【追記のお知らせ 2017年4月9日】
 記事「【5月7日】雁屋哲さんの講演+井戸川克隆さんと対談」に、「美味しんぼ『鼻血問題』に答える」から福島現地での鼻血の症状についての報告例を引用しました

2007年04月05日

日本社会の「仮構性」がもたらした水俣病事件

昨年、水俣病に関する投稿をパート1まで書き、さらにタイトル変えて補償問題についても書いた。
一年近くたってしまったが、さらに2件ほど水俣病について書く。

まずは2006年3月13日朝日新聞の特集記事「苦悩と矛盾 裁判に」より引用。
熊本県水俣市の対岸の離島の御所浦町に住む山崎和秋さん(57)の半生が紹介されている。この人の写真が掲載されているが、一見年齢の割に老けて見えるが逞しい漁師さんか大工の親方・・・というような風貌。しかし水俣病の症状のため両手の指や手首は内側によじれ、足と背も曲がり、歩行も困難であり言葉も不自由。7歳のとき身体障害者1級の手帳を交付された。小学校には数日通っただけで、現在でもほとんど外出をしない。弟の通治さん(53)によると、ここ10年で症状が悪化しているという。

「網元の家に生まれ、毎日のように魚を食べて育った。亡くなった両親も(弟の)通治さんも、家族全員に手足のしびれなど水俣病特有の症状があった。だが、差別や偏見を恐れ、誰も認定申請をしてこなかった」。
通治さんは「家に水俣病患者がいると、周りから後ろ指をさされる。島の生活の中で、どれだけつらいことだったか」と語る。

驚くべきことにこの山崎和秋さんが水俣病として認定されたのは2005年だった。関西訴訟の最高裁判決の後、「自分たちが年をとったら兄の世話はどうすればいいのか」と悩み始めていた弟の通治さんが認定申請を決断し、兄にも検診を受けてもらったところ、四肢の重度の感覚障害・視野狭窄・聴力障害など、行政の認定基準に該当する症状が認められたのである。

水俣病不知火患者会・会長であり同会による水俣病訴訟の原告団長の大石利生さんは、2005年12月26日の口頭弁論終了後の記者会見で和秋さんについて「その人の歩く姿や表情は、私が1961年ごろ病院で見た劇症型の患者さんそのものでした」と語り声を詰まらせた。和秋さんもこの裁判の原告に加わった。
「あんたみたいな人がいることを世間に知ってもらわんと水俣病の患者は救われんとたい。きつかばってん頑張っていけよ」と大石さんに激励され、和秋さんは「ふふ」と笑うだけだった。(こちらも参考のこと)

山崎さん一家は地域での差別を恐れて長い沈黙を続けてきた。水俣病への無理解を放置し、患者救済に消極的で、国家としての責任を曖昧にしてきた日本政府の態度も、これを助長していたと考える。
このような水俣病という恐ろしい人災を起こしたにもかかわらず、日本政府は責任を認めず患者を見捨てようとした。それは、自民党政権を批判し続けてきたはずの日本社会党から首相を選出し1994年に誕生した内閣も変わるところはなかった。

