19日には原発を規制する立場である「原子力規制委員会」の委員長に、田中俊一という「原子力村」の住人が就任した。全国の原発再稼動ゴーサインを与えるための人選だろう。政府は「30年代に原発ゼロ」というが、馬鹿げたことに大間原発や島根原発3号機などは「設置許可は取り消せない」として建設再開を認めている。「原発ゼロ」など将来的に反故にするつもりではないか?
六ヶ所再処理工場も存続されるが再処理実現の見通しは無い。原発を再稼動すればまた使用済み核燃料が増える。どこに保存しておくつもりだろうか。このように政府・官僚・財界は原発という権益にしがみつき、将来の展望も無いのに何が何でも再稼動・新増設を進めるつもりだ。
しかし、こういう連中に歯止めをかけることなく54基の原発や「もんじゅ」の建設を許してきたのは、我々市民一人一人の無関心だった。スリーマイルやチェルノブイリを知った我々は原発を安全だとは毛頭思わなかったが、原発はわが国のエネルギーの根幹である、という迷信に押し流されていた。まさか日本でチェルノブイリのような事故は起こるまい、と高を括っていた。原子力は安全で低コスト「ということにして」、化石燃料は枯渇するから原子力だけが頼り「ということにして」、原発建設を進める「仮構性」に抗えなかった。
以下に、昨年東京新聞に掲載された論考を2件ほど紹介する。
■ まず2011年4月18日・東京新聞夕刊、雨宮処凛氏「原発難民の叫び 俺の双葉町を返せ!」より引用。
2011年4月10日、東京・高円寺で行われた「原発やめろデモ!」にて、福島県双葉町から参加した若者は「私は福島から来た“原発難民”です」「俺の双葉町を返せ!」というプラカードを掲げていた。「デモは初めて」という若者も多数参加し、様々な工夫を凝らしたプラカードが隊列を飾り、「ずっとウソだった」の合唱も行われた。
デモのあと雨宮氏らに近づき「電気がなくなったらどうやって暮らすんだ!」と「声を荒げたオジサン」もいたそうな。何度でも言うが事故が無くても放射能を垂れ流し、労働者に被曝を強制する原発という代物は、いかに電力が足りなくてもすぐさま廃止しなくてはならない。電力不足は原発維持の口実にはならない。雨宮氏も次のように指摘している。
「よく『原発がなくなったら今のような生活ができなくなる』という声を聞く。しかし、『今の生活』を維持するために、今回の事故のような恐怖を味わい、水や空気が汚染され、野菜や魚まで被害が及ぶという状態は、とてつもない『本末転倒』ではないだろうか」たしかに、『“豊かさ”に駆り立てられ』た『今の生活』を維持するため、次の原発事故の不安に脅えて暮らすのは『本末転倒』だ。というか、絡んできた「オジサン」が直接原発から利益を得る立場だったら、『今の生活』を維持できなくなる、かもしれないが。それはまず無いだろうね。原発で利益を得ている連中の弁護を勝手にやってあげてるんだ。こういう人も珍しくないと思うよ。孫請け会社に勤務しているため低収入を愚痴りながらも、東電をかばい反原発運動を糞味噌に言う知り合いもいるからなあ。自分が搾取されている構造こそ、原発を維持している構造と同一だと考えようともしない。彼のような多くの労働者への搾取によって原発は維持され、そしてその利益はごく一部の層だけにもたらされるのだ。
そもそもこの「オジサン」、原発にどれほど関心があるんだが。原発という国策に反対していることだけが気に食わなかったのかも。あるいはデモという「空気を読まない」行為自体が許せなかっただけかも。
■ 海外メディアも取材に訪れていたが、韓国の記者は雨宮氏に次のように語ったという。
「どうしてドイツでは25万人規模のデモが起きているのに、当事国の日本ではデモが起こらないのか。韓国でも不思議がられていた」そして雨宮氏は日本人の性質に言及する。
「震災が起きてから、日本人の秩序正しさが海外から高い評価を受けている。が、それは時に『お上に従順』という性質と紙一重なのかもしれない。そしてその性質は、これほどの地震大国に原発が建設され続けてきた状況と決して無関係ではない気がする。が、今回の事故を受け、若者たちは『原発反対』と声を上げ始めたのだ」全く同感。実際には被災地で盗難が横行したそうだが、大規模な略奪騒ぎが起こるような諸外国に比べりゃずっとマシだろう。しかしそういう日本人のおとなしさ?が、一方では権力者や資本家に対しての、地域社会の中での、従順さとなって現れるのではないか。
疑問や反感を覚えても、決して口に出してはならない、黙って従わなくてはならない・・・という日本の「メダカ社会」は、アジア各地への侵略戦争、環境破壊、原発推進政策を止めようとしなかった。そして集団のルールに背く者を排除していった。
何しろ侵略を受けている国に行って人質になってしまった同胞を叩きまくるような国民性だ。支配者にとって実に好都合だろう。支配者は国民の差別感情・排外感情を煽って体制を維持しようとする。そして国民はそれに素直に従い、異質な存在を差別・排除する。国や企業に対し声を上げる人々を排除する。この排外感情は、時として権力側さえ抑えきれず、迎合してしまうような怪物に育っていく。刑罰の厳罰化や公訴時効廃止がそれだ(参考)。
たとえば、戦前戦中に「アカ」を排除してきたこの国では、未だに天皇制の是非について大っぴらに語ることは憚れる。たとえば、水俣病患者を苦しめてきたのは原因企業のチッソであり、国・自治体であり、そして患者を差別した地元の住民たちだった。体制側からそこまで強制されているわけではないのに、社会に「タブー」を形成し、従わない者を排除する。自らの首に鎖を結びつけるようなものだ。前の投稿で書いたことも同じだ。
