2013年01月29日

無実の星野さんを奪還し再審勝利へ!(1)捻じ曲げられた関係者供述

 徳島刑務所で服役中の星野文昭さんは、1971年11月14日の渋谷闘争で警察官を殴打し殺害したとして無期懲役刑を受けたが、これは全くの冤罪である。星野さんが警察官殴打に加わったとは考えられない状況が複数あり、そもそも一切の物証どころか目撃証言すら存在しない。
 国家権力が星野さんを実行犯に仕立て上げた唯一の拠り所は、当時未成年だった学生「Kr」の供述のみだが、これによって星野さんの関与を疑うのには重大な矛盾がある。Krは「きつね色の背広の男が警察官を殴打していた」と供述したが、当時の星野さんが着ていたのは薄青色の上着である。この矛盾点は再審請求で最高裁も認めざるを得なかった。
 しかし許し難いことに第二次再審請求も昨年却下された。獄中38年を闘う星野さんを直ちに奪還しなくてはならない!

 1972年の沖縄返還協定は、日米軍事同盟の下に米軍沖縄基地を固定化し、県民に永遠の負担を強いるものだった。全国の労働者・学生はこれを阻止するために立ち上がり国家権力と闘っていた。沖縄でも71年11月10日、協定批准を阻止するため10万人がゼネストに立ち上がり機動隊と激しく闘った。浦添市では機動隊員一人が死亡したという。
 東京では警視庁が厳戒態勢を布き、集会やデモを次々と禁止した。しかし闘う労働者・学生は「渋谷で大暴動を」という呼びかけに応じて続々と結集。11月14日には渋谷を封鎖する1万2000人の機動隊を粉砕せんと数万の労働者学生が集まった(この日、池袋駅ホームで大阪の教育労働者・永田典子さんが機動隊に虐殺されている)。
 小田急線代々木八幡駅を降りたデモ隊は渋谷駅に向かう途中、神山交番前の機動隊による阻止腺を蹴散らしたが、最後までガス弾を打ち抵抗していた一人の機動隊員(中村恒雄巡査、当時21歳)がデモ隊によって鉄パイプや火炎瓶の攻撃を受け翌日死亡した。
 11月18日、当時の後藤田警視庁長官が徹底取締りの談話を発表。以降20人もの労働者が不当逮捕された。翌年2月からは群馬県の学生が多数逮捕された。三里塚闘争で指名手配を受けるなど熱心な活動家であり当日のデモ隊のリーダーでもあった星野さんが高崎経済大学に在籍していたためである。国家権力は星野さんを生贄にしようとしたのだ。
 72年2月2日、Kr(当時群馬工業高等専門学校3年生)や奥深山さんら群馬県の学生が逮捕され、2月22日には星野さんと大坂正明さんが指名手配された。そして星野さんは75年8月6日に逮捕された。星野さんは「機動隊員を殴打し火炎瓶を投げつけろと命じた」として起訴され、79年の一審判決は懲役20年(求刑は死刑)。83年の控訴審では無期懲役、87年に上告棄却され刑が確定した。

 上述のように権力が星野さんを実行犯に仕立て上げた唯一の拠り所は、Krによる供述のみである。権力は「Krは『きつね色の服を着た男が機動隊員を殴っているのを見た』『きつね色の服を着ていたのは星野だけだった』と供述した。だから星野が犯人だ」という筋書きを作り上げた。
 しかし彼の72年2月2日の警察官調書は次のようになっている。
 「私のこの11月14日の任務は、軍団長か何かの当日の私達組織の重要人物である偽名で『みなかみ』とかいう人の防衛隊の一員でした」(再審請求棄却に対する異議申立補充書 2012年9月28日 P-14)
 当日初めて星野さんと出会ったKrは、「星野」という名前さえ知らなかったのだ。しかし権力は、星野さんを有罪にするために当日現場にいた人物から言質を得ようと画策した。
 72年2月14日のKr供述による検察官調書は、機動隊員を殴っていた人数、各人の持っていた武器(バール、鉄パイプ、竹竿、それぞれの形状)、殴打の状況、怒鳴り声などを詳しく記している。星野さんは鉄パイプで機動隊員を殴りながら「殺せ、殺せ」と叫んでいた、という(*注)。まるで事件を撮影した動画を見てレポートするような詳しさだ。事件から3ヶ月経っているのに、このように当日の状況を詳しく記憶しているだろうか?いや、事件の直後でもこれほど細かいレポートは不可能ではないか?検察のこしらえたシナリオだろう。冤罪事件が生み出される典型的な過程だ。
 それにしてもなぜkrは、事件の現場に星野さんがいたと断言したのだろうか。星野さんの名前すら知らなかったのに。その謎の答えが72年2月16日の警察官調書にある。
 「顔を覆っている手を、うすいクリーム色の背広の人が鉄パイプでしきりに殴りつけていました。この時、このような服装の人は星野さんしかいないので、顔は見ていませんが、この殴っていた人は星野さんだったと思います」(異議申立補充書 P-18)
 つまりKrは機動隊員を殴っている男の顔を見ていたので星野さんだったと断言できたわけではない。服装の色から推定しただけである。(そのように誘導された)。当日の星野さんの上着は薄青色だった。この一点で星野さんは事件とは無関係であることが明確となる。