1995年12月15日、当時の首相の村山富市は、水俣病の「政治解決」のために「水俣病問題の解決に当たっての談話」を発表した。以下は「水俣病事件四十年」(宮澤信雄/著、葦書房)より引用。
「公害の原点とも言うべき水俣病問題が発生から40年を経て、多くの方々のご努力により今般、当事者間で合意が成立し、解決を見ることができた。水俣病問題については、既に解決をみている公害健康被害の補償等に関する法律による認定患者の方々の補償問題とは別に、認定を受けられない方々の救済に関して今日に至るまで未解決の問題が残されてきた。
私はこの問題の早期解決のため、与党、地元自治体とも緊密な連携を取りつつ、誠心誠意努力してきた。重い歴史を背負いながらも苦渋の決断をされた各団体の方々をはじめ、この間の関係者の努力に心から敬意を表したい。
解決に当たり、私は苦しみと無念の思いの中で亡くなられた方々に深い哀悼の念をささげるとともに、多年にわたり筆舌に尽くしがたい苦悩を強いられてきた多くの方々の癒しがたい心情を思う時、誠に申し訳ないという気持ちでいっぱいだ。
水俣病問題は深刻な健康被害をもたらしたばかりでなく、地域住民の絆が損なわれるなど、広範かつ甚大な影響を地域社会に及ぼした。
私はこの解決を契機として、水俣病関係地域の方々が一日も早く、ともに手を取り合って心豊かに暮らすことができる地域社会が築かれるよう心から願う。
今、水俣病問題の発生から今日までを振り返る時、政府としてはその時々においてできる限りの努力をしてきたと考えるが、新潟での第二の水俣病の発生を含め、水俣病の原因の確定や企業に対する的確な対応をするまでに結果として長期間を要したことについて率直に反省しなければならないと思う。
私はこのような悲惨な公害は、決して再び繰り返されてはならないとの決意を新たにしている。
政府は今般の解決に当たり、総合対策医療事業、チッソ支援、地域の再生・振興などについて地元自治体と協力しながら施策を推進するとともに、水俣病の悲劇を教訓として謙虚に学び、我が国の環境政策を一層進展させ、世界の国々に対し、わが国の経験や技術を生かして積極的な協力を行うなど国際的な貢献をする所存だ。 ――1995(平成七)年一二月一五日」

「水俣病事件四十年」の著者の宮澤氏はこの談話に対し、
●「政府としてはその時々においてできる限りの努力をしてきた」という文言に対しては、
「ありていに言えば、被害の拡大を防ごうとしないための努力、その結果生じた被害を消し去ろうとするための努力だった」と、
●「認定を受けられない方々の救済に関して・・・」に対しては、
「ありようからすれば、『彼らが認定しないことにした人たち』なのである」と、
●【重い歴史を背負いながらも苦渋の決断をされた各団体の方々」「原因の確定や企業に対する的確な対応をするまでに結果として長期間を要したこと」に対しては、
「ありようからすれば、『苦渋の決断をさせた』であり、『苦悩を強いた』であり、『長期間にわたって的確な対応をしなかった』でなければならず」、
●「その姿勢がない以上、『心から敬意を表したい』『誠に申し訳ない』『率直に反省しなければならない』などの言葉は、空疎で白々しく、むなしく地に落ちてしまうのだ」と、痛烈に批判している。

また、村山談話の中でははっきりと政府の責任について言及していないのは、「関西訴訟が続いているからだ」と、環境庁の職員が語っていたという。(以上P-466〜471)
「談話の中で政府の責任が明確に認められてしまえば、現在の裁判も不利になる」と危惧したのだろう。つまり当時の村山政権は本心から患者に詫びているわけでもなく、水俣病について責任を負うつもりなど毛頭無かったのである。この「政治解決」とは責任の所在を曖昧にし、未認定の患者を切り捨てるためのものだった。

また宮澤氏は≪事件史の隠れたキーワード「ということにして」・仮構性≫という項にて、この村山談話と水俣病問題全般から表れている「仮構性」に言及している。

(任意に改行を追加)
1995(平成7)年11月15日、閣議は水俣病解決策を了承し、村山首相は談話の形で遺憾の意を表明した。解決策冒頭の「国および熊本県は、水俣病問題の最終的かつ全面的な解決に当たり、遺憾の意など何らかの責任ある態度を表明する」に沿ったものである。
「遺憾の意」が「責任ある態度」の表明でも謝罪でもないことは、まともな生活人なら誰でも知っている。「遺憾の意」とは責任をとらないで済ますために、「謝罪」に代えて用いられる「権力用語」であることを、戦後50年の歴史が証明しつづけていた。それを真面目な顔で発することができるのが、官僚ないし政治家の資質だと言ってよい。それを発する当人も、聞かされる人々も「まやかし」であることを知りながら使われ続けているのが日本という国なのである。
解決策にいう「遺憾の意」である「首相談話」を見れば、それが「責任ある態度の表明」でないことはいよいよ明らかなのだが、それを見る前に、水俣病事件史をつらぬくもう一つのキーワードについてのべておきたい。

