2007年03月08日

熊本県議・八浪知行の後援会も「南京大虐殺は無かった」

3月6日の熊本県議会で、自民党県議の八浪知行(やつなみ ちこう)という奴が「南京大虐殺とか従軍慰安婦はなかった」と発言したらしい。
2007/03/06-13:04 「南京大虐殺はなかった」=自民県議が発言、審議中断−熊本
 開会中の熊本県議会の本会議で6日、八浪知行県議(自民)が「南京大虐殺とか従軍慰安婦はなかった」「中国人はうそつき」などと一般質問の中で発言し、審議が一時中断する場面があった。
 同議員は教科書問題について言及しながら「(南京大虐殺を)絶対にやっていないことは分かっている。南京大虐殺とか従軍慰安婦とかうそをつく教科書は許せない」などと述べ、潮谷義子知事に見解を求めた。潮谷知事は「知事という立場で公式の場でこの問題についてお答えすることは控えるべきだと思う」と答弁した。

「中国はうそつき」 県議発言
2007年03月07日
  県議会の八浪(やつ・なみ)知行議員(76)=自民、熊本市区=は6日、本会議の一般質問で南京事件を掲載した教科書に対する考えを述べ、その中で「中国はうそを言うことをちっとも恥じない国。うそをつかれ、わびた首相や国会議員は馬鹿者だ」などと発言した。本会議は急きょ休憩に入るなど混乱し、松村昭議長は会議録で発言内容を確認し、処置すると約束した。

  八浪議員は一般質問の中で、旧日本軍人だった県内出身者の話を紹介。「間違った記述の教科書だけが使用されている」として、潮谷義子知事に「南京事件があったかどうか」と見解を求めた。潮谷知事は「時代の流れの中で正確に検証されることが大事と思う。公式な形で答弁することは控えたい」と答えた。

  八浪議員は国会議員のことを「馬鹿政治家」などと繰り返し、所属する自民党県議団からも批判の声が上がった。また、鬼海洋一議員(県民ク)は「思想信条は別として、議会の品位や権威を汚す発言」と指摘。竹口博己議員(公明)は「権威を失墜させる言葉が随分あった。議会運営委員会で本人の考えを聞く必要がある」と話した。

  質問後、八浪議員は、取材に対し「正しいことを言っただけ。間違った教科書が自己のことしか考えられない、国家意識を持たない日本人を作った」と話し、そのまま議場に戻らなかった。

  八浪議員は7期目。熊本工高時代、50年春の選抜高校野球大会に出場。その後、プロ野球・西鉄に7年間在籍した。60年から九州学院高、74年から熊本工高の野球部監督を務め、春夏で計5回、甲子園に出場した。今期で引退を表明している。

早速このチンカス野郎の後援会に電話してみた。
「先生は議会で南京大虐殺は無かったと仰ったそうですが、この発言を撤回する意思はございますか?」
ところが電話に出た中年女は謝罪するどころか驚くべきことに、

「南京大虐殺はありませんでした」

「全国から、ヨーロッパからも激励のメールが来ています」

「南京大虐殺があったと言っているのは、あなただけです」

「市内に元第6師団で南京にも従軍したこともある“トリヤマさん”という人が住んでいますが、南京大虐殺は無かったと言っています」


などと、マジで反論しやがんの。こんなの俺の長年の電凸史上で初めてだぜ。「嫌韓流」の晋遊舎の方がずっとマシだぜ(笑)いやマジで。
(“トリヤマさん”とはどんな字を書くのかたずねたが、「あなたには関係ない」と、教えてくれなかった)
そのうち一方的に電話を切りやがった。あまりのことに呆然。今度はメールで抗議してみる。


◆八浪知行議員の公式ホームページ
http://s3.kcn-tv.ne.jp/users/8273/

◆八浪知行後援会事務所
〒862-0950 熊本市水前寺6丁目10‐44
Tel 096-340-8273 Fax 096-340-1123 
メール↓
8273@s3.kcn-tv.ne.jp

(追加)ミクシィでタラリさんに教わったのだが、この八浪は以前からこういう発言を繰り返していたらしい。
平成17年11月 定例会-12月07日−04号

◆(八浪知行君) 私がどうしてこういうことをあれしたかというと、もう長い間あの大学はじっと見てきました。あそこの中に私売店もしておりましたもんですから余計知っとるんですよ。言えば本当にびっくりされるようなこともありますけれども、それはもう避けますが。
 今まで何千億という金を捨て金していると私は思っております、あの大学には。それは何かというと、一流の、一級の子供たちが入学していないんです。これはあんまりこれを言うと非常に問題発言にもなりますけれども、本当にじゃあ一流の学校から一流の生徒たちが受けましたか。受けてないでしょう。今度はそれが、一流が受けてもなかなか通らぬようになるくらい難しくなると思いますよ。それを徹底的に、この理事長、まあ立派な今度は学長を迎えてもらいたいと思いますけれども、私が知っている限りでは、私が26年前にあそこのある教授と、そのときはまだ教授じゃなかったんですが、その方と話したとき、この人が、この学校は楽園ですということを言われました。それは本当に惨たんたるものでした。先生でもそうでしたから、生徒もそうでありましたから。みんながみんなとは言いませんけれども、決して大変な税金を使って運営してきた大学ではないことをはっきり申し上げますし、思想的にもかなりいかがわしい教授たちが今でもいっぱいおられるはずですよ。これははっきり申し上げておきます。だからもうそういう人たちはやっぱり遠慮なく、法人化されるわけですから、かえていくことが非常に大事なことだと思います。つらい言葉を吐かなきゃなりませんけれども、長い間考えてきておりましたので、知事さん本当にいい理事長をお選びいただいて、私は、この人なら必ずそういうことは気づいて、あっという間に改革していかれると、このように信じて、本当に心から尊敬しながら、走り使い、お手伝いをさせていただきたい、このように思っております。

 では、次の質問、教科書問題について。
 第2の質問に入ります。
 最近、歴史に学べというふうな言葉をしきりと耳にいたしますが、歴史に学ぶということは大変大切なことであります。それも本当の歴史を学ぶことであります。どうもおかしいと最近感じた人々が多くなりました。
 この書は「南京事件「証拠写真」を検証する」そして、この帯封のところに「証拠として通用する写真は1枚もなかった。」というこの本があります。これを読んでみると、もう本当にそのとおりでありますけれども、東中野修道という先生の書でありますけれども、これは本当に必死の思いで検証してまいられたわけでありまして、これを読むと、南京大虐殺だなんてばかなことは言えないのであります。私は、私なりにまたそれをお話ししたいと思います。
 どうもおかしいと最近感じた人々が多くなり、この書は「南京事件「証拠写真」を検証する」そして、こういうこと、今申し上げたようなことでありますけれども、「証拠として通用する写真は1枚もなかった。」となっております。戦争とは殺し合いでありますから、死骸は各所にあり、敵味方、無残な姿を見せたに違いありません。南京城陥落について、いつの間にかその数10万、しばらくしたら次の発表では20万、そして30万に膨れ上がっていきました。なるだけ多い方が賠償金が多く取れると踏んだのでしょう。
 昭和57年6月25日、鈴木善幸内閣のとき、高校世界史の教科書検定で、日本軍が中国華北地方に侵略と書かれていたものを、文部省の教科書検定官が進出と書き改めさせたと、にせの報道を流した記者がいました。これが自作自演かは知りませんが、御注進新聞となり、早速中韓両国に御注進になったのであります。
 よく検討されぬまま日本国じゅうのマスコミに掲載されました。日本のマスコミにたきつけられた中韓両国は、喜び勇んで、いつものように居丈高になって日本政府にどなりました。時の官房長官・宮澤喜一氏は、鈴木総理の中国訪問が間近に迫っていたからかどうかはわかりませんが、ありもしない誤報にもかかわらず、申しわけございません、政府の責任において修正しますと、謝罪を表明したのであります。さらに、近隣諸国の国民感情に配慮すると、近隣条項までつくり上げてしまったのであります。あれは誤報だとほうっておけばよかったのであります。

