2014年09月23日

安重根義士記念館は見応えあり!

 2014年9月23日、ナヌムの家・歴史館見学を終えて강변(江邊/Gangbyeon/カンビョン)駅に戻り、途中で乗り換えて회현(会賢/Hoehyeon/フェヒョン、)駅で降り、안중근의사 기념관(安重根義士紀念館/アン・ジュングンウィサ キニョムグァン)を訪れた(入場料は無料)。ソウル市中心部の남산공원(南山公園/ナムサンコンウォン)にあるが、こちらの案内図に従ったほうが分かりやすいと思う。



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 長い坂を登って南山公園に入るやこんなフィットネス器具があったので試してみたが・・・体力の衰えを実感。酒飲むばっかりで運動してないし。公園にこういうの置いてあると楽しいが、日本じゃ無理だろう。怪我したとかクレームがつくだろうからね。これらのフィットネス器具までたどり着けば安重根義士紀念館はすぐそば!

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 紀念館前のモニュメント

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 入口から右に曲がると安重根の大きな像

※ この投稿は以下の資料から引用した。
 ・伊藤博文を撃った男 革命義士安重根の原像(斎藤充功/著 時事通信社)
 ・安重根と伊藤博文(中野康雄/著 恒文社)
 ・安重根義士の生と国を愛するストーリー 獄中自叙伝(安重根崇慕會・安重根義士紀念館/発行)
 なお「安重根義士の〜」は、安が獄中で綴った自叙伝「安應七歴史」をハングル文字に翻訳したもので、俺が買った日本語版は2013年12月発行の第一刷。

 안중근(安重根/アンジュングン)は1879年(高宗17年)9月2日(陰暦7月16日)、「大韓国黄海道海州府首揚山麓」の資産家の家に生まれた。ちなみに姓は安、名は重根、字(あざな)は應七(ウンチル)。つまり姓と字で言えば안응칠(安應七/アンウンチル)。
 父の安泰勳(アンテフン)は幼いころから勉学に励み神童と呼ばれ、科挙に合格して進士(チンサ)となり京城(ソウル)に赴いた。しかし1884年、政争に巻き込まれ難を逃れるため密かに帰郷し、一家で「黄海道信州郡C溪洞」に移住した。ここで安重根は漢文を学ぶとともに狩猟に熱中していた。
 1894年に結婚し(後に二男一女を儲けた)、その年に起こった甲午農民戦争に関与していた東学党の横暴に怒り、父と共に東学党を討伐する義勇隊に参加し部隊を率いた(ちなみに安重根は、甲午農民戦争に関与した東学党は後の一進会の前身だったと見ていた)。
 1897年には一家で天主教(キリスト教カトリック)に帰依し、”Thomas”(多黙)という洗礼名を受ける。そして布教活動や学校運営に関わっていたが、日