2007年04月08日

渡嘉敷島の「集団自決」

以下は「ある神話の背景」(曽野綾子選集第二巻収録)より引用。

1945年3月27日、沖縄県の慶良間列島の渡嘉敷島にアメリカ軍が上陸し、翌28日に住民329名が「集団自決」した。これは渡嘉敷島の日本軍からの命令があったという、住民の証言がある。
しかしこの島の日本軍の指揮官だった赤松嘉次・元大尉(海上挺進第三戦隊長、陸士53期卒、当時25歳)は、自らが「自決命令」を出したことを頑なに否定し続け、1981年逝去した。
作家の曽野氏は1970年、大阪のホテルで開かれた元隊員の会合を訪れこの事件について聞き取りを行った。また沖縄でも関係者から取材を行い、赤松大尉からの命令も、軍からの命令も無かったと結論している。

・・・住民たちの「自決」の手段は日本軍の手榴弾だった。曽野氏は那覇を訪れて元渡嘉敷村の村長だった古波蔵椎好氏にも現場の状況を尋ねている。
古波蔵氏「そこ(自決した場所)へ集結したらもう防衛隊がどんどん手榴弾を持って来るでしょう」
曽野氏「配られて何のためだとお思いでした?その時もうぴーんとわかったんですか」
古波蔵氏「それから敵に殺されるよりは、住民の方はですね、玉砕という言葉はなかったんですけど、そこで自決した方がいいというような指令が来て、こっちだけがきいたんじゃなくて住民もそうきいたし、防衛隊も手榴弾を二つ三つ配られて来て・・・安里巡査も現場にきてますよ」
曽野氏「そこで何となく皆が敵につかまるよりは死んだ方がいい、と言い出したわけですか」
古波蔵氏「そうなってるわけですね。追いつめられた状況、手榴弾を配られた状況」
古波蔵氏によると、「安里巡査」は軍と住民のパイプ役で、軍からの命令は全て「安里巡査」を通していたという。
しかしその安里喜順氏は、自分は「自決」命令など伝えていないという。それにその時の赤松大尉も「あんたたち(住民)は非戦闘員だから、最後まで生きてくれ」「ただ、作戦の邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ」と指示していたという。
しかし住民たちは「もう半狂乱になって、恐怖に駆られて、捕虜になるよりは死んだ方がましということになって」、自決を始めたという。またその時、村長、「役場関係の人」「防衛隊の何人か」も居合わせたという。(どうも古波蔵氏と安里氏は責任の擦り合いをしているようだ?)

当の赤松氏は、曽野氏が
「自決命令は出さないとおっしゃっても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が死ねと言われたのだと思っても仕方ありませんね」
と質問すると、
「手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵には、これは正規軍ですから一人一、二発ずつ渡しておりました。艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいていない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います」
と答えたというのだ。

曽野氏は生き残りの住民からの聞き取りも行ったが、「自決命令」についての具体的な証言は得られなかった。そして赤松氏からの「自決命令」は無かったと結論付けている。
また、「一人の部外者」は、生き残った人々も多いが、戦後に家族が「自決」したのになぜ自分だけ生き残ったのかと問いつめられるので、「命令」があったことにすれば説明しやすい、だから軍からの命令があったことになってしまった、と解説したという。

さらに、昭和27年(1952年)に出来た「戦傷病者遺族等援護法」は、戦死者の遺族へ年金を与えるものであるが、その判定は昭和32年から33年(1957〜58年)に行われた。この適用を受けるためには「自決」した住民が「準軍属」と見なされることが必要で、そのため軍の命令によって「自決」したことにしてしまった、というのである。

・・・たしかに当時の赤松氏自身が「自決命令」を下した、という根拠はない。しかし「防衛召集兵が勝手に渡した」ことだったとしても、当時の現場責任者だった氏が言い逃れ出来ることではない。これは住民にとっては軍の命令に他ならず、すなわち海上挺進第三戦隊長・赤松嘉次大尉の名の下に於いて命令されたことと同義である。

それに「年金を受けるため、命令があったと証言した」という推測も破綻している。
「集団自決」早期認定/国、当初から実態把握
座間味村資料で判明/「捏造説」根拠覆す

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200701151300_01.html
http://otd4.jbbs.livedoor.jp/2017492/bbs_plain?base=1886&range=1
1957年の申請受付から「最短で三週間、平均三カ月で補償が認定」されていたのである。