 これ以来、日本では、正しい歴史は排除され、反日的記事は無条件でパスするという世界でもまれな異様な教科書を子供たちに与えるという無残なことになってしまいました。この愚かきわまりない宮澤氏は、国民におわびの一つもせず、首相にまで、総理までなった人であります。
 果たせんかな、この宮澤内閣ができると、韓国、朝鮮の被害者と称する人々が相次いで日本政府を相手に訴訟を始めました。1991年、平成3年10月6日には、元従軍慰安婦という女たちが、太平洋戦争犠牲者遺族会を名乗り、1人当たり3,000万円の補償を要求して東京地裁に訴え、11月12日、韓国、朝鮮のB、C級戦犯としての遺族ら7人が1億3,000万円の国家補償を求め、東京地裁に提訴しました。
 宮澤内閣の加藤紘一官房長官は、事実関係も調べず、直ちにこれを認めてしまう。内閣改造で次に宮澤内閣の官房長官になった河野洋平氏も、強制連行があったなどと虚言を言う始末。また、土下座、謝罪国家への道を決定的にしたのは、1993年、平成5年、非自民6連立与党で誕生した、悲しいかな、我が熊本出身の宰相が、記者からの引っかけ質問に、さきの戦争をどう認識しているかと聞かれ、私自身は、侵略戦争であった、間違った戦争であったと不用意に言い、さらに8月23日の国会の所信表明演説で、我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたなどと言ってのけたものだから、次々に出てくる大臣、宰相皆、さきの戦争でアジアの国々に多大の御迷惑をおかけしたことを深くおわび申し上げると、ばかの一つ覚えのごとくおわびを繰り返す。まことに情けなくて涙が出ます。今こそ、おくればせながらも、当時のことを少しでも知っている者が正しい歴史を後世に伝えていかなければ、世界じゅうの人から、日本民族は、最低、最悪の民族にされてしまいます。
 白色人種は、地球はすべて私たちのもの、黒人は牛馬のごとく奴隷扱い、地球上の土地と資源を求めて侵略の歴史をつくりました。まず、イギリスは、弓矢をもってみずからの土地を守ろうと必死に戦ったインディアンを、皆様も西部劇でよくごらんになったでしょうけれども、鉄砲によって制覇し、アメリカ合衆国をつくりました。南米は、スペイン語とポルトガル語でわかりますように、両国が支配しました。そして次に、黒人の後は、黄色人種の国々に手を伸ばしてまいりました。
 ここで一つ、白色人種にとって意外なことが起こりました。黄色人種が白色人種をやっつけたのであります。満州、朝鮮、そして我が国日本に向けて、ツンドラ地帯のヒグマのようなロシアが食糧を求めて南下してきたのであります。それはこのアジア地区だけではありません。ヨーロッパの方にもそのように南下してきたのでありますが、世界の中に異変が起こったのであります。本当はこの戦いは勝てる戦いであったとは思われません。勝った理由の幾つかは知っておりますが、天佑神助という言葉があります。まさに神はこの国を守ってくださったと、そんな気がいたします。日露戦争に負けていたら、満州も朝鮮半島も、そして日清戦争で日本国となっていた台湾も、現在もロシアであることに間違いはありません。そして、白人に支配されたインド洋、太平洋の国々、イギリスは、インド、セイロン、ビルマ、マレーシア、香港、オランダはインドネシア、フランスは、ベトナム、カンボジア、フィリピンは米国。黄色人種の中の独立国は、日本とシャムだけでありました。
 我が国は、白人たちにこのアジアを、黄色人種の国々を奴隷にされてなるものか、大東亜共栄圏をお互い黄色人種の国々で助け合おう。そうして起こったのが大東亜戦争であります。不幸にして力尽きました。裏切り者のロシアの参戦、連日連夜の沖縄からの空襲、2発の広島、長崎への原爆、昭和天皇の終戦に対するお苦しみ。私は、中学3年の学徒動員で三菱の航空機製作所の中で、旋盤をとめて、陛下の終戦の御詔勅をラジオで聞きました。戦争が終わった。工場の土間でへたり込むようにして泣きました。茫然として、そうした虚無の中に、一体これからの日本はどうなるのだろう。現在の中学生に、国のことを思って泣く者があるでしょうか。
 日本は戦争には負けました。しかし、私たちが小学校のとき、インド、ビルマ、マレーシア、ベトナム、南洋のあらゆる島々で、日本軍が白人を追い出してしまったのであります。地図の上に日の丸をずっと立てていきました。大東亜戦争が終わりました。終わった後、日の丸を立てたそれぞれの国は、みんな独立したのであります。それぞれの国は、日本のおかげで独立できたと大変感謝しました。そのことを考えるとき、日本は決して負けたのではありません。そしてこの国日本は、やはり神の国です。地球の上の一番すばらしい国だと思います。
 先ほどお見せしたこの書は、南京事件「証拠として通用する写真は1枚もなかった。」とありましたが、南京城陥落について、いつの間にか10万の大虐殺が20万、そして30万と膨れ上がったのでありました。ここに、この議場に2人の、そんなことはなかったとおっしゃる生き証人がおいでになります。お一方は、小生の同町内にお住まいになっております。中学校校長時代、名校長として御活躍になり、退職後は、退職校長会の会長として長期にわたり御活躍なされた鳥山先生、現在94歳であります。いまだに健軍校区の長老として住民すべてが尊敬いたしておるお方であります。先生は、南京城陥落の当時、第6師団の師団司令部に在籍なさっておられた関係上、当時のことを詳しくお話しいただいたところであります。
 もう3年ほど前になりますが、三浦一水参議から、私の妻は中国人でありますので、このことについて本当のことが知りたい、八浪先生、本当のことを知っておいでの方を御紹介いただけませんでしょうかとのこと。私は、お1人にお話しいただくことはもったいないと思いましたので、健軍校区の町内会長さん方、6名の方々に一緒にお話ししていただきました。6師団とはそんな愚かな軍隊ではなかった、まさに世界に誇れる武士道をわきまえる世界一の強く正しい軍隊であったと、いろいろと詳しくお話しいただき、三浦参議も大変喜んで帰っていただきました。
 中国派遣軍総司令官・松井石根大将は、南京城を攻撃するに当たり、上空より飛行機にてビラをまかれました。内容は、城内の婦女子、非戦闘員は直ちに城外に逃げてください、また、城内の兵士に告ぐ、あなたたちは絶対勝てないから投降しなさい、中国4,000年の歴史の中には、城内に砲撃して壊すには忍びない遺跡、史跡が多くあります、重ねて降伏を望みます。そして、3日ぐらいの戦闘はあったようですが、城内の将軍がいち早く逃亡したので、全員城外へ逃げたようであります。
 南京城には陥落して3日ほどしかおらずに、次の無湖というところに転戦されたのでありますが、私が子供のとき、南京城6師団無血入城ということで、この6師団というのは、私たちの先祖の兵隊、軍隊でありますから、松井石根大将が馬に乗って南京城に入城される雄姿を当時のニュースで幾たびか見ました。小生、小学校2年のときでありました。南京城無血入城、町じゅうを挙げてのお祝いがありました。当時私は来民町小学校、もとの鹿本町、最近山鹿市となりましたが、私はその町の鹿本鉄道来民駅の近くに家がありました。私たちは停車場通りと言っておりましたが、そこから町じゅうを官軍基地の近くまで一本道のちょうちん行列をやったのであります。
 6師団は入城して3日して南京城を後にして無湖というところに転戦したことは先ほど申し上げましたけれども、無血入城がどうして30万の虐殺になったのでありますか。議場に2人の生き証人の1人は、この私であります。ちょうちん行列をした無血入城、こういうことで私も証人として申し上げた次第であります。
 明治37〜38年、日本はロシアと戦って勝ちました。乃木将軍も東郷元帥も軍神として、乃木神社、東郷神社、神として祭られておいでになります。松井石根大将も戦争に勝っていたら松井神社ができたでありましょう。こんな誇り高い戦いをした松井将軍が、大した裁判もなく、A級戦犯として死刑になられておられます。戦争は、勝てば官軍、負ければ賊軍であります。
 南京大虐殺の件は、これにて終わります。
 次は、従軍慰安婦問題に移ります。
 これがまた大うそであります。軍が慰安所を許可したことは事実であり、日本からも慰安婦は多く行ったのであります。事の起こりは、下関のある党の党員だとお聞きしておりますが、市会議員に落選した吉田清治という者が、チェジュ島、済州島ですね、にある貝殻でボタンをつくる工場にある日突如として日本人が来て、泣き叫ぶ若い女の子たち9名を強制的に連れ去ったというわけであります。それが今日問題になっている従軍慰安婦ということになっているのであります。
 うその冊子をつくったこの吉田清治、今どこにいるかわからぬようになっておりますが、それが、その冊子をもとに韓国内でテレビ化されました。それから韓国の日本に対する憎しみが恐ろしい勢いで広がっていきました。ちょうどソウルのオリンピックのときでしたけれども、行きまして、金浦空港に立ちました。そしたら、犬と日本人は乗車拒否と、そういうことを書かれてありました。本当に何でこういうことになったのかなと、もうほんに嫌な思いをいたしました。
 韓国の日本に対する憎しみは恐ろしい勢いで広がっていきました。慰安婦としては、日本人の女子も一緒に働いていたのです。余りに誇り高い仕事ではありませんので、郷里を後にするときは、女子挺身隊として行かれた方がほとんどであります。近所の人たちも知らない人が多かったようです。泣き叫ぶの、拉致されたのであれば、戦争が終わり次第大問題になっていたはずです。このことについては韓国政府も口を閉ざしておられました。やっぱり、決して韓国だけでなく、日本も貧しい人たちはそういう仕事につかれて帰ってこられた人がいっぱいありました。そしてまた、戦争が終わって、この郷里に帰られた女の人たちの中に5万円も貯金していた。5万円といえば何億かわかりません、本当に。ただではないもんですから、兵隊さんたちから取り上げた金をそんなにためておったわけです。そして、親に家を建ててやったり、大変な親孝行をした方が多くあったそうです。貧しい家では日本人も同じことをしていました。
 なお、済州島の人たちの間では、そんなことは一切なかったと。実際を調べに行った人に、日本人とは自分の国のことを悪く言うおかしな国ですねとお年寄りが言われたそうです。私たち、熊本、うそを書いた吉田清治という許しがたいやつは、今下関から逃げて行方不明だそうです。
 韓国、特に百済とは熊本県は深いつながりがあります。唐と新羅が一緒になって百済を滅ぼしました。熊本に逃げてこられて、鞠智城にとありますように、その数36万人にも及ぶと歴史にあります。私たちの先祖、血のつながりがあると思います。いつかはこの現在の悲しい関係を修復したいと思って、私は、日韓議員連盟の会長を古閑会長より拝命いたしております。
 これをもって従軍慰安婦の件、終了いたします。
 新しい歴史教科書の採用をと立ち上がってくださった馬場議員、井手議員、松田議員、溝口議員、4名の議員さんたちが請願書を提出されました。また、テルサでは立派なシンポジウムが開催されました。私は、長い間待ち望んだ若手の先生方の出現、どれだけうれしかったか、本当に涙の出るほどうれしく思いました。
 請願書が採択となりましたが、何の変化も今のところありません。議会民主主義の無視であります。さりとて、教育委員会は、ばか文部省、ばか……(発言する者あり)国会議員もそうですね。先ほどの4名の請願者の先生方、議会無視、議員無視の扱いを受けられたのです。もうこの闘い、負けるわけにはまいりません。
 国の法律と議会の法律の板挟みの教育長、教育委員長をいじめるつもりはありませんので、気軽にお答えください。
 それから、もういっちょあります。
 これは、安倍晋三先生とそれから中川昭一大臣が、今やっぱりこれはいかぬと、何とかせにゃならぬということで、国会で歴史教科書への疑問ということでもう動いておられますから、心ある先生方、ひとつ一緒になってこの闘いを勝ち取るようにしてください。この壇上からよろしくお願い申し上げ、降壇いたします。
 〔教育委員会委員長岡畑寛君登壇〕
南京の市民は全員避難していたとか、無血入城したとか、日本はアジアを独立させたとか、こいつ重症のデムパだな。