 Krがこのように述べたのも取調官の誘導によるものだ。彼の供述によると星野さんと初めて出会ったのは渋谷闘争当日の中野駅ホームだった。彼は星野さんの実名を知らなかったどころか顔すらほとんど記憶に残っていなかったのだ。
 星野さん一審裁判第4回公判の証言台に立った彼は、被告席にいる人物が中野駅ホームで出会った星野文昭であるか?と問われ、「確定しがたいです」と述べている。渋谷闘争の当日が初対面であり、「顔を時間的に見ていない」のだから、当然だろう。
 そして彼は証言台で、当日星野文昭なる人物が参加していたことを知ったのは「取り調べの段階」だった、と告白しつつ権力による悪質な誘導があったことを暴露した。
 「星野さんが、ということですけど、要するに、その場で見ていたのは、ぼくが見ているのは、きつね色の背広の上下を着た人ですか。中肉中背という感じの人ですね。その人が鉄パイプを持って殴ってるのを見てるという形では供述したわけです。それに対して、警察官あるいは検察官は、それはだれかということを聞かれたわけですね。ところが、その現場でほとんど初めて会った人たちばかりなわけですね。すると、人物として特定しがたいわけですね。それに対して、じゃ、お前の記憶の範囲で名前を知っているというか、見たことのある人間をあげろということだったわけですね。そのとき、星野さんだったんじゃないかという、その人、きつね色の上下を着た人ですね。それに対して、ほかの人間もいっているから、それは間違いないだろうということで、調書に記載されて言ったという過程を一応、ふまえておいてください」(異議申立補充書 P-15)
 先程も言いましたけれども、要するに中肉中背で服を着ていると、それでヘルメットをかぶっていると、星野じゃないか、星野じゃないかという形で言われていて、わかんないわけです。僕自身としては星野さんという名前、その人と一致しなかったですし、ですからわかんないということ言っていたわけです。だけど、まあ何回かそういうことを言われて取り調べがあって、何回かというよりほとんど朝から晩まで毎日だったわけですけれども、そういう取り調べがあってその段階で、ひょっとしたらそうだったんじゃないかということ言った段階で名前がそういうふうに記載されていったということです」(国際労働運動2013年2月号 第438号 P-22)
 つまり取調官から、「そのきつね色の男の名前を言え。星野か?星野だろ?星野だってみんな言ってんだよ!」という誘導というか強制が行われたのだろう。
 しかも彼は、検察官から「この被告人(星野さん)が、『きつね色の背広上下の人』だと言えますか?」と問われ、「それはちょっと絶対に言えないことだと思います」と答えたという(国際労働運動2013年2月号 第438号 P-11)。
 彼を取り調べた警察官も控訴審第19回公判で、「星野くんに対しては、クリーム色というだけで、星野くんと言っていたようなことでもなかったように私は記憶してるんですが」と証言している(異議申立補充書 P-16)。この警察官は殴打者を星野さんだと決め付けているようだが、Krにとって殴打者と星野さんを結びつけるものは無かったことを示す重要な証言だ。
 結局彼にとって星野さんは、名前も知らなかったしデモのときにチラッと見ただけの人だった。彼にとってきつね色の服装の男とは、機動隊員を取り囲む後姿をチラっと見ただけだった。であるのに権力はこの両者を無理矢理一致させようとした。「星野こそきつね色の男だろ!認めろ!」と迫ったのだ。当時18歳だったKrは蓄膿症を患っており、警察・検察は「治療を受けたければ言うことを聞けと脅し、実際に取調べに応じた後に病院に連れて行った」という。

