2013年07月01日

2013年6月30日&7月1日 花岡慰霊式

 6月30日から秋田県大館市を訪れて花岡事件の慰霊式やフィールドワークに参加したことを書く。


 前に書いたように寝台列車でJR大館駅に到着したのが8時半ごろ、時間があまりないので贅沢にもタクシーで大館労働福祉会館に向かった(大館駅は、市役所やバスターミナルなどがある市の中心部からかなり離れている。歩くと40分くらい?)。参加費用1000円(昼食付き)を支払い、貸切バスに分乗して十瀬野公園墓地に到着した。大館市は毎年ここで慰霊式を行っている。

 戦時中、花岡鉱山の災害対策に伴う河川改修工事などを鹿島組(現在の鹿島建設)が受注し、強制連行された中国人が送り込まれた。鹿島組は中国人にまともな食事を与えず、激しい虐待を行いながら酷使していたので、連日犠牲者が出ていた。これに耐えられなくなった中国人たちは1945年6月30日(異説あり)の夜に蜂起し脱走したが、捕えられ虐殺された。市内の共楽館前広場では中国人が数日間縛り上げられていた。炎天下だが水も満足に与えられなかったという。
 戦後、鹿島建設に対して損害賠償訴訟が行われ、東京高裁で「和解」が成立し鹿島建設は5億円の信託金を支払ったが、受難者への謝罪は無かった。しかもこの「和解」では奇妙なことに、原告である受難者らが鹿島に法的責任は無いと認めたことになっている。弁護団は受難者へ説明せずに交渉を進めていたのだ。しかも鹿島は和解成立について、他人事のようなコメントをしている。つまりは加害者である鹿島の法的責任は問えず、謝罪も行われないままこの訴訟は終結してしまったのだ。原告団長である耿諄さんは怒りのあまり昏倒したという。
 このような無残な顛末は関係者によって正当化されている。現地にある花岡平和記念館を訪れても、和解を巡るトラブルについては一切の言及が無い。労工大隊長という、特別扱いを受けることが可能な立場にありながら同胞と共に決起し、戦後は訴訟を闘った耿諄さんは、2012年8月27日に河南省の自宅で逝去した(満97歳)。

 「中国人殉難者慰霊式」は10時20分から開始した。例年通りに、受難者の遺族の方々、大館市長、大館市議、秋田県議、中国大使館員、地元の団体やJR東労組などが参加した。
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 今年も数百人は集まっていたが、受難者の方々は誰も参加していなかった(高齢のため不可能だろう)。毎年のように(我々のような個人参加者も含めた)参加者が一人ずつ献花し、遺族の方々は紙を燃やして(中国の習慣)、異国の地で非業の死を遂げた父あるいは祖父を想い、号泣していた。
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 ところで大館市長の式辞の中に、「戦時中という異常な状況とは言え・・・」という部分には違和感を受けた。「異常な状況」であろうとなかろうと、許されないのは言うまでもない。「戦争中であったが、強制連行は行ってはならなかった」・・・とでも言いたいのだろうか。そもそも侵略戦争こそが、決して行ってはならないことではないのか。日本帝国主義は侵略戦争の遂行のため、朝鮮や中国で強制連行を行い、「慰安所」という集団強姦制度を設け、抗日組織に協力していると疑った村々を焼き払い虐殺したのではないのか。市長の言葉には侵略戦争に対する反省が感じられなかった。

 そして例年通り鳥潟会館に移動し昼食。午後からは花岡平和記念館、信正寺の裏手の華人死没者追善供養塔、第二滝ノ沢ダムと日中不再戦友好碑、滝ノ沢暗渠跡、共楽館跡を巡った。
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 受難者が改修工事に動員された花岡川。東側に花岡平和記念館、西側に信正寺。目と鼻の先
 なお花岡平和記念館の展示内容に目新しいものは無かったが、開館から5年を目処にリニューアルを計画しているという。