・・・遅ればせながらメールも送ってみた。第六師団の資料はK−Kさんのところからコピペ。
熊本県議会議員八浪知行様

初めまして。埼玉県在住の○山と申します。

報道によりますと先日八浪様は県議会にて、「南京大虐殺とか従軍慰安婦はなかった」などと述べられたそうですが、1937年12月に日本軍が南京を占領した際、多くの捕虜や敗残兵、軍属が虐殺され、市民や避難民もその巻き添えになるだけでなく略奪、強姦、殺害などの被害を蒙ったことは歴史上の事実です。これは多くの日本軍側の資料で明らかになっています。

たとえば第百十四師団の歩兵六十六連隊(宇都宮)第一大隊の「戦闘詳報」は、捕虜を虐殺したことを記録しています。
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【12月13日夕刻】午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分に附き意見の交換をなしたる結果、各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分配し監禁室より五十名宛連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地西南凹地、第四中隊は路営地東南谷地附近に於いて刺殺せしむることとせり

但し監禁室の周囲は厳重に警戒兵を配置し連れ出す際絶対に感知されざる如く注意す
各隊ともに午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終わり連隊に報告す
第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり
捕虜は観念して軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるもののありたるも中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり特に隊長巡視の際は各所にその声おこれり
(偕行社「南京戦史資料集」P-668、673、674)
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また、南京城内の安全区には多くの敗残兵が逃げ込みましたが、日本軍はそれを摘発するという名目で多くの無関係な者を連行し、殺害しました。
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目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みにくる。

市民と認められる者はすぐ帰して、三十六名を銃殺する。皆必死になって助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだという。多少の犠牲者は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである
(1937年12月16日、第九師団歩兵第七連隊の一等兵「水谷 壮」の日記・・・・偕行社「南京戦史資料集」P-501)
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仙台の第十三師団・歩兵第六十五連隊が、1937年12月16日・17日に、揚子江の畔に1万人以上の捕虜を連行し虐殺した事件は有名ですが、その中には老人や子供も混じっていたそうです。中国軍兵士の家族が軍属として部隊と行動を共にしていたためと思われます。
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【黒須忠信】陣中日記
(12月16日)「午后一時我が段列より二十名は残兵掃蕩の目的にて馬風山方面に向う、二三日前捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて存分に突刺す、自分も此の時ばかりと憎き支那兵を三十人も突刺したであろう。
山となつて居る死人の上をあがつて突刺す気持ちは鬼をも“ひしがん”勇気が出て力一ぱいに突刺したり、ウーンウーンとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切つて見た、こんな事は今まで中にない珍しい出来事であつた・・・・」(「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(大月書店)P-330〜331)
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また、当時第六師団に所属し南京戦に従軍し、現在は熊本市内にお住まいの鳥山様も、ご自身の体験から「南京大虐殺など無かった」と仰っているそうですが、その第六師団の兵員が虐殺行為を目撃したり、あるいは自ら虐殺を行ったという記録もあります。
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第6師団 歩兵第36旅団 歩兵第23連隊
一上等兵の従軍日記 『朝日新聞』1984年8月5日

(12月15日)
今日、逃げ場を失ったチャンコロ約二千名ゾロゾロ白旗を揚げて降参せる一隊に会う。老若取り混ぜ服装万別 、武器も何も捨てて仕舞って、大道に蜿々ヒザマヅイた有様は、まさに天下の奇観とも云へ様。処置なきままそ夫れ夫れ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。
『南京大虐殺の証明』P301

第6師団
元上等兵・児玉氏 毎日新聞1984年8月15日の報道
 集団射殺は児玉さんらが南京郊外の駐屯地から南約六十キロの蕪湖へ向けて出発した同月(十二月----洞富雄氏注記)十六日頃行われた。児玉 さんらに、揚子江近くの小高い山に機関銃を据え付けるよう命令が下った。不審に思いながらも山上に重機関銃を据え付けると、麓の窪地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。そこに、突然、「撃て」の命令。機関銃が一斉に乱射された。
 「まるで地獄を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきり分かりました」。機関銃は約五十メートルの感覚で「三十挺はあった」という。「なぜ捕虜を殺したのか。遺体をどう処理したのか。他のどの隊が虐殺に加わったのか。私たち兵隊は何も聞かされなかった」と、児玉 さんはうめいた。
『南京大虐殺の証明』P302


第6師団 歩兵36旅団 第23連隊 
兵士の日記「南京虐殺、現場の心情」 『朝日新聞』昭和59年8月5日付け

(12月15日の記述)
近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり
(12月21日の記述)
今日もまた罪のないニーヤ(中国人のことか?)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、・・・・まるで犬や猫を殺すくりのものだ。これでたたらなかったら因果 関係とか何とか云うものはトントンで無有と云う事になる」
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鳥山様はこのような戦闘には加わらなかったものと察します。
このように南京大虐殺は歴然とした事実であります。



また八浪様は「従軍慰安婦など無かった」とも述べられたそうです。どのようなご発言だったのか存じませんが、慰安婦を苦しめた責任は日本軍には無いとお考えなのでしょうか?
慰安婦を集め、慰安所を運営した売春業者の多くが悪質な手段を行ったことは八浪様もお認めになると思います。
しかし、そもそも慰安所は将兵による強姦事件が多発したため、その対策として設けられた物です。日本軍は朝鮮半島や台湾から慰安婦を戦地へ移送し、業者を呼び寄せ慰安所開設を許可しました。つまり売春業者は日本軍の業務を代行したのです。
日本軍に責任が無いと考えることは、
政府や自治体が民間企業に発注した公共事業に於いて、企業のミスや不正によって何らかの被害が生じた場合でも、その責は企業のみが問われると考えることと、同一です。
政治に携わる方々にとってそのようなお考えはあってはならないことのはずです。

また、慰安婦問題について発言していた自由民主党の有志による国会議員連盟は、業者による不正はあっても官憲はそれに関与していなかったと主張しつつも「河野談話」については見直しを求めないそうです。
一方南京大虐殺についても政府は昨年、非戦闘員の殺害や略奪があったことを認める答弁書を出しています。八浪様のご発言はこのような政府見解を否定し、わが国の国際上の立場を貶めることになります。

八浪様の晩節を汚さないためにも、早急に先日の発言を撤回し、謝罪を表明することをお勧めします。
よろしくお願いいたします。


*このメールはインターネットで公開しますので、万人の目に触れることになります。ご対応していただいた場合には返信は結構でございます。


埼玉県さいたま市  ○山△男
ま、全然期待してないけどねw



ちっ(怒った顔)八浪知行(やつなみちこう)は日本の恥垢!引退する前に謝罪しろ!と思う人はクリックきぼんぬ



*こちらだと同じウインドウで移動します。

posted by 鷹嘴 at 17:27| Comment(49) | TrackBack(2) | 南京大虐殺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ここまでしてシナに尽くしたい日本人は理解できません。究極的に日本をシナの一省としたいのでしょうか?
シナにこれほど貢献しているのですから当然ご褒美で、相応の地位が約束されるのでしょう。

異なる思想をもつことは理解できます。でも日本を敵といってはばからない、シナ、韓国、北朝鮮とタッグを組むのは理解できません。
国益を考えてる八浪志を日歩王中傷するのは許せません。恥を知るべきはシナに事大するあなた達です。
Posted by 日本人 at 2007年03月08日 23:38
↑黙れ売国奴(@∀@)

俺の祖国は日本国であって
滅亡した大日本帝国ではない。(@∀@)

結婚したばかりのうちの祖父を
中国戦線に駆り出して、南京で虐殺に加担させた
大日本帝国を許してはおかぬ。
貴様も滅亡した大日本帝国とともに
黄泉の国へ堕ちるがいいわ!(@∀@)


※「南京大虐殺」をなかったことにしたい人々が必死で目をそむけるリンク

▼[情報]南京大虐殺&百人斬りFAQ 
http://d.hatena.ne.jp/claw/20041002

▼日本政府は南京大虐殺をとっくに認めている。
http://www.cn.emb-japan.go.jp/jp/jinfor6.html

▼「南京大虐殺なかったで厨」の新ネタが登場するたび
音速で論破されてしまう掲示板(笑)東中野教授も一撃だ。
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/index.html
※さまざまな史料が紹介されている。

▼[企画]『イヌxワン グランプリ』
http://motomiya2.hp.infoseek.co.jp/inu-wang%20OFFICIAL%20WEB%20SITE.htm
時間無制限『南京大虐殺』闘論デスマッチ・いぬぶし秀一x王毅(中国大使館全権大使)!