 星野さんの第一次再審請求は1996年4月東京高裁に対して行われたが、2000年2月に棄却決定、異議申し立ても2004年に棄却、最高裁への特別抗告も2008年に棄却決定した。しかし裁判所は事件当日の星野さんの服装は「きつね色」ではなく「薄青色」だったことを認めざるを得なかった。しかしそれでも最高裁は、星野さんは事件と無関係だと認めなかった。
 「申立人が本件当日青色系統の上着を着ていたとの証拠は旧証拠中にも存在する。これら証拠を総合すると、本件当日の申立人の服装が薄青色の上着であった可能性が高く、この点に関するKr供述には誤りがあると認められる。
 他方で、本件当日、申立人が集団を指揮し、中野駅でKrの肩車に乗って演説し、渋谷に向かう途中で「虎部隊前へ」と指示し、また、本件の最後に「道案内」と言って道案内人を呼んだことについては、申立人自身も認めており、関係証拠上動かし難い事実である。そして、Krは、背広の色の供述に誤りがあるとしても、公判において、これらの行動をした者についてきつね色ないし同系統の色の背広上下を着ていたと供述しているのであって、機動隊員を殴打した者についての前記供述部分も申立人を指しているものと解され、この供述によって申立人以外の者の犯行を示しているとはいえない」(最高裁特別抗告棄却決定 2008年7月14日)
 このように、「Krは星野の服装を間違えて記憶していたが、デモ隊に指示をしていたのは『きつね色』の男であり、機動隊員を殴っていたのも『きつね色』だと、彼は供述している。両者は同一人物と考えられる。デモ隊のリーダーは星野だ。だから星野の犯行だ」・・・という三段論法を展開している。服装の色は間違えて記憶していたとしても、個人の特定は出来ていた、というのだ。
 Kr供述の中の「きつね色の服装の男」の存在を否定するということは、即ち機動隊員殴打者の手がかりとなる唯一の情報を否定することになる。権力はきつね色の男と星野さんを無理矢理同一人物だと決め付けて起訴し法廷がこれを認めたのだから、きつね色の男の実在を否定するということは捜査も起訴内容も判決も全て誤りだったという宣言になるのではないか?
 ところでKrは「自分が星野と言っている男はきつね色というか証言台の色のような上下の背広を着ていた旨供述している」という(同上)。しかし彼は星野さん控訴審第7回公判で次のように語っている。
 「いや、星野さんがその服装をしていたというんじゃなくて、先ほど申し上げた点在する記憶の中で、まあ警察の取調べもそうですけど、事件の現場に、そのきつね色の上下の人がいたということは記憶があるわけです。そこから逆にさかのぼっていって、最初会ったときにその服装だったというような供述になったというように記憶しています」(国際労働運動 2013年2月号 P-12)
 権力はどうしても、星野さんが当日「きつね色」の服を着ていたことにしたかった。そのようにKrを誘導・強制し、Krの言葉の都合のいい部分だけかき寄せたのだ。警察・検察だけでなく裁判所も、体面のために過ちを決して認めようとしないのだ。

 そもそも、たとえば前日に会って話をした人がどのような服装であったかいちいち記憶しているだろうか?少なくとも俺にはそんな記憶力(というか観察力)は無い。逆に、たとえば電車内でトラブルを起した酔っ払いのいでたちならば憶えているケースが多いのではないか?
 Krは「きつね色」の男を見たというが、第三者(通行人)も、鉄パイプを持った茶系統の上着の男、また「ベージュの薄いコート」を着た男を見た、という証言をしている(国際労働運動2013年2月号 P-14)。
 しかも、週刊朝日のカメラマンが当日撮影した未公開写真の中に、茶系統のコートを着たデモ参加者の姿がある(国際労働運動2013年2月号 表紙の裏に掲載)。「きつね色」の男は確かに実在したのだ。なおこの男性は「反戦」というヘルメットをかぶっているが、当時の星野さんのヘルメットには「中核」の「中」の文字が書かれていた(参考)
(続く)





*注: この2月14日Kr供述調書は以下のように極めて詳細に当時の状況を述べている。
 「この三人に追い抜かれたころ、前方約一〇メートル位の米屋のシャッターの所では、機動隊員が四、五人からはげしく殴られていました、略図でABCDと記載したのが殴っていた男たちで
 Aは道案内の男
 Bは星野
 Cは不明
 Dは不明
 です。
 Aの道案内の男は長さ三、四〇センチ位の黒いバール(一方の先端が曲がってクギを抜くのに使用し、他方の先端が薄くなっている物)をふり上げてはげしく機動隊員を殴りつけていました。
 Bの星野は長さ四、五〇センチ位の鉄パイプをふりかぶって同じように機動隊員を殴りつけていました。
 CとDはどちらか一方が長さ一メートル位の竹竿を持ち、一方が何かは分からなかったが、何かの武器を持っており、二人ともA、Bと同じく機動隊員を殴りつけていました。
 前回供述したように、ヘルメットがコンクリートの床に落ちた時のような音や、竹が身体に当る時のような音をたてており、めった打ちに殴りつけていたのです。
 以上が略図Aの状況です。