またこの赤松隊が、住民を虐殺したという記録もある。
赤松隊がこの島を守備していた間に、ここで、6件の処刑事件があった、といわれる。
琉球政府立・沖縄資料編集所編「沖縄県史」によっても、そのことは次のように記されている。

1. 伊江島から移住させられた住民の中から、青年男女6名が、赤松部隊への投降勧告の使者として派遣され、赤松大尉に斬り殺された。
2. 集団自決の時、負傷して米軍に収容され、死を免れた小嶺武則、金城幸二郎の16歳になる二人の少年は、避難中の住民に下山を勧告しに行き、途中で赤松隊によって射殺された。
3. 渡嘉敷国民学校訓導・大城徳安はスパイ容疑で斬殺された。
4. 8月15日、米軍の投降勧告に応じない日本軍を説得するために、新垣重吉、古波蔵利雄、与那嶺徳、大城牛の4人は、投降勧告に行き、捕らえられることを恐れて、勧告文を木の枝に結んで帰ろうとした。しかしそのうち、与那嶺、大城の二人は捕らえられて殺された。
5. 座間味盛和をスパイの嫌疑で、多里少尉が切った。
6. 古波蔵樽は家族全員を失い、悲嘆にくれて山中をさまよっているところを、スパイの恐れがあると言って、高橋伍長の軍刀で切られた。

赤松隊の陣中日記にも、このうち2件の記録がある。
7月2日、「防衛隊員大城徳安、数度にわたり、陣地より脱走発見、敵に通じるおそれありとして処刑す。
米軍に捕らえられたる伊江島の住民、米軍の指示により投降勧告、戦争忌避の目的を以て陣地に侵入、前進陣地之を捕え、戦隊長に報告、戦隊長之を拒絶、陣地の状況を暴露したる上は、日本人として自決を勧告す。女子自決を諾し、斬首を希望、自決を幇助す」

赤松氏は、伊江島からやってきた住民の「処刑」については、自分が命令を出したと告白している。
「男三名は、通敵のおそれがあるので、私が処刑を命じました。女の方たちは、さかんに面罵されたあとだったので、自決しますと言われ、鈴木少尉が自決幇助しました」
太平洋戦争期の日本軍は敵の捕虜になることを認めない組織であった。住民がアメリカ軍に投降することも認めなかった(しかもアメリカ軍に捕えられれば虐殺されるぞ、と脅迫されていた)。もし投降しようとすれば、または投降したのち何らかの理由で発見されれば、上記のような運命が待っているのである。
遅かれ早かれアメリカ軍の砲撃によって死ぬかもしれない。しかも日本軍は敵への投降を決して許さない。アメリカ軍に殺されるか、日本軍に殺されるか、自分で死ぬかを選択しなければならないのである。
仮に軍からの命令が無かったとしても、断末魔の日本帝国主義によって「自決」を強制されたと見るべきだろう。
そもそも「自決」などという情緒的な言葉を使うべきではない。これは「自殺」なのである。というか日本軍に追い詰められた末の自殺なのであるから、日本軍による「虐殺」だったと記録されるべきかもしれない。


ちなみに「斬首を希望」したという女性3名に対しては、「何人かの記憶によれば」その場に村長、女子青年団長などがいて、この女性を「裏切り者」として面罵したという。(だから「自決」を受け入れたのだと、部隊の生き残りや著者の曽野氏は主張したいのだろう)
曽野氏はこれについて、
「女子たちは殺して下さい、と言ったということになっている。これが真実とすれば、皆に責められ、日本国民としてあるまじき卑怯な行為をした、というふうに、思い始めたからなのだろう。その場合の赤松隊側の責任は、一般刑法に於ける自殺幇助に該当するという」

と述べている。なぶり殺しになるのを恐れて「いっそ一思いに殺して下さい」と言ったのではないか?その程度の想像すら出来ないのか?
人気作家であり、「文化功労者」である曽野綾子氏の知性とはこの程度のものである。まあご主人の三浦朱門氏(→その発言)よりはマシかもしれないが(笑)
posted by 鷹嘴 at 01:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 沖縄の地上戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。
突然ですが、曽野綾子氏の「集団自決の真実(新編)」読んでみましたので、疑念を記します。