▼南京事件 小さな資料集  第三部 東中野氏の徹底検証 
http://www.geocities.jp/yu77799/

▼『半月城通信』 http://www.han.org/a/half-moon/
※「南京大虐殺がなかった」という珍論については、すでにソースつきで否定されまくってます(@∀@)

Posted by 九郎政宗 at 2007年03月09日 00:48
つうか中国のモンクは中国に言えばいいのに、
なんで地方議会で吠えまくって
空転させてんの?www この税金泥棒www
電話でそこんとこ聞いてみたいね。
どう考えても屁たれプププ
このチコウ野郎こそ「国益」を蝕む奸物よ。
武士の国にふさわしく腹でも斬ればいいんじゃない?www
Posted by 九郎政宗 at 2007年03月09日 00:51
※「南京大虐殺」をあったことにしたい人々が必死で目をそむけるリンク

グースの掲示版討論集
http://www5e.biglobe.ne.jp/~guuse/

南京大虐殺の虚構
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/index.html
Posted by 南京マン at 2007年03月19日 18:40
「幕府山の捕虜虐殺」がどのように捏造されてきたかと言うと以下のような流れです(主なところ)。

1.昭和36年から37年にかけて福島民友新聞社が「郷土部隊戦記」と言う本の元となる記事を連載しました。本そのものは昭和40年に刊行されるのですが序言を書いているのが防衛庁長官、福田篤泰氏、福島県知事、佐藤善一郎氏、元陸軍中将、両角業作氏(元通産事務次官、良彦氏のご尊父)。この本の中で長々と旧日本陸軍の幹部(両角業作氏、山田栴二氏、畑俊六氏など)が如何に人道的な人間であったか、と書き世に言われるような虐殺は一切なかった、という話を捏造しました。

2.昭和48年に鈴木明氏が「南京大虐殺の”まぼろし”」と言う本を書き、文藝春秋社が大宅壮一ノンフィクション賞を与えました。この本で鈴木氏は「郷土部隊戦記」の記事を引用したり、元将校で後の戦友会会長になる平林貞治氏の証言を追加して捏造記事を書きました。

3.昭和59年になり毎日新聞、福永平和氏と朝日ジャーナル、本多勝一氏が父(栗原利一)の証言を採取し手書きのスケッチ入りで掲載されました。この時に防衛研修所戦史室の森松俊夫氏と原剛氏もほぼ同時に証言や証拠を採取しています。

森松俊夫氏と原剛氏の書簡

http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3953;id=sikousakugo#3962
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3953;id=sikousakugo#3963
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3953;id=sikousakugo#3964
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3953;id=sikousakugo#3965
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3953;id=sikousakugo#3967


4.それ以降、捏造派(戦史室も含めて)は父の話だけは否定しなければならないので家に来たり、手紙のやりとりをしたりしています。父は手帳には全て書き残しているし、手紙は全て残してあるしと言うことでまるで捏造の証拠の山があるような状態になっています。戦史室が捏造派であることの証拠の手紙などもあります。

結論から言うと「南京大虐殺」と言うのは当時の陸軍20万以上が捕虜や市民、約7万人〜10万人弱を数日間で虐殺したという空恐ろしい出来事でそれを日本の保守勢力、防衛庁(戦史室も含む)などがやっきになって潰しにかかっている、と言ったところです。
Posted by 核心 at 2007年03月19日 22:00

核心が無視し続けるBBS

2CH・グースの質問掲示板&ブログ投稿場所
http://8411.teacup.com/minzokuisyou/bbs

この疑問についての返答はまだなの?

(前略)

13500名分の武器・弾薬を焼いたとありますが本当でしょうか?

下士官であられる栗原氏が「命ぜられて」とあることから、また大隊全体が135名
に減衰していたところから、そして「最後尾について」とあることから

・大隊主力は捕虜の護送にあたり
・栗原氏以下一個分隊が13500名の武器・弾薬を焼却

したことになると思います。

そこで私はこのスケッチを見ておかしいなと思ったのですが、

・どうやって焼いたか。ガソリン等を用意していたのか。
 鉄と木の塊である銃は中々燃えるものではないでしょう。マッチを点けたくらいでは。
 (私は職務で環境行政に携わっていますが、そこで絶えず廃掃法等で禁止されている野
  焼きは禁止されている旨を業者、一般人に指導を行っています。ユンボも無い状況で
  一個分隊程度の人数で13500人分武器の野焼きは非現実的だと思います)。

・小銃の弾倉に弾が入った状態で焼却を行うと危険です(焼却による火で暴発する
 から。銃口が人に向いたままで暴発すると言わずもがなでしょう)。故に武器から
 弾が抜けているかを確認することと思いますが、13500人分の武器から弾などの
 暴発、誘爆するものが無いかを確認するのは栗原氏らの一個分隊の能力では不可能
 だと思います(日が暮れるどころではないでしょう)。

・手榴弾、爆薬、弾薬は焼却処分は出来ません。栗原氏のスケッチではキャンプファイヤー
 のように書かれていましたが、手榴弾、弾薬、砲弾、弾薬を火にくべていたら大惨事に
 なって栗原氏ら作業に当たっていた兵は大変な目に会っていたでしょう(焼却炉にガス
 ボンベを火にくべるとどうなるか。勿論その比ではありません)。

・仮に爆発物をどけて武器類を焼却してもその爆発物は残ります。砲弾は別にして
 弾薬、手榴弾類はそのまま残したら作業は片手落ちです。かといってそれらを別に後送
 するのなら銃だけを焼く必要もありません。

・また根本的なことですが、13500名と言えば一個師から二個師弱の人数です。
 それらの武器は戦利品であり焼却する必要性がわかりません。


そこで栗原利一氏(核心氏へ訂正)にお尋ねしたいのですが、貴方はこのスケッチが本当に現実を記していた
と思いますか?私は上で挙げた理由から非現実的であり、どこかの家か建物を燃やした
時と記憶が混同しているのではないかと思いますが?

核心さんは有償でスケッチをCDにデータ化したものを配布されていますが、核心さん
自身がそのスケッチの「その武器類を燃やしたところ」についての信憑性・現実性についてどう思われるかをお聞かせ頂ければと思います。


宜しくお願いいたします。

掲示板に書いてあった内容を引用したものだよ。

無視しないで答えてくださいよ。
Posted by 南京マン at 2007年03月20日 09:30
>つうか中国のモンクは中国に言えばいいのに

中国では言論の自由が保障されていないから
Posted by 南京マン at 2007年03月20日 09:47
なぜ、南京大虐殺が否定され続けるのか?
その理由が分かりました。

グースさんの掲示板で大神さんという方が、随分馬鹿げた質問で私を困らせました。
武器の山は本当は2階建ての家屋だったかもしれない、と言うのです。

ホロコーストのことを考えていて、その理由がわかりました。
アウシュビッツでは殆どの作業はユダヤ人自身で行なっていました。
ドイツ人は最後に薬品を天井のまどから投げてあるくか、そんな作業だけでした。
それに対して南京大虐殺は幕府山の件でも分かるように、まさに人格者、ヒューマニストだった両角業作氏、山田栴二氏、などなどが直接の責任者だったのです。
これはまさに軍隊の否定です。
それゆえ、これほどまでに気ちがいじみた否定が行なわれているのです。
「郷土部隊戦記1」を読めばよく理解できます。
Posted by 核心 at 2007年03月29日 06:17
核心が無視し続ける「随分馬鹿げた質問」を下とされる犬神氏の投稿内容


http://8411.teacup.com/minzokuisyou/bbs?OF=10&BD=15&CH=5

http://8411.teacup.com/minzokuisyou/bbs

引用開始

早速の回答を有り難う御座います。しかしながら残念ながら回答そのものが「スケッチに間違いは無い」を前提にして書かれているためか、明らかにおかしな点があります。

1:補給を絶たれたとありますが、食糧を絶たれたのなら食糧が枯渇するというのは分かりますが、弾薬類に関しては「文字通り最後の一発まで無くなる」と言うのは現実にはありません。
野砲等の重火器を携行していないというのは分かりますが、武装解除後には小銃弾、拳銃弾、手榴弾、軽機関銃弾、(迫撃砲弾)などがあります。

また、石油とありますが、発火点200℃以上の重油は使わないでしょうから、軽油、灯油、軽質ナフサ(ガソリン)のいずれかと思われます。で、それをどのように携行していたのか疑問です。※ジェリカンなどのある現代ではありません。ドラム缶に入ったものは簡単には移せません。携行そのものが困難です。
また携行する理由がありません(灯油ストーブも無く、歩兵大隊に車は無いのでガソリンを必要としない)。

2、立木を並べるとありますが、スケッチを見ると分かるように流れとしては

武装解除(中国兵が各自毎広場などの一箇所に武器を並べる)→焼却

となっています。これに立木を並べて焼却しようとしたら、

立木を並べる→そこに武器を置く(集積された場所から持って来て) ということになるのですが、13500名分の武器を置くということが大変ですし、

そもそも13500名分の武器の重量に立木を並べたものが耐えられるでしょうか?