私は本書のはじめの方で、水俣病事件史をつらぬくキーワードとして「原因不明」をあげた。ここでももうひとつの、隠れているがより本質的なキーワードをあげたい。それは「ということにして」という言葉である。それはたとえば、水俣病最終解決策の「遺憾の意」を責任ある態度の表明だ「ということにして」いることに表れている。今までたどってきた事件史に即して具体的にいうと、こういうことだ。

排水が原因であるとわかっていながら、原因物質が不明だから「ということにして」とるべき対策をとらなかった。
水俣病の魚がすべて危険だとわかっていながら、全部の魚が有毒だとは言えない「ということにして」食品安全法を適用しなかった。
その気になれば適用する法律や行政指導という手段があったにもかかわらず、現行法規では適用できない「ということにして」なにもしなかった。
排水が原因かどうかわからないとしながら、浄化装置で排水は無害になったから安心だ「ということにして」事件の収拾をはかった。
有機水銀の影響は典型症状だけに限らないのに、ハンターラッセル症候群を基準「ということにして」処理した。
水俣病の原因は国が責任研究する「ということにして」熊大研究班と有機水銀説を棚上げし、原因は究明しないで終わらせた。
水俣病は症状の組合せでなければ診断できない「ということにして」切り捨てを正当化した。そのほかいくらでも例はあげられる。

これらは、端的に言えば「まやかし」であるが、それでは俗に過ぎると眉をしかめる向きのために、私は「仮構性」という言葉を提起するのである。実際のありようから人々の目をそらさせ、物事を権力の都合のよいように見せ掛け操作すること、また、人々もそのような操作がされていると気付き、「おかしい」と思いながらあえて異を唱えないで見過ごしている。そのようなありようをひっくるめて、私は「仮構性」と呼ぶ。
本当の民主主義が定着していない日本の議会制民主主義も仮構性そのものだと言える。司法が行政権力から自立していない状態での三権分立などという建前もそうだ。人々はそのおかしさを知っているのだが、「それを言ってはおしまい」などと、わけ知り顔をして見過ごしている。言ったらおしまい、とは、国そのものが仮構性であることは言わないでおこう、ということではないか。仮構性に貫かれてきた水俣病事件、その最終解決・政治決着はやはり仮構性そのものだった、左に掲げる首相談話にそれが見事に現れている。(P-465〜466)

宮澤氏が指摘する如く、この国は戦前戦後を通じて「仮構性」の塊だと言える。
たとえば、
共産主義は危険「ということにして」、社会主義者だけでなく言論思想全般を弾圧した。
満州は日本の生命線「ということにして」、中国東北部に傀儡国家を作り上げた。
大東亜共栄圏を作る「ということにして」、アジア各国を侵略し、アメリカとの戦争にのめり込んだ。
新しい高速道路や空港は地域の発展に役立つ「ということにして」、国土を破壊し税金を浪費している。
ダムは水利、防災に役立つ「ということにして」、国土を破壊し税金を浪費している。
いじめはない「ということにして」、自殺者が出るような陰湿ないじめを放置した。
インフルエンザの患者の異常行動はタミフルとは無関係「ということにして」、多くの犠牲者を出した。
サマワは非戦闘地域「ということにして」、自衛隊を派遣した。
北朝鮮が日本をミサイルで狙っている「ということにして」、MD開発を進めようとしている。
日米安保条約は日本を守るため「ということにして」、アメリカ軍に多大な協力をしている。
昭和天皇裕仁に責任は無い「ということにして」、彼を裁くことも退位させることもなかった。
自衛隊は憲法違反ではない「ということにして」、軍事力を増強し海外へも派兵している。
憲法の第1条から第8条までは、第20条と矛盾しない「ということにして」、侵略戦争の原動力となった機関を未だに保存している。

まさにこの日本国は、まやかし、インチキ、ウソの塊で出来上がっているのだが、住んでいる人間にとっては国家どころか自分の人生まで「それを言ってはおしまい」なので、惚けた顔して働き、生活しているわけだ。この「仮構性」によって、アジア太平洋戦争や水俣病事件のような数限りない人災・国家犯罪がもたらされたわけである。

(さらに続く)
posted by 鷹嘴 at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 公害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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