2014年06月19日

【自衛隊という密室】”はなむけ”の島【死は鴻毛より軽し】

 引き続き「自衛隊という密室」(三宅勝久/著 高文研)より引用する。第T部1章「ある特殊部隊員の死――聖地”江田島”より」(P-12〜)より。
 2008年9月、広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校で一人の三等海曹が集団暴行を受け殺害された。この三曹は同年3月に潜水艦部隊から特別警備隊養成の応用課程に入ったが、本人が潜水艦部隊へ戻ることを希望したため、9月9日に一人で順番に15人を相手にする「徒手格闘訓練」が急遽行われたという。パンチを顎に受け意識不明になり、25日に急性硬膜下出血で死亡した(過去ログ参照)
 言うまでもないが異動が決まっている隊員にこのような特殊な訓練を行う意味がない。そもそも一人で15人を相手にさせること自体が狂っている。海自幹部は遺族にこの「訓練」について、「(異動の)はなむけのつもりだった」と説明したというが、この「応用課程」を抜けようとした隊員に対する集団リンチ・制裁に他ならない。オウム真理教や新撰組の粛清や、連合赤軍の「総括」とどう違うのか?
 海自の報告によると、三曹が倒れたのは16時55分だが手術の設備がある呉市内の病院に搬送されたのは19時過ぎだった。教官は三曹の状態を熱中症かと思い医務室への搬送が遅れた(倒れて動かなくなった者がいれば119番通報するのが普通ではないか?)。医官が脳内出血を疑い江田島市内のA病院に搬送したのが17時40分頃、そこでCT撮影を行ったところやはり脳内出血だった。手術のためフェリーで呉共済病院に運ばれたのが19時7分。しかしこのとき三曹は危篤状態に陥っており、医師は手術を断念せざるを得なかった・・・。

 瀬戸内海の広島湾に突き出た江田島から呉市の中心部に行くには、陸路を大幅に迂回するか東側の港からフェリーで行くことになる。緊急事態なら自衛隊のヘリで運ぶ手段もあったのではないか?田母神は運べても重体の一般隊員は運べないのか?
 三宅勝久氏が会場幕僚監部に質問したところ、江田島や呉の基地にはヘリが配備されておらず、それにヘリは格納庫から出してもすぐには飛べないという。たしかにその通りかもしれないが、地元のタクシー運転手は「A病院は簡単な病気だけ、重病人は行かない。フェリーと車で40分の呉市の病院に行く」と語った。
 「広島県警のヘリで呉の病院に運ぶこともたまにありますよ。こないだも、指を切断したとかでヘリで運ばれた人がいましたっけ」
 重病人は呉に直行するのがこの江田島の常識である。第1術科学校にとっては、事を荒立てたくないためこのような遅々とした対応になってしまったのだろうか。自衛隊(に限らず全ての軍隊)の、体面を重んじ人命を軽視する姿勢がここにも表れたのだろうか。(事件の翌年6月、この事件に関わった教官(二曹)ら隊員4人が業務上過失致死容疑で書類送検されたという)