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 鹿島組は、中国人犠牲者の遺体を火葬もせずに穴を掘って埋めただけだったが(言うまでもなくその作業は中国人に行わせていた)、戦後はGHQに指示されて遺骨を掘り起し火葬し、信正寺に預けた。
 後に日本各地で中国人強制連行被害者の遺骨問題が表面化し、かつ中華人民共和国の成立によって国際的な非難を恐れた鹿島は、信正寺の裏に納骨堂を造り、「華人死没者追善供養塔」を設置した。山野に放置されたままの遺骨も「一鍬奉仕活動」によって発掘され、そして遺骨送還運動が行われ、花岡の受難者の遺骨は中国に返還された。
 写真手前に見えるのは2001年6月に造られた「中国人殉難者供養塔」、奥に見えるのが1949年11月に造られた「華人死没者追善供養塔」。どちらも鹿島によるもの。鹿島は1949年の供養塔は撤去を考えていたそうだが、地元諸団体が反対し、残されたという。

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 第二滝ノ沢ダム(鉱滓ダム)の堤防にて。貯水のためのダムではなく鉱山で出た土砂を棄てるためのダムだったが、写真のようにほとんど埋まっている。この土砂の下に、受難者らが住んでいた中山寮があった。

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 日中不再戦友好碑

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 滝沢第二ダムより奥にある、滝沢第一ダムの暗渠(トンネル排水路)。土砂を棄てるためのダムだったので決壊防止のため水を抜く水路が必要だった。花岡へ連行された中国人は、花岡川改修工事より先にこの水路工事に動員されたという

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 共楽館址の碑。蜂起の翌日捕えられた受難者は、ここ共楽館の前で数日間縛りつけられ晒し者にされた。現在は体育館が建っている

 翌日は同志の皆さんと合流し、石飛仁さんの研究グループが毎年信正寺で行っている「七月一日『花岡事件』慰霊式」に参加した。石飛さんのグループは、花岡蜂起発生は7月1日だと指摘しているので、慰霊式も例年7月1日に行っている。
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・・・花岡蜂起が起こった日は、(1945年)6月30日説と7月1日説がある。
 以前にも言及したが、耿諄さんの「訊問調書」では、蜂起が7月1日となっている。鹿島組花岡出張所が外務省に提出した「事業場報告書」も同上である。
 しかし(岩波新書「中国人強制連行」P-78〜79から引用)、大館の気象観測所の記録によると6月30日、7月1日とも降水量ゼロ、7月2日は降水量14.5ミリとなっている。蜂起の翌日に捕らえられた中国人らは「すべての人が、逃亡後翌日(つまり7月1日)に捕まって連れ戻された時は炎天下だったと証言し、誰一人として雨が降ったと語る人はいない」という。もし蜂起が7月1日の夜だったとしたら、翌日は炎天下だったという証言と食い違う。気象記録によると2日は降水記録があるからだ。
 しかも鹿島組の報告書では、殺害された4人の補導員は6月30日付けをもって退職しており「二〇・七・一騒擾事件により殺害さる」としている。退職した人間が翌日も職場にいたというのか?あまりにも不自然だ。
 これについては、「日本の官憲は、花岡蜂起は単なる捕虜の決起ではなく日本を敗戦に追い込むための工作活動だったと決めつけるため、鹿島職員ではなく一般人を殺したように見せかけ、国防保安法を適用しようとした」・・・という考察もある。実際に官憲は当初花岡蜂起を「国防保安法第16条第2項適用の戦時騒擾殺人事件等被疑事件」として扱った。7月11日の耿諄さんの尋問調書では、あたかも耿諄さんが日本を敗戦させるために蜂起した如く記されている(過去ログ参考)。もちろん日本の警察の"十八番″である偽造に過ぎないが。
 中国人らが日本軍によって強制連行されたことも鹿島組に虐待されていたことも覆い隠し、彼らの蜂起は軍事目的だったとでっち上げ、厳罰を与えようとしたのだ。許せないことだ。