仮に全部を小銃(4キロと仮定)とした場合、13500×4キロ=55トン となります。軽機関銃、重機関銃、拳銃、とそれぞれ小銃よりも重軽ものがありますが、これに弾帯なども加える or 弾薬も加えるとしたら下手をしたら100トン弱の重さになります。

その場合は並べた立木はその重さに耐えられません。またもっと簡単に分かることですが、小銃を積み重ねた場合、余りの数の多さに並べようとしても崩れます。その場合は立木を並べても意味がありません。

そしてスケッチでは数山に分散したのではなく一山にして燃えています。

また、立木を並べてそこに銃を並べてガソリンで焼却した場合は、高さは余り高くないが横に広く一帯に並べた形態になります。やはりスケッチと食い違います。

また、今回回答を頂きましたが、

@:弾が入っていないか/弾が紛れていないかの点検作業
A:戦果を焼却することの疑問

など(詳しい質問内容は前述していますので再掲は避けますが)については残念ながらお答えいただきませんでした・・。

今回頂いた回答は核心さんが実際に栗原利一氏に尋ねられて得た回答を基にしたものではなく、核心さんの感想を述べられたものだと思いますが、前述のようにやはり栗原利一氏の「武器弾薬焼却」は明らかにおかしなものであると言えます。

よって、栗原利一氏のこの部分のスケッチは「どこかの家を焼いた時のこと」を武装解除後に焼却したものと【記憶違いしていた】ものだと思われますが如何でしょうか?

で、核心 の 返答

引用開始

申し訳ありませんが科学的検証については私の方に事情がありまして
これ以上はお答えできません。
それ以外のことならお答えできます。

爆笑!

これらに対する返答がないのはなぜ?答えてくださいよ。物理的、科学的検証ができないならば核心の述べたものは単なる妄想の域を出ませんよ。
さ、答えなさいな。
Posted by 南京マン at 2007年03月29日 11:50
無視しているのでは無くて知らない、もしくは分からない、が正しいと思います。
私は栗原利一証言について知っているだけで南京事件については殆ど知りません。
父(栗原利一)はそれなりに知っていますし、父を知っている人なら、父のスケッチは(なんせ警視庁34年勤続)父の表現したかったものそのものを表しているということを信じる、ということです。
金鵄会東京都理事小平市支部長でもあった人ですからデタラメを書く必要性も理由も無いと思います。
Posted by 核心 at 2007年03月29日 22:39
核心 氏、貴方は本当に栗原利一氏のお子さんなんですか?

謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著から引用
『栗原氏は自分の意志とは全く逆な報道をされたことに対して、「毎日」に抗議を申し入れた。すなわち栗原氏は、中国側の公式資料集『証言・南京大虐殺』の30万・40万の虐殺に腹を立て、これに反論するため記者に話したのだが、都合のよい部分だけをつまみ食いされ、あのような記事になり、匿名の中傷や悪罵をあびて困っていると抗議したのである。』

とありますが?

ttp://www.history.gr.jp/~nanking/reason06.html
Posted by Prado at 2007年03月30日 12:40
>栗原利一証言について知っているだけで南京事件については殆ど知りません

ということは「「南京大虐殺」と言うのは当時の陸軍20万以上が捕虜や市民、約7万人〜10万人弱を数日間で虐殺したという空恐ろしい出来事」というのはまったく調べもせずに何の根拠もないでたらめな主張したということなのでしょうか?
Posted by 南京マン at 2007年03月30日 13:40
>約7万人

父のスケッチ帳の27と28を参照してください。そこに7万人と書き込まれています。
Posted by 核心 at 2007年03月30日 19:29
> 核心 氏、貴方は本当に栗原利一氏のお子さんなんですか?

本当ですよ。「思考錯誤」の過去ログを読めば納得できるでしょう。
私は去年5月のOFF会で初めて核心さんとお会いしたのですが、
栗原利一さんのスケッチや写真などが入ったCDを頂きました。(その時点ではまだネット未公開でした)
Posted by 鷹嘴 at 2007年03月30日 23:06
>栗原利一さんのスケッチや写真などが入ったCDを頂きました。

それが「実の息子」であるとの証拠になるのかな?CDは今の時代では自作することも可能だし他人から入手することも可能。生の原文もって来たならわかるけどCDだけで断言するには証拠不十分。
Posted by 南京マン at 2007年03月31日 13:03
「7万〜10万人弱を数日間で虐殺した」ってことになっているよ。「7万」なんてどこにも書いていないな。

やっぱり「「南京大虐殺」と言うのは当時の陸軍20万以上が捕虜や市民、約7万人〜10万人弱を数日間で虐殺したという空恐ろしい出来事」というのはまったく調べもせずに何の根拠もないでたらめな主張したということ?

核心さん どうなの?
Posted by 南京マン at 2007年03月31日 13:47
スケッチ帳の28を拡大して見てください。「他部隊と合わせて70000余と言って居られた」と書かれてます。その時その場に居た日本兵はそのように聞かされていたということです。
Posted by 核心 at 2007年04月02日 06:33
>「他部隊と合わせて70000余と言って居られた」と書かれてます。

書かれていますね。でも「70000余」ってっ筋は「7万〜10万人弱を数日間で虐殺した」という根拠に何にもなりませんよ。なんで「7万〜10万人弱を数日間で虐殺した」って結論になるの?ちゃんと証拠出してくださいよ。
Posted by 南京マン at 2007年04月02日 11:52
>南京マンさんへ

ブログで討論しても迷惑かけるだけだからグースで質問してよ。
Posted by 核心 at 2007年04月02日 13:02
>ブログで討論しても迷惑かけるだけだからグースで質問してよ。

ついでだから核心さんところにも投稿しておくよ
Posted by 南京マン at 2007年04月02日 14:53
平林貞治氏の戦友会における活動について手元にある資料でお伝えしておきます。

昭和60年4月28日 連隊合同慰霊祭(祭典副委員長)
昭和61年9月13日 第12回歩65戦没者慰霊祭(祭典委員長、歩65残桜会会長)
平成2年8月31日  第14回歩65慰霊祭(祭典委員長、歩65残桜会会長)

父は昭和61年9月13日に名刺を頂いてます。名刺に日付が記載されています。
戦友会の会長になるような人が虐殺を認めるなんてことを考えること自体が馬鹿げていると思うのですが。
Posted by 核心 at 2007年04月03日 09:18
前回の、プーケット沖を襲った津波の原因になったスマトラ沖地震で、総計でだいたい『30万人』ほどの死者が出たらしいんだよ。
だがその遺体の処理は、遅々として進まなかった。人手不足ということもあるけど、数が膨大すぎるからね。あらかたの作業が済んだのは、それこそ1年以上かかってかららしい。

さてここで問題。南京での犠牲者を30万という数字が出してきているのは、中国共産党。
しかし、その死者数の数字の根拠に関して聞いてみても『政治的な理由』を繰り返すばかりで、事後検証に応じようという姿勢は、中国にはさらさら見られない。
これは普通に考えれば、「歴史的考証」をする姿勢は無い、と考えるのが自然。だいたい、先のそのスマトラ沖地震での遺体の処理で手こずっていたのに、その後南京に30万もの死体を、どうやって戦争中の短期間で埋めたのか?

まぁなぁ。その後の大躍進や文化大革命では、政策の誤りや指導部の権力闘争のせいで、知識人を含めて“数千万人”もの人が餓死・あるいは不慮の死を遂げているような土地だもの。
こちらは、中国の学校では『いっさい』教えてない歴史ですがね。
Posted by ><; at 2007年04月06日 13:44
父(栗原利一)の平成11年の自筆のメモです。