 三宅勝久氏はこの年の暮れ、事件のあった第1術科学校を見学した。周囲に旧海軍の特殊潜航艇や戦艦大和の砲弾が飾ってある「教育参考館」は、東郷平八郎の遺髪が保管され、彼を賞賛する文言が並ぶ。旧海軍の軍服や隊員の遺書、「九軍神」(特殊潜航艇で真珠湾攻撃に参加した将校ら)の肖像画、「回天」犠牲者を刻む碑、山本五十六を「大東亜戦争遂行の中心にあって苦闘」したという説明文もある。つまりは海上自衛隊が旧日本海軍を礼賛する施設だ。どんな「教育」の「参考」にせよというのか?
 三宅氏ら見学者を案内した海上自衛隊OBの「G」という人物は、「特殊潜航艇について講演を依頼され断ったら、女を世話するというから・・・」などと下らん自慢話をする男だった。余計なウンチクは好きだが、この年の9月に起こった「はなむけ事件」については全く口に出さない。しかもこいつは旧日本軍の亡霊のような男であり、1978年に統合幕僚会議議長だった栗栖弘臣が職を解かれたことに憤っていた。
この栗栖弘臣という男は、1978年7月に「週刊ポスト」のインタビューで次のようなことを述べたという。
 「いざとなった場合、防衛庁や国防会議、閣議が防衛出動を決定するまでの間、現地部隊がただ手をこまねいていることは恐らくないと思いますね。やむにやまれず、現地幹部の独断専行というか超法規的にというか、行動をとることになるでしょう」
 つまりこの男は、自衛隊はいざとなれば政府の(あるいは中央司令部の)指示を待たずに行動するべきだ、と言っているのだ。こういう軍隊の「独断専行」によって、柳条湖事件を発端とする中国東北部侵略が開始され、盧溝橋事件を発端とした中国全面侵略戦争が開始され、「上海派遣軍」が南京に攻め上り南京大虐殺を起こしたのだ。そしてアジア人民を無数に虐殺しつつ惨めな敗戦を迎えたのだ。軍隊の勝手な行動は絶対に許してはならない。自衛隊の幹部がこのような発言を行うとは恐ろしいことだ。
 この発言ついて当時防衛庁長官だった金丸信が、
 「一軍人、一部隊の行動が(盧溝橋事件のように)非常に大きな問題に発展する危険性もある」
 と指摘。栗栖の職を解き辞職を迫り、栗栖もそれに従った(しかしこの「栗栖事件」が、有事立法に向けて議論が始まるきっかけになったという)。
 しかし案内係の「G」は、三宅氏ら見学者を前にして「オレなんかの同期がみんな言ってる。おかしいって。超法規的発言で金丸のバカが・・・」「今回もハマダのバカが・・・あいつら自民党の立場を忘れとるんじゃないか」などと言い放った。
 ハマダとは当時防衛大臣の浜田靖一のことであり、この当時は田母神が更迭された直後だった。こいつ自身も田母神や栗栖のように、日本の戦争は自衛戦争であり、自衛隊はいざとなれば「独断専行」しなければならない、と思ってんだろうな(こういう思想の自衛隊幹部やOBも少なくないのかもね?)。こんなOBを案内係にするとは呆れたものだ。そもそも旧日本軍の軍人を神格化していること自体狂ってるけどな。このように旧日本軍を礼賛する施設でリンチ殺人が起こっても不思議は無いかもな。

 さらに「自衛隊をまだまだ継子扱いする。何も(田母神は)村山談話を批判したわけじゃなくて・・・あれは講話であって個人の考えでしょ・・・と思いますよ」と、「同意を求めるような口調」で言い続けた。勝手に戦争始めるぞ、なんて言う「継子」は養子の縁を切るべきだと思うな。三宅氏を含めてたった3人の見学者がどのように応じたかは不明。
 見学が終わり出口に向かって歩いている時、「はなむけ」事件の現場と思われる建物が見えてきたので、三宅氏が「G」に「あれが体育館ですか?」と尋ねてみたが、「G」は「そうですね」と短く答えるだけで、それっきり会話は途切れたという。結局事件について何も聞き出せなかった。「G」のような思想というか立場の人間にとっては触れられたくない話題だろう。海上自衛隊が旧海軍から受け継いでいる性質が、あの事件を起こしたとは考えないのだろうか。
 それにしてもこの「G」にしても、第1術科学校にしても、なんというか命の重みを理解していないというか・・・軽く見ているというか・・・そういう旧海軍以来の伝統が根付いているのかな。

 三宅氏は、集団リンチを受けた三曹が運ばれたときと同じ航路で江田島を後にした。彼の実家を訪ねたとき、母親は特別警備隊の同僚らと共に写った息子の写真を眺めながら「本当にいい子たちなんですよ・・・」と呟いたという。
 「『死は鴻毛より軽し』
 かつて軍幹部が若者に叩き込んだ軍人勅諭の文句こそが、江田島の印象を表現するのにもっともふさわしかった」
posted by 鷹嘴 at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本軍(1950〜) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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