦争は50年続いていたことを忘れているのだ・・・ということ。
 全く同感。日本のアジア侵略は、日清戦争いや江華島事件から始まっていた。そして日本帝国主義はアジア人民の前に敗北した事実を忘れたフリをしている。明治維新以降の侵略にのめり込んだ時代を総括しなければならないだろう。天皇制にせよアジア蔑視にせよ欧米の模倣にせよ大量生産・大量廃棄の経済にせよ、明治維新以降に抱え込んだモロモロを捨て去らなければ、日本の戦争は終わったことにならないだろう。
 この二日間、花岡和解に関してはフィールドワークでも全く話題に上らなかったが、有意義な体験が出来たと思う。
 7月1日は別の団体の集会があったが、残念ながら翌日は出勤のため大館を後にした。慰霊式は今後も行われ、花岡事件は語り継がれるだろう。和解の欺瞞性を語り継ぐ覚悟の俺も、毎年というのは金銭的に辛いが何年かおきに訪れてみることにするか。獅子ヶ森の山頂を制覇したいし。


※ 以下は蛇足というか独り言だが、先日「花岡事件『秋田裁判記録』」という資料集を手にしたことがある。そこに花岡蜂起によって殺害された補導員らの遺体写真も掲載されていた。さほど鮮明な写真では無かったが、彼らが中国人を虐待した事実があるとはいえ痛ましいことだ。
 蜂起した中国人が葬ったのは「漢奸」1人(任鳳岐)と補導員(小畑惣之助、長崎辰蔵、檜森昌治ら)だが、同じ民族を裏切った者が恨まれるのは当然のこととして、殺された補導員たちは中国人たちに対し、それこそ旧日本軍のしごきの如く日常的に暴力を振るい、撲殺することさえあった。飢えに耐え切れず朝鮮人に施しを受けた薛同道に対しては「中山寮の恥、鹿島組の恥、支那人の恥」などと叫びながら取り囲み、棍棒や牛の睾丸を乾かした鞭で殴打し、撲殺したという。中国人が施しを受けるのを「中山寮の恥」と感じるならまともな食糧を供給するべきではないか?
 一方、中国人たちに対して温情を持って接した補導員(石川忠助氏、越後谷義勇氏)もいた。蜂起の計画は、この二人が非番の日を選んだという。しかもたまたま石川氏も当直だったため、中国人たちは彼だけは逃がしたという。
 この二人が、中国人に対する態度が甘いからといって職場で冷遇されたという記録は目にしたことがない。そもそも鹿島が中国人を殴れと指導するわけがないだろう。旧日本軍のしごきや自衛隊のいじめと同様、殺された連中が行っていた暴力は単なる暴力に過ぎなかった。あるいは補導員たちの暴力が無ければ、花岡蜂起は起こらなかったかもしれない。

 どんな職場や組織にも、必要以上に厳しいというか口うるさく大声を張り上げて威嚇するような人間がいるものだ。東電の社員の中には、下請作業員に対し名前を呼ばずに「オイ、オマエ!」などと呼びつける者もいたという(5月28日東京新聞)。もちろんそんな常識の無い連中は少数だと思うが、どんな企業にも部下や下請や非正規雇用労働者に対し高圧的な連中がいる。厳しいとか言葉が荒いとかいうだけの問題ではなく、怒鳴り散らしつつも親身に指導してくれるとわけでもなく、とにかく相手を見下し人間扱いしないのだ。怒鳴り散らし虚勢を張るのが快感なのだろう。「サディズム」というものか?
 戦争責任について個人の責任だけ言及しても意味が無いが(それこそウヨクの思う壺だし)、それでもあえて言うが個人の責任というものも否定できない。たとえばアジアや南洋各地に出兵した日本兵が、略奪や強姦を命令されていたわけではないよな。植民地朝鮮の日本人が、朝鮮人を突き飛ばしたりバスで無理矢理席を立たせたりすることを奨励されていたわけではないよな。

 もっとも帝国主義というか政治権力が、こういう人間たちの本性をあらわにするというか、誰の心の中にもある醜い部分を引き出し、利用するのではないか。異民族や異教徒を差別し、敵国の民衆を憎悪し、下請や非正規雇用労働者を差別するように仕向ける。つまり支配される側を分断する。これが統治機構の狙いだ。
 日本帝国主義にとって中国人捕虜は憎むべき敵であり、死ぬまで酷使すればいいだけの存在だった。彼らが朝鮮人や日本人労働者と融和するなど絶対にあってはならないことだった。花岡の補導員らはこうした統治機構の狙いにあまりにも従順すぎたため報いを受けしまった。彼らの棍棒は中国人ではなく日本帝国主義に振り下ろすべきだった、と思うよ。
posted by 鷹嘴 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 花岡事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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