”幕府山砲台占領後第二、三大隊は揚子江左岸に渡り前進したのである。南京市街西方に在る廠舎(軍隊の演習の時使用する)に捕虜兵を収容したのがここまで第一大隊兵全体で百五十人足らずであった。捕虜兵の数は一万三千五百人と言った。大変な数である。捕虜兵は毛布一枚持つのみ。先ずこの兵隊に食べさせなければならない。捕虜に聞くと鳥龍山砲台倉庫に米があることを聞き、馬で輜重隊が運んで来た。戦地の野戦釜で粥を炊いて明くる十三日昼に支那茶碗で一杯づつ与えることができた。わが軍隊にも食べ物がない。こうしたおびただしい人数の命を守るには用意ならない苦心をした。反面、参謀司令部にどう措置すべきか伺いたてながら作戦を練った。捕虜も大便は出さないが小便は出る。廠舎の回りの溝に毛布が落ちて留めた形になってそのところに小便がたまっている。捕虜兵はその小便に顔をつけて飲む者も居る。二日余で粥一杯。十四日夕一同揚子江の中央にある島に移すべく全員後ろ手のまま着剣した兵に守られ右岸の凹地に収容した。君達は向こうにある島に船で送られることを話し聞かせて。我が軍も捕虜とは言え、この兵に戦友たちが殺されたのだと言う憎しみを持っている、敵愾心がいっぱいである。先に到着した者と列の最後とでは三時間の持ち適(?)しさがあった。夕方薄暗さの中、先着した一角で捕虜が反抗して我が将校の軍刀を抜いて殺される事件が起きた(将校一、兵六)。こうなった場合の反抗に備えた機関銃が一斉に火を吹いた。闇の中捕虜が弾に当たらないようにしようと人の上、その人の上に登り高くなる。それが人柱が割れてくずれる。射殺中二度三度そんな光景が見られた。三方から間断なく撃ちまくって殺してしまったのである。次に第二段の措置としてそれに石油を撒いて火をつけた。服は綿服である。僕達も昨夕から食事なしで夜中三時までかかって処置した。次に引き続き柳の枝でかぎを作り揚子江に死体を全部流して証拠を無くしたのである。廠舎に着いて巻脚絆も軍靴も黒く油を塗った形だった。脚絆を取って××(?)したのであった。この時は独立機関銃隊が協力され活躍したのであった。”
Posted by 核心 at 2007年04月13日 08:23
中国共産党が自国民を殺すのは市民戦争の類です。
戊辰戦争や南北戦争と同じ類の話です。
南京大虐殺は日本人が中国人を殺した話です。
Posted by 核心 at 2007年04月23日 07:40
>中国共産党が自国民を殺すのは市民戦争の類

これって毛沢東の見栄と権力争いの副産物じゃない。

大躍進で増産しようとして餓死者続出。んで、その失敗の建て直しをやろうとしたら失敗の追及を恐れて建て直しをやろうとした人を追放しようと文化大革命。市民戦争じゃなく、権力者による執政の巻き添えだよこれ。

それと、

>第一大隊兵全体で百五十人足らずであった。捕虜兵の数は一万三千五百人

っていっているけど、これって「7万〜10万人弱を数日間で虐殺した」って根拠を覆すことになるけどいいの?
Posted by 南京マン at 2007年04月23日 14:50
再び核心が無視し続けるコメント

http://8411.teacup.com/minzokuisyou/bbs?OF=10&BD=15&CH=5

◎最大人員での大隊定員:1,223名(※田山大隊は135名)
・重機関銃(上条件の欠員無し大隊に最大8丁):
 弾頭のみ重量13グラム、装弾数30、連射450発/分、毎時27,000発
・軽機関銃(同・最大27丁。当時は1大隊に10〜12丁のケースが多かった):
 弾頭のみ重量9グラム、装弾数30、連射500発/分、毎時30,000発
・小銃(歩兵の標準装備・最大423丁):
 弾頭のみ重量9グラム、装弾数5、連射5〜60発/分(単発銃)、毎時300〜360発

 ただし、再装填や放熱待機などのため、1時間撃ち放しという事はありえないのでだいたい半分程度と考えます。

重機関銃:13×13500×8(最大配備数)=1,404キログラム
軽機関銃:9×15000×12(当時の最頻数)=1,620キログラム
小銃:9×360×100(100人が射撃参加と仮定)=324キログラム
合計:3,510キログラム
→(再装填・放熱冷却で半減と仮定)→1,674キログラム

 田山大隊135名のみで行なわれたという核心氏の主張に従えば、利一氏を含む大隊全員が一人あたり約12キログラムの弾頭を(箱や装弾プレートを計算に入れればもっと多くなる)保持して虐殺に臨んだという事になるようです。
 まあ、135名で不可能なのは数字上明らかですから……これを可能にするためには、例えば連隊砲中隊からの補給や人員・武装そのものの追加が不可欠だったでしょう。
 それとも、利一氏をはじめ大隊の全兵士が10キロ超の弾薬を背負って捕虜を連行していたのでしょうか? それならば不可能ではないかもしれませんが。
 (ちなみに、当時の兵士一人あたりの1会戦(数ヶ月)での小銃弾薬配備量は300発程。小銃で1時間も連続射撃を続ければ、1回でそれを使い切ってしまう)

 当時の兵器運用上はまあ、こんなところのようです。
 「135人だけで虐殺した」「1時間も撃ち続けた」このどちらかは確実に間違い・記憶違いである……というのはわかるのではないかと。客観的な話のみの範囲で。

参考資料:
「九二式重機関銃」性能表
「十一年式軽機関銃」性能表
「三八式歩兵銃」性能表
Posted by 南京マン at 2007年04月30日 13:47
父(栗原利一)の平成11年の自筆のメモです。読みやすくしました。

”幕府山砲台占領後第二、三大隊は揚子江左岸に渡り前進したのである。
南京市街西方に在る廠舎(軍隊の演習の時使用する)に捕虜兵を収容したのがここまで第一大隊兵全体で百五十人足らずであった。
捕虜兵の数は一万三千五百人と言った。
大変な数である。
捕虜兵は毛布一枚持つのみ。
先ずこの兵隊に食べさせなければならない。
捕虜に聞くと鳥龍山砲台倉庫に米があることを聞き、馬で輜重隊が運んで来た。
戦地の野戦釜で粥を炊いて明くる十三日昼に支那茶碗で一杯づつ与えることができた。
わが軍隊にも食べ物がない。
こうしたおびただしい人数の命を守るには用意ならない苦心をした。
反面、参謀司令部にどう措置すべきか伺いたてながら作戦を練った。
捕虜も大便は出さないが小便は出る。
廠舎の回りの溝に毛布が落ちて留めた形になってそのところに小便がたまっている。
捕虜兵はその小便に顔をつけて飲む者も居る。
二日余で粥一杯。
十四日夕一同揚子江の中央にある島に移すべく全員後ろ手のまま着剣した兵に守られ右岸の凹地に収容した。
君達は向こうにある島に船で送られることを話し聞かせて。
我が軍も捕虜とは言え、この兵に戦友たちが殺されたのだと言う憎しみを持っている、敵愾心がいっぱいである。
先に到着した者と列の最後とでは三時間の持ち適(?)しさがあった。夕方薄暗さの中、先着した一角で捕虜が反抗して我が将校の軍刀を抜いて殺される事件が起きた(将校一、兵六)。
こうなった場合の反抗に備えた機関銃が一斉に火を吹いた。
闇の中捕虜が弾に当たらないようにしようと人の上、その人の上に登り高くなる。
それが人柱が割れてくずれる。
射殺中二度三度そんな光景が見られた。
三方から間断なく撃ちまくって殺してしまったのである。
次に第二段の措置としてそれに石油を撒いて火をつけた。
服は綿服である。
僕達も昨夕から食事なしで夜中三時までかかって処置した。
次に引き続き柳の枝でかぎを作り揚子江に死体を全部流して証拠を無くしたのである。
廠舎に着いて巻脚絆も軍靴も黒く油を塗った形だった。
脚絆を取って××(?)したのであった。この時は独立機関銃隊が協力され活躍したのであった。”

Posted by 核心 at 2007年05月04日 13:04
その当時の日本を実に的確に分析していたトロッキーの「破局に向う日本」を紹介しておきます。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~Trotsky/35/jp-hakyoku.html
Posted by 核心 at 2007年05月04日 13:06
>一斉射撃の瞬間に幕府山の現場に居たのは護送した第一大隊の歩兵中隊と機関銃隊です。

第一大隊の4歩兵中隊と両角業作氏の言及されている2大隊分の機関銃隊です、がより正確です。

まず、父が田山大隊と言っているのは田山大隊の歩兵中隊と考えるのが妥当だと思います。
父の回想録や部隊編成表や「郷土部隊戦記1」を読めば分かりますが、歩兵中隊、輜重隊、機関銃隊、連隊砲隊は通常、戦闘では別行動をとります。
父にとっては護送するのは歩兵に決まっていることなので田山大隊といえば、そこには機関銃隊や連隊砲隊は含まれないのです。
ですから本来なら760名であった歩兵中隊が4中隊で「135名であった」とか「150名くらいであった」とかの表現になるわけです。
(戦友会では中隊会が中心的な会です。これは常識です。多数資料があります。)
この部分は人数は多少ぶれてますが父の記憶は正確だと思います。
頂いた手紙などからも歩兵が一番大変な役割を負わされていたことが分かります。

つぎに機関銃隊ですが父は機関銃中隊とか独立機関銃隊とかの言葉で言及しています。
上述したように機関銃隊は第一大隊(広義の田山大隊)には含まれますが、指揮系統が全く違うため父がその行動を把握していることは無かったと思います。
「郷土部隊戦記1」には両角業作氏が「護衛のために」2大隊分の機関銃隊を手配した、となっています。
私も父との会話などから、最終的に「郷土部隊戦記1」を読んで両角業作氏が手配したということが分かったのです。
Posted by 核心 at 2007年05月04日 13:08
父のスケッチ帳の元になるものは昭和13年から14年の負傷による入院時に描かれています。
それを昭和36年に清書したものがネットで公開されています。
説明を省きますが、父は自分の記憶に基づいて描いたものです。
Posted by 核心 at 2007年05月04日 13:35
私(核心こと利秀)が栗原利一の三男であることは小平市警察署で確認できます。
昨年、父の満州事変記念アルバムと支那事変記念アルバムから複数の写真が、スケッチ帳から南京市街図が、CD化を依頼した某社で破り取られたときに散々お世話になっていますから。
Posted by 核心 at 2007年05月04日 13:44
日本人が南京大虐殺を理解できないのは戦史室などによる捏造にも原因がありますが、その頃の日本の客観的な状況を教育されていないことも原因です。1933年、満州事変の直後に書かれたトロッキーの「破局に向う日本」を読んで頂ければよく理解できます。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~Trotsky/35/jp-hakyoku.html
Posted by 核心 at 2007年05月05日 11:50
核心がまたまた無視し続けるコメント