四 続いて私を追い抜いたE、F、Gの三人が、機動隊員に一斉に飛びかかり竹竿や鉄パイプで殴り始めたのであります。つまり最初めった打ちにしていたA、B、C、DにE、F、Gが加わって七人位で機動隊員を殴り続けたのです。
 この時、Bすなわち星野が鉄パイプで機動隊員を殴りつけながら
 殺せ、殺せ
 とかすれたような異様な声で叫び続けていたのが印象的でした。
 この時、機動隊員がどういう状態であったかは、ABCDEFGの姿に隠されていたので良く分かりません」(異議申立補充書 P-17〜18)。
 繰り返すがこれは事件の3ヵ月後の供述である。驚異的な、というかコンピューター並みの記憶力ではないか?
 弁護団は人間の記憶のあやふやさを立証するため、日本大学・厳島行雄教授に実験を依頼した(参考)。5〜6人を集めて簡単なゲームを行わせ、2ヵ月後にメンバーの配置・自分や他のメンバーが使った道具などを記憶しているかどうか確かめたのだが、正確な記憶はほとんど残っていなかったという。この「厳島鑑定書」は第二次再審請求の補充書とともに東京高裁に提出された。
 異常なほど詳しく当時の状況を述べているKr供述は、検察が作ったストーリーに過ぎない。数多くの冤罪事件と同様に。

 なお、この事件を捜査した担当した「中村巡査殺害班」の中津川検事は、別の被告人の裁判(凶器準備集合、公務執行妨害、傷害、現住建造物等放火被告事件)にも目撃者の供述調書を提出したが、「犯人識別には足りないとして無罪判決」となった。目撃証言どころか検察の作文に過ぎなかったのである。
 被告人のM氏は1972年1月7日に逮捕され、K氏について供述させられた。1・24検察官調書ではK氏について、「中野駅で黄色い総武線に乗った」「一見やさしそうで、私の背たけ1メートル60より高く、1メートル70位で、すらっとした感じの人でしたので印象に残っています」などと述べているが、実際にはM氏がK氏を見たのは検察庁での取調べで鏡越しに見せられたのが初めてだった。そもそもK氏は現場にいなかった。
 M氏は法廷で取り調べの悪質さを次のように暴露している。
 (K氏の風貌について)「そういう記憶はあったんですか。」
 「いや、ありません。」
 「ないにしては、しかし、作りすぎじゃないかな、この説明の内容は。どうしてそんな話が出た。」
 「まず、僕もがんばってたんです。この黙ってたんですけれども、あんまり長時間の調べと、あとお前一生しゃべらなかったらつけねらってやると、それとお前の罪は機動隊員が14日に死んでるんだから、絶対お前のことを殺人罪で起訴してやる、そういうことを言われたわけです。」
 「それはいつです。」
 「取調中、ずっとそのことばかり言ってました。」(異議申立補充書P-25〜26)
 このように、自分たちが勝手に作った作文を、被疑者に対し「これがお前の自白だ認めろ」と、脅迫しながら迫るのだ。今も昔も変わらぬ国家権力の正体である。

posted by 鷹嘴 at 23:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 冤罪事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
またパソコンが故障しました。修理に出すか買い替えるか、まだ決めてません。そういうわけでしばらくの間、コメントの承認くらいは出来ますが記事の更新は出来ません。悪しからず。
Posted by 鷹嘴 at 2013年02月03日 12:14
突然失礼致します。

本気で社会正義・日本を思う方は、

http://blogs.yahoo.co.jp/ansund59 をご参考にして下さい。

人権も存在しない、
民主国家でもない、
法治国家でもない、

独裁・犯罪国家になってる日本が見えます。

官民が共謀して、裏で国と弱い人達を食い物にし、
まっすぐな人達を事故や病気を装い口止め・口封じしてる現実を、、

本当の事を知らなければ、何をやっても何にも変わらない正せないと思います。
Posted by 安淳徳 at 2013年02月26日 03:15
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