 しかし初期の段階から受難者の名誉回復のために活動してきた石飛仁さんの研究グループは、蜂起発生は7月1日だったと断じている。耿諄さんら指導者に対する裁判記録では蜂起は7月1日だったと断定していることが動かぬ根拠だという。それに事件後の気象記録についても、注意して読むべきだという。
 この件について、ある知人の研究者が秋田地方気象台に、当時の大館観測所「月表」原簿の確認を求めたところ、次のような記録だったという。
 6月 30日  ゼロ
 7月 1日  ゼロ
 7月 2日  14.5mm
 7月 3日  0.2mm

 このデータを眺める限りでは、7月2日に降雨の記録があるから、7月1日説は「事件の翌日は炎天下だった」という証言と食い違うように思える。
 しかし「花岡事件 鹿島交渉の軌跡」(石飛仁/著、金子博文/解説、彩流社)によると、2日の降雨量はその日の夜中12時までに降った雨の量とは言えない、というのだ。
 このP-403によると、昭和18年(1943年)12月5日中央気象台発行の「気象観測指針(区内気象観測法)」には「降水量及び積雪の観測」として、
 「降水量の観測は一0時に行ふ。その量は前日の一0以後降り溜ったものであるが、整理上之を前日の降水量とする」
 と定められているというのだ。
 つまり当時の降水量記録は、朝10時から翌日朝10時までの降水量を一日に降水量としていた。7月2日なら、7月2日の朝10時から3日の朝10時までの24時間の降水量を、7月2日の降水量として記録されることになる。かつ、秋田地方気象台の担当者によると、この4日間の降雨は3日の午前中だけだったという。

 また、同様に知人が問い合わせた秋田測候所のデータによると、3日の午前6時から昼12時までに6.4mmの降雨記録があるという。大館も同じような天気だったとしたら、3日の午前10時までの降雨量は2日の降雨量として記録されるだろう。
 だから2日の日中は晴れていても夜から3日の朝10時までに降雨があったとすれば、7月1日説は「翌日は炎天下だった」という証言と食い違うことはない。
 もっともこの「花岡事件 鹿島交渉の軌跡」も、共楽館前に縛りつけられた受難者の「二日目の午後に雨が降り、その雨で私たちは助かりました」という受難者の証言を引用している(1996年6月29日秋田魁新聞)。これが事実だとしたら6月30日説の方が有力だろう。
 この問題については俺なんぞに結論は出せないが、蜂起の日が6月30日であろうと7月1日であろうと、日本帝国主義によって中国人が強制連行され、重労働を課せられ、虐待され虐殺され、ついに蜂起に立ち上がった・・・という事実に変わりはない(受け売り)。

 この日、まず信正寺裏手の供養塔に献花した。すぐそばに石飛さんが建てた「中国人殉難者供養塔保存改修の記」がある(この写真のみ2010年に撮影)。

 これには「昭和20年7月1日の夜、飢えと虐待に抗して一斉に蜂起し・・・」という文言があるが、「7月1日」の部分にほとんど気付かない程度だがカッターで切ったような傷がある。花岡を訪れたのは3回目だが指摘されるまで気付かなかった。設置後すぐに傷をつけられたという。

 そして寺に戻り慰霊式が行われた。石飛仁さんは事情のため参加できなかったが、石飛さんと共に活動してきた方々が、活動の経緯や受難者の方々との思い出を語り、我々もこれまでの活動内容と花岡事件・和解についての想いを語った。まあ俺自身は語れるようなことはほとんど無いけど、何となく喋った。

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 そして、ちょっと時間が早かったが花岡川の中州に419本(生きて故郷に還れなかった受難者の人数と同じ)のロウソクを立て、亡くなった方々の冥福を祈った。チャッカマンで点火した419個のロウソクの炎が、夕闇の中で風に吹かれて静かに揺れていた。

 そして我々は22時の夜行バスで花岡を後にした。毎年というのはお金の面で厳しいが、そのうちまた花岡を訪れてみたいと思う。

posted by 鷹嘴 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 花岡事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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