「核心氏の主張」
1.17日の虐殺現場には田山大隊の歩兵中隊4個、及びどこかの機関銃中隊2個がいた
2.捕虜と歩兵隊が到着する前に、機関銃中隊は配置を終えていた
3.利一氏の中隊は射撃に加わらず、監視のみだった
4.1時間の射撃の後、真っ暗な中で生き残りを捜し殺害していった
5.翌日(18日)にガソリンを使って死体を焼却し、川へ流した。作業は19日まで続いた

 まず1。
 全体損耗率3%の状況で、定員776名の4個歩兵中隊が135人というのは(仮に半数が交代で休息していたりしても)あり得ない数字です。
 予測ですが、利一氏は自分の所属中隊(第2、定員194)のみをカウントしていたのではないか? 同じ田山大隊の歩兵隊からも一部は南京入場式へ参加したり、負傷などで休養していた兵士もいたようなのでこれならつじつまが合います。
 過去に核心氏の言っていた「現場にいたのは田山大隊のみ」は単なる核心氏の勘違い、ということで決着でよいでしょう。
 また、虐殺全肯定派のよく使う論法(「135人しかいないのに利一氏が撃っていないのはおかしい、「撃ってない」は捏造だ」説)もこれで誤りとなり、ひとまず決着かと思います。

 次に2。
 普通に考えて、「護衛のため」に送った部隊が捕虜連行の終着点にしか配置されないという理屈があるのか? 道中の護衛なら歩兵隊の増員で事足りる。
 逆に処刑が既定路線だった(=処刑のための配備だった)とするなら、正午頃から日が暮れて将校が殺害されるまでの間、捕虜を放置しておくものだろうか? 殺害方針が既定であれば、もっと確実かつ隠滅に適した手順があったはずである。

 次に3。
 これは単なる本多勝一の願望込み、捏造ということで解決済み。
 全国規模で捕虜殺害の当事者にされてしまった利一氏には、本多への怒りとともに同情を禁じ得ない。

 そして4。
 捕虜殺害につき、既定説をとるにしろアクシデント説をとるにしろ、野球場ほどの広さの真っ暗闇の中で的確・正確に作業できるとはにわかに信じがたいところである。
 まして暗闇の中では火器も使えない。利一氏も発砲があったとは記述していないので、この時点で逃げられた数も相当であっただろう。

 最後に5。
 弾薬もそうだが、一体どこからそれだけの物資の使用許可を得たのだろう。
 当時は機械化部隊さえ稀少(=ガソリンどころの騒ぎではない)、補給に至っては一会戦で小銃の弾丸50〜70発/人という有様(上海〜南京戦での第114師団)。
 例外的に第65連隊だけは物資・弾薬とも豊富で補給も湯水のごとく自由だったのだろうか?


 追記。

>>本多勝一の記述は栗原証言を正確に記している
>私はそうは言っていません。

 では、

>究極的な捏造は『護送だけだったのに小銃で撃ったように書いてある』でしょう。これはありえません。

  畠中秀夫氏のインタビュー記事を批判する貴方のこの発言は撤回していただける、という事でよろしいですね。
 また一つ事実関係が明らかになったということで、ありがたい限りです。

http://8411.teacup.com/minzokuisyou/bbs?OF=0&BD=15&CH=5
Posted by 南京マン at 2007年05月05日 12:48
>核心 氏、貴方は本当に栗原利一氏のお子さんなんですか?
>謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著から引用

ああ、田中正明が根拠ですか。
Posted by ほっけ at 2007年05月06日 00:01
『台湾でも、東中野先生の本は翻訳されているのか?』

 金美齢さんは、南京事件を否定しているし、
 台湾の高校の新しい教科書では、南京事件の記述を減らしたりしているようなので
 さぞや、台湾でも
 東中野先生の『南京事件「証拠写真」を検証する』の
 翻訳本が話題を呼んで、
 文壇やネット上で
 白熱した論争がまき起こり、その世論の圧力が
 教科書の 南京の記述を減らしたりしたのかと想像したので
 台湾のネット上から、その白熱した議論の様子を調べてみようと考えました。

 ( もし台湾でも東中野先生の
  『南京事件「証拠写真」を検証する』
  という本が翻訳されて、出版されていれば
  台湾のネット上(中国語(繁体))でも当然話題になっている可能性が高いと思われます。)

 結論から言えば、台湾のネット上ではまったく東中野先生のこの本は話題になっていないみたいなので
 (拍子抜け・・・、一応検索ツールのそれぞれ10ページ分まで調べてみましたが...)
 (検索日時2007年4月17日)
 おそらく、この時点では翻訳されている可能性は低いと思われます...


  詳細は以下のサイトから

   http://adon-k.seesaa.net/article/33475443.html
    ADON-K@戯れ言
Posted by 寅さんネコ at 2007年05月07日 14:46
栗原証言の生みの親

なぜ、うちの父が毎日新聞に最初に話をしたかと言うと、戦史室の方から昭和44年頃、父に葉書があり、「満州事変の調査ではご協力頂きありがとうございました。今度は支那事変の調査にとりかかる予定です。ご協力をお願い致します。」みたいな文面でした。見かけたらお知らせします。
 それ以来、父は多少本を取り寄せながら時機を見計らっていたようなんです。その意味では栗原証言の生みの親は戦史室のようなものです。
 阿羅氏によると「乗せられた、乗せられた。」と言ったそうですが(勿論、嘘です。)本多氏の取材の2日前に散々インタビューして乗せまくっておいたのは、これまた戦史室の方です。
 それで責任を感じて日本「南京」学会で歴史の捏造に協力されているのでしょう。とてもよく分かる話です。

Posted by 核心 at 2007年05月08日 10:14
日本「南京」学会様

バレバレで歴史の捏造ご苦労さん!
Posted by 核心 at 2007年05月08日 10:29
日本に憲法9条があるのは「南京大虐殺」のおかげです。
どこの国も正規の軍隊が、軍の組織として「武装放棄して大量投降した捕虜の大虐殺」などと言う愚行は行なっていません。
これからは悪いことはしません、と言うのが9条なのです。
Posted by 核心 at 2007年05月08日 18:16
南京大虐殺は日本軍の組織的犯行(1)

私の今のところの考えでは南京事件の真相は、旧日本軍による市内の掃討等が行なわれ、
約7万人の捕虜を確保し、軍指導部の指揮の下、組織的に何箇所かで処分(=虐殺)した、
というのが第一段階で、
つぎに処分された捕虜には南京警察が二千人含まれていたことや、日本の憲兵が少なかったことから、
南京市内では日本兵による強姦、略奪、殺人が横行した、と言うのが次の段階の話だと思います。
勿論、二つの出来事の間には明確な時間的隔たりがあるわけではありません。
このうち、大量に中国人が殺害されたのは軍指導部の指揮による捕虜虐殺のほうだと思います。

なぜ、軍指導部が組織的に係ったことが推測されるかと言うと、第6師団第13連隊のK氏の証言からです。
以下は、昭和59年8月15日の毎日新聞に実名で報道された記事です。
Posted by 核心 at 2007年05月18日 16:47
南京大虐殺は日本軍の組織的犯行(2)

”早朝、出発準備をしていたKさんに、揚子江近くの小高い山に機関銃を据えつけるよう命令が下った。
不審に思いながらも山上に重機関銃を据えつけると、ふもとのくぼ地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。
そこに、突然、「撃て」の命令。
機関銃が一斉に乱射された。
「距離は7−8百メートル。
アリぐらいにしか見えない中国兵がクモの子を散らすような騒ぎになり、まるで地獄を見ているようでした。
血柱がシューッと上がるのも、はっきりと分かりました。」
機関銃は約50メートルの間隔で並び「30丁はあった」という。
乱射は1−2時間続き、Kさんらはそのまま蕪湖に出発。
「なぜ捕虜を殺したのか、遺体をどう処理したのか、他のどの隊が虐殺に加わったのか、私たち兵隊は何も聞かされてなかった。」

...の告発が報道され、これがきっかけでKさんは「二度と悲惨な戦争を起こさないために」と告白を決意。
「戦争だから、向って来る敵と戦うのは仕方ないが、無抵抗の捕虜に銃弾をあびせたあと味の悪さは終生ついてまわります」と話している。”

K氏の場合は父と違い、負傷して入院したとか、その間に資料をまとめた、とかの事情は見受けられません。
したがって父ほどには、鮮明な記憶はなかったのだと思います。
それで以下のような文面の葉書をよこされたのだと思います。

”...あの山に登 重機関銃で射撃致した一兵でございます。
又後日詳しいことはお知らせします。”
Posted by 核心 at 2007年05月18日 16:50
南京大虐殺は日本軍の組織的犯行(3)

K氏の話は早朝であり、父の話は薄暮時です。
K氏は第6師団第13連隊、父は第13師団第103旅団第65連隊です。
指揮系統が全く違い、違う現場の話なのだと思います。
では、父の話は別の師団の話なのに、なぜK氏が思い違いをしたか。
それは、K氏が思い違いを起こすほど、それほど状況が似ていたのだと思います。
つまり「事前に(捕虜から見えない場所に)銃機関銃を配置し、下方の開けた場所に捕虜を誘導し、乱射して(第一段階として)射殺した。」という状況があまりに似ていたため同じ現場の話だと思い違いしたのだと思います。

では、なぜ師団が別なのに捕虜の殺害(=処分)方法に強い共通性が見られるのか。
結論から言えば、師団をまたがって捕虜の処分(=殺害)方法が打ち合わせられた、ということだと思います。
つまり、南京攻略戦に参加した軍指導部及び軍指揮官は捕虜の処分について事前に打ち合わせを行い、違法性を認識しつつ捕虜の処分(=殺害)を行ったということだと思います。

私は軍の指揮系統や組織については未だ詳しくありませんが、南京攻略戦に参加した旧将校は共通の認識の下でこれらの処分(=殺害)を行ったのだと思います。
K氏の「血柱」や父の「人柱」の表現で分かるようにそれらは一つ一つの現場をとっても大虐殺という名称がふさわしいものだったのだと思います。
Posted by 核心 at 2007年05月18日 16:50
日本人はなんとまあナイーブ(うぶ)な国民性の持ち主!