曽野氏はあたかも赤松隊「陣中日誌」を当時の記述そのままの史料のように書いていますが、注意深く読むと、それは1970年に編纂されたものであり、元になったと説明している兵士の日記はもとより、「陣中日誌」そのものすら公開されていないのですね。

その上、元の資料からいっさい加筆や修正はないといっておきながら、赤松元大尉に記憶のない8月16日の斬殺を、「あれは後で書き加えたものだから、陣中日誌に書いてあっても隊長は知らないはず」と元部下に曽野氏は弁明させているのです。

曽野綾子氏はルポルタージュを書いたのではなくて、小説を書いたのです。

私は、曽野氏が旧編「ある神話の風景」を書いた動機はもしかすると、赤松隊「陣中日誌」の中味があまりにも稚拙な弁解の作文に過ぎないことを知り、史実としてそれを裸で出版することは余りにも愚かとあわて、替わりに「陣中日誌」に基づく心象風景をノンフィクション小説にすることによって、赤松弁護を買って出たのではないかと推察するのです。
Posted by ni0615 at 2007年10月18日 06:06
評者が解明した筆者の赤松隊員と個別に会ったという嘘、泛水時に潮位が干潮に向かったという嘘等は無表情で乾いた嘘だ。しかし、じめじめして面白い嘘(というより、隠蔽)を紹介しておく。筆者は留利加波基地の放棄について泛水に不利だと云うが、遠浅でないから泛水時間の短縮になり阿波連方面への出撃基地集中は海上特攻基地の二重の分散配置原則(各地に戦隊を分散し、さらに戦隊をも分散する)に反するものであった。赤松隊長の腹心皆本は、留利加波基地のニッパハウスを回想している。なるほど、現実は、死ぬ前に環境の悪いニッパハウスを出て阿波連住民の家屋に寄宿し食事の供与を受けることが基地移転の動機だったのだ。曽野綾子は西山盆地の本部壕がまるで、戦隊の戦隊による戦隊のための壕のように語るが、出撃する者に壕など必要でない。あくまでも、勤務隊の勤務隊による勤務隊のための本部壕であり、それは出撃壕完成後着手され、未完成ではあるが着手間近ではなかった。実際、2月下旬に米軍偵察機により造成中の本部壕が撮影されているのだ。

別の皆本回想では、泛水時水上勤務隊が最も終結が遅れたと証言している。水上勤務隊は210人の朝鮮人軍夫でコロを扱う泛水作業専属に渡嘉敷にも派遣されたものである。 その水勤隊が米軍進出時に遅れたとはどういうことか。本部壕建設に駆り出される以外に有り得ない。完成した留利加波基地を放棄し新たに阿波連付近に基地を1944年末から造成し始めたことは勤務隊の陣中日誌などから分かっている。そして当該基地は1945年3月中旬に完成した。その前後から勤務隊(水勤隊とは区別される陸上部隊)は、水上特攻出撃後予想される米軍の報復攻撃に備え本部壕建設を始める。留利加波基地移転で勤務隊の本部壕造成が遅れた借りがある赤松は勤務隊への朝鮮人軍夫貸し出しを黙認せざるを得ない。

そして、沖縄司令部の転進命令や大町大佐の視察(状況・時間からみて出撃指導であるが)があっても朝鮮人軍夫を出撃基地近くに待機させなかった。そのため、出撃不能となり集団自決の遠因となる。
9.11テロを主導したアタは飛行訓練で指導官に着陸訓練は要らないというほど前のめりになっていた。
アタと比べて赤松隊は特攻に前のめりではなく、生を楽しみたかった。
安田善治郎をテロで殺害した朝日平吾は、労働ホテルを建設すると称して財界人からせしめた金銭を数ヶ月酒と女に注ぎ込みなお、親友の奥野に無心した。そして、テロ決行直前に紋付き袴の正装で記念撮影をしている。アタと比較すると、伊達と酔狂が多すぎる。

赤松隊は、特攻隊としても落第であり、その影響(松川(名前ではなく号と思われる)防衛隊員による軍命令の伝達)による集団自決は清らかではなく、汚辱にまみれたものである。
Posted by 和田啓二 at 2016年11月30日 17:24
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