また、『お上に従順』である日本人の性質は、「勤勉さ」とは全く異なるものだと思う。日本人は『お上に従順』ではあるが、「勤勉」だとは思わない(参考)。権力者の目の届く範囲で勤勉を装っているだけだ。指示には従うが指示されていないことは放置のままだ。震災前の東電の対応を見るとよく分かる。奴らは経産省から「15mの津波に備えよ」「全電源喪失に備えよ」などと指示されていなかったから、対策を取らなかった。指示されなくても行わなければならない対策を怠っていたのだ。
『お上』に指示されたことには従う。指示されていないことは放置。指示されていないことに目を向ける者には「空気が読めない」と排撃する。こうした社会の中で我々は、常に多数派であろうとしてビクビクしながら生きてきた。
■ 続いて、2011年10月11日・東京新聞、金原ひとみ氏「制御されている私たち 原発推進の内なる空気」より引用。
昨年3月12日、金原氏は家族とともに東京から岡山県に避難し、4月に次女を出産した。この記事が出た時点では夫は東京に戻ったが、金原氏と娘二人は岡山に留まっている。「唯一の頼りであったインターネット上でも情報統制が始まってからは、海外のニュースをかき集」め、娘たちの食品に最新の注意を払っているという。
そして金原氏は、「(原発は)今回の件で、今や一部の利権のためだけにあることが周知の事実になった」以上、全ての原発を直ちに停止し、食品の放射線基準値をかつての値に戻し、汚染食品を乳幼児が摂取しないように規制し、放射線量の高い地域からの避難は国が援助し生活を保障するべきだと訴える。
許し難いことに日本政府は市民の健康より、電力会社のような大企業の利益を重視している。以前に投稿したが票の確保の面でも大企業の意向は無視できない。それにしてもこういう構図は原発の問題だけではない。たとえばオスプレイ開発・導入を巡るアメリカ国内の状況は日本の政治家と電力会社の関係とそっくりだ。
しかし「こういう誰にでも分かるはずのこと(原発即時停止)ができないのは、政府や東電の社員が悪人だったり、無能だからではないのだろう」。原発を止められない原因は他にもあるというのだ。「失業を理由に自殺する人が多いとされるこの国で、失業を理由に逃げられない人、人事が恐くて何もできない人がいることは不思議ではない」。そして金原氏はさらにこの社会の構造を突いていく。
「しかし多くの人が癌で死ぬ可能性よりも、個々の人間とは無関係、無慈悲に動いていくこの社会に対して、私たちが何もできないことの方が、余程絶望的かもしれないのだ。
私たちは原発を制御できないのではない。私たちが原発を含めた何かに、制御されているのだ。人事への恐怖から空気を読み、その空気を共にする仲間たちと作り上げた現実に囚われた人々には、もはや抵抗することはできないのだ。しかしそれができないのだとしたら、私たちは奴隷以下の何者でもない。それは主人すらいない奴隷である」
■ 原発を維持している構造への、日本の社会構造への、これ以上的確な指摘があるだろうか。歴史を振り返れば日本政府は、中国人は怪しからん「ということにして」中国を侵略し、米英は怪しからん「ということにして」対米開戦に踏み込み、戦後になればアメリカは日本を守ってくれる「ということにして」日米安保を維持し、原子力発電は安全で低コスト「ということにして」原発建設を進めてきた。我々は何も考えずに従順に従ってきた。このような「メダカ社会」の中で、声を上げる者は「空気を読めない」と排撃される。国家権力も恐ろしいし上司も恐ろしいが、何より自分の隣人が恐ろしい。周囲と違うことを言うのは恐ろしい。周囲に合わせていれば楽だ。そもそもなぜ周囲に同調しなければならないか考えることもない。たしかに我々は「主人すらいない奴隷以下の何者でもない」。
こうして我々は原発建設に協力あるいは黙認してきた。かつて水俣病被害者の緒方正人さんは「チッソはもう一人の自分」だと喝破したが同様に、東電も経産省も保安院も文部省も東芝日立三菱も経団連も自民・民主も電力総連も、我々にとって「もう一人の自分」だった。我々は見えないもう一人の自分の奴隷になっていたのだ。
史上最悪の原発事故が進行中であるにも関わらず政府・官僚・財界が原発を維持するために我々を黙らせようとしているこの情勢は、「主人すらいない奴隷」を返上するラストチャンスだろう。「仮構性」を前にして沈黙してはならない。「空気を読めない」と責められることを恐れるな。「メダカ社会」の殻を破り、声を上げよう。くれぐれも原発だけの問題だと思ってはならない。「シングルイシュー」などという寝言にたぶらかされてはならない。
TPPも日米安保も労働環境の悪化も、というか“先進国”が固執する大量生産・大量廃棄に頼った経済構造も、「一部の利権のためだけ」に大部分の人々を犠牲にし、地方や発展途上国の労働者市民へ負担を強い、弱者を切り捨てるものであり、原発と同じ構図だ。我々市民は国境を越え連帯し、このような支配者・大企業に対して闘わなくてはならない。我々が生きていくには何が必要か、何によって生存が脅かされるのかをはっきり認識し、闘わなくてはならない。
なんかこのブログの総集編のようになっちまったが、今後も細々と続けていくつもりなのでよろしく。とりあえず月に一度の更新を当面の目標とします(笑)