「南京大虐殺の研究」をほぼ読み終わるところなのですが。
他のブログにも書いたことなので。

私は今まで父(栗原利一)の証言が捏造派の方たちに捏造されてきた、ということを書いてきたのですが。
ここで南京大虐殺関係の本を読み始めたところです。

「南京大虐殺の研究」によると南京大虐殺というのは蒋介石の軍事的失敗により日本軍が10万人以上の捕虜を得て、ことごとく虐殺してしまった、というのが中核のようなのですが。
もし日本軍が同じように軍事的失敗により、10万人以上が蒋介石軍の捕虜になっていたら蒋介石軍は日本軍捕虜を解放していたでしょうか?
そんなことは考えられないでしょう。

私は捏造派の方たちがこの程度の話をなぜムキになって否定し続けるのか判りません。
多分、とてもナイーブな方たちなのでしょう。
Posted by 核心 at 2007年06月05日 23:14
南京大虐殺の真犯人は南京攻略戦に参加した日本陸軍の高級将校たちでした。

1.まず、南京大虐殺はあった。しかも当時の日本軍指導者の相当数が係らなければ出来ないような規模であった。

2.南京事件に関係して死刑となったものは松井石根氏、谷寿夫氏、野田毅氏、向井敏明氏。
どうもこの人達は大虐殺の真犯人ではないように思います。
この人達は真犯人のスケープゴートにされたような印象です。
そして真犯人は大虐殺を「共同で計画し、指示し、かつ戦後隠蔽工作をした」当時の日本陸軍の高級将校たちだったのだと思います。
Posted by 核心 at 2007年06月15日 08:22
< 早速このチンカス野郎の後援会に電話してみた。

あなたは、どこの国の人ですか。
「チンカス野郎」などという言葉は、日本で使われていません。
Posted by 佐藤 輝雄 at 2007年07月01日 15:29
なぜ南京大虐殺論争が今も続いているのか?

それは70年前に日本陸軍将校がついた嘘を今も頑なに守り続けようとする人達がいるからです。

1.南京大虐殺について部外者で最初に気づいた日本人は洞富雄氏のようです。
彼は早稲田大学卒で当時31歳です。
その著作の中で次のように話しています。
新聞に捕虜を捕獲したと言うニューズが続き、捕虜の総数が7万人を越えるころになり、松井石根の入城式のあと、遺棄死体数が7万という話になっていた。
それで、また陸軍がおかしいことをやったな、と気づいた、ということです。

2.自衛発砲説(逆襲説)は70年前に部外者に虐殺の現場を見られた時の陸軍将校の言い逃れのための理由です。

3.この嘘が防衛研修所戦史室、偕行社、日本「南京」学会(=新しい歴史教科書を作る会)に引き継がれ大々的に宣伝されています。

4.管理人さんもご存知の通り、私は昨年、某社で親父の従軍記念アルバムから部隊編成写真を数枚、スケッチ帳から南京市街図を破りとられています。
そのあとで終戦時陸軍少佐で元戦史室勤務で現在、日本「学会」所属の森松俊夫氏(86歳)に二度、電話で嘘をつかれています。
某社での盗難も彼などの指示によるもののようです。

5.戦前の日本(天皇主権国家)に、より価値を見出す人はすべてこの嘘を守り続けようとし続けてきています。
彼らは今も70年前の日本陸軍の虐殺の言い逃れ理由を「南京の真実」として日本国民にPRし続けているのです。

それだけの話です。
Posted by 核心 at 2007年07月06日 18:16
なぜ南京大虐殺論争が今も続いているのか?

それは70年前に日本陸軍将校がついた嘘を今も頑なに守り続けようとする人達がいるからです。

1.南京大虐殺について部外者で最初に気づいた日本人は洞富雄氏のようです。
彼は早稲田大学卒で当時31歳です。
その著作の中で次のように話しています。
新聞に捕虜を捕獲したと言うニューズが続き、捕虜の総数が7万人を越えるころになり、松井石根の入城式のあと、遺棄死体数が7万という話になっていた。
それで、また陸軍がおかしいことをやったな、と気づいた、ということです。

2.自衛発砲説(逆襲説)は70年前に部外者に虐殺の現場を見られた時の陸軍将校の言い逃れのための理由です。

3.この嘘が防衛研修所戦史室、偕行社、日本「南京」学会(=新しい歴史教科書を作る会)に引き継がれ大々的に宣伝されています。

4.管理人さんもご存知の通り、私は昨年、某社で親父の従軍記念アルバムから部隊編成写真を数枚、スケッチ帳から南京市街図を破りとられています。
そのあとで終戦時陸軍少佐で元戦史室勤務で現在、日本「学会」所属の森松俊夫氏(86歳)に二度、電話で嘘をつかれています。
某社での盗難も彼などの指示によるもののようです。

5.戦前の日本(天皇主権国家)に、より価値を見出す人はすべてこの嘘を守り続けようとし続けてきています。
彼らは今も70年前の日本陸軍の虐殺の言い逃れ理由を「南京の真実」として日本国民にPRし続けているのです。

それだけの話です。
Posted by かくしん at 2007年07月06日 18:17
南京の歴史捏造の張本人たち

南京大虐殺を否定したり、矮小化している張本人たちが判りました。
防衛省防衛研究所戦史部です。
前身は防衛庁防衛研究所戦史室と言ったのですが、彼らが編纂した戦史が「戦史叢書」です。
戦前の旧陸軍将校たちの集まりである偕行社が編纂したのが「南京戦史」です。
両書とも南京の歴史捏造本です。
戦史室では自衛隊が出来たときに旧将校たちが巣食って歴史を捏造しまくったようです。
彼らはまた、日本南京学会、南京の真実を検証する会、しいては新しい歴史教科書を作る会や英霊に応える会につながっています。
国費を使って歴史の捏造です。
頭の中が「天皇主権国家」から「国民主権国家」に切り替えられないでいるようです。
Posted by 核心 at 2007年10月26日 14:34
私の予想したとおり防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ていました。

以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
この戦史部OBで終戦時少佐のM.T氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。

防衛研修所戦史室の源流

...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。

一方、「服部グループ」は、史料整理部を中心にして、「大東亜戦史」の編纂にも、大きな力を注いだ。
この点について、二代目の戦史室長をつとめた島貫武治は、次のように書いている。

 史料整理部の陣容は俊秀をもって当てられ、服部卓四郎、...大佐、 ...少佐等で、 わが国においても政府による正統の大東亜戦争史を編さんすべきであるとの願望を抱き、
 史料の収集整理に努めるとともに、昭和二十八年には大東亜戦争全史四巻を世に発表した。

...著者は服部卓四郎となっているが、「実際は各戦域の作戦参謀級の幕僚が、分担執筆し、稲葉正夫(四二期、終戦時陸軍省軍務局軍事課員、中佐)がまとめたもの」であり、服部周辺の旧幕僚将校による合作だった。
そして、「後にこの整理部から多くの人が、貴重な史料とともに戦史室に転用され」、戦史室の中心を、これらの旧幕僚将校が占めるようになったのである。

...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
Posted by 核心 at 2009年04月21日 18:46
I actually do such as the way you’ve presented this specific issue and it in addition does indeed provide me personally lots of fodder intended for thing to consider.
Posted by cheap Toms shoes at 2013年07月14日 17:43
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「てきせつゝゝゝ23回」
Excerpt: 如何にもというと、どう考えてみても明らかにXXだと繋がる。 殆んどの人が「如何にもとXXだ」と思っているだろう御人が、松岡農水大臣でありましょう。(笑)
Weblog: 酔語酔吟 夢がたり
Tracked: 2007-03-08 19:38

政府による拷問、臓器売買等の証拠ビデオ〜生きたまま摘出、移植
Excerpt: 以下にいくつかのビデオを載せますが、どれも短いものなのでぜひ全てご覧ください。 そして、日本のメディアで報道されることのない その実態を知ってください! ↑実際に拷問を受けた人の証言、訴え..
Weblog: 4つの目で世の中を考える
Tracked: 2007-03-08 22:48