この日本という国の基本構造である「仮構性」によって水俣病事件が拡大したことを書いたが、わが身を振り返ってみれば、上司の指示に疑問を感じても黙って従い、不都合な事態が発生しても当たり障りの無いように処理し、ただ自分の職を守るために働いてきた。まさに「ということにして」を続ける人生だったのである。
このように「仮構性」の中で暮らしている我々に対して、チッソと行政を追及する闘いの中心にありながら突然運動から辞退し、自分の水俣病認定申請も取り下げた緒方正人さん(参考記事)は、そのような「システム社会」から抜け出すべきだと提言している。「証言 水俣病」(栗原彬/編 岩波新書)より引用。
緒方正人さんは闘いを続けながらも、加害者としてのチッソ・国・熊本県、被害者としての自分を含めた水俣病患者という「構造的な責任の奥」に、「人間の責任という大変大きな問題がある」ことを考えていた。国や県との争いの中で、「相手がいつもコロコロ入れ替わって相手の主体」が見えず、「お前はどうなんだ」と自問したという。
「かつてチッソが毒を流しつづけて、儲かって儲かって仕方がない時代に、自分がチッソの一労働者あるいは幹部であったとしたらと考えてみると、同じ事をしなかったとはいい切れない、そうした自分を始めて突きつけられたわけです。緒方さんはこの「システム社会」から「身を剥がなければならないと思って」認定申請を取り下げたのである。
そしてチッソとは何なんだ、私が闘っている相手は何なんだということがわからなくなって、狂って狂って考えていった先に気付いたのが、巨大な『システム社会』でした。私がいっている『システム社会』というのは、法律であり制度でありますけれども、それ以上に、時代の価値観が構造的に組み込まれている、そういう世の中です」
そして、「チッソはもう一人の自分」だったのではないかと、自問する。
「チッソとは一体何だったのかということは、現在でも私たちが考えなければならない大事なことですが、唐突ないい方のようですけれども、私は、チッソというのは、もう一人の自分ではなかったかと思っています。その「時代の価値観」が生み出したものは国土の破壊であり、全地球的な環境破壊である。
私はこう思うんですね。私たちの生きている時代は、たとえばお金であったり、産業であったり、便利なモノであったり、いわば『“豊かさ”に駆り立てられた時代』であるわけですけれども、私たち自身の日常的な生活が、すでにもう大きく複雑な仕組みの中にあって、そこから抜けようとしてもなかなか抜けられない。まさに水俣病を起こした時代の価値観に支配されているような気がするわけです」
最近は(少なくとも国内では)公害病は発生していないが、人類の経済活動による環境へのダメージは年々深刻化している。水俣病の問題は水俣病だけで終わらないのである。
考えてみれば「先進国」が科学技術を発展させて工業製品を生産し、エネルギーを大量消費する社会に作り変えた理由は、人々の暮らしを豊かにするためではなく、資本家に利益を与えるためではないだろうか?そのために人々を「“豊かさ”に駆り立て」ているのではないか?
「この40年の暮らしの中で、私自身が車を買い求め、運転するようになり、家にはテレビがあり、冷蔵庫があり、そして仕事ではプラスチックの船に乗っているわけです。いわばチッソのような化学工場が作った材料で作られたモノが、家の中にもたくさんあるわけです。水道のパイプに使われている塩化ビニールの大半は、当時チッソが作っていました。最近では液晶にしてもそうですけれども、私たちはまさに今、チッソ的な社会の中にいると思うんです。ですから、水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけれども、時代の中ではすでに私たちも『もう一人のチッソ』なのです。『近代化』とか『豊かさ』を求めたこの社会は、私たち自身ではなかったのか。自らの呪縛を解き、そこからいかに脱して行くのかということが、大きな問いとしてあるように思います」そしてチッソや国の責任を問う運動も「大方、ある処理機構の中に入れられてしまった」ので、責任の追及が曖昧になっていると指摘する。
「なぜか世の中は、問題が起きてみるとそれを処理する仕組みを作ることだけには懸命でした。たとえば、(先月解散したが)元慰安婦に「償い金」を渡すための「女性のためのアジア平和国民基金」も、責任を曖昧にしたまま「慰安婦問題はケリがついた、ということにして」済ませようとするものだったと思う。
“なんとか審議会”を作ってみたり、“なんとか制度”を作ってみたり、そして値切りに値切った挙句の和解金なり補償金なりを支払う。素直に事実を認め、心から詫びるというのは、ほとんどお目にかかりません。責任の意味、内容が仕組み化されてしまって、魂のゆくえがないがしろにされている時代だと思います。
その意味で、水俣病問題は非常に普遍的な問題提起をしている。薬害エイズやスモンや戦争の問題も、同じではないかと思っています」
日本国政府自身が元慰安婦一人一人に謝罪し、国民がこの加害事実をありのままに認めなければ、そしてこの性暴力を引き起こした根底に何があったのか見極めなければ、この問題は終わらないのである。
そして緒方さんはこの「システム社会」からの決別が必要だと語る。
「『国』とは何だったのか。私たちは何を『国』と言ってきたのか。『国に責任がある』と言いながら、実はそこにあったのは、『国』という主体が見えない、主体の存在しない『システム社会』じゃなかったのか。そして私たちは『国』とか『システム社会』に対してアッカンベーして、水俣病事件の責任は、原因企業のチッソ、熊本県、日本国政府だけでなく、こういう「システム社会」で暮らしている全国民にあると言えるだろう。これは数々の公害病、自然破壊、環境破壊についても同じことが言える。口では環境保護を唱えつつも「システム社会」が供給するエネルギーに依存して生活し、かつそのエネルギー供給システムの底辺で働く俺も、環境の破壊者の一員である。しかし「俺の仕事はそんなに環境にダメージを与えていない、ということにして」、「俺の生活が環境に与える影響など微々たるもの、ということにして」、あるいは「それを言ってはおしまい」だと開き直っているのである。
『お前たちはこのくらいのことしかできんかったのか』といって、気持ちの上でも、見も心も水俣、不知火の土地に帰って、国家と決別したほうがいいと思います。
こういっても簡単にはできないことですけど、この『システム社会』に魂が閉じ込められ制度化された患者として存在するのではなくて、生きた魂としてもう一度、不知火の海に帰る。そういう意味では、現象の上で闘い敗れてもいいじゃないかと、魂を持って帰るということこそ大事だと思います」
どのようにしたら、この「仮構性」に満ちた「システム社会」から脱却できるのだろうか。それは公害企業・環境破壊企業や行政を糾弾することだけでなく、我々一人一人が意識を改めなければならないのだろう。まずは「“豊かさ”に駆り立てられ」ている状態から目覚めてみようと、思う。
・・・水俣病についての投稿もこれで一区切りとするが、このブログでは未だ解決に至っていない水俣病補償問題を継続して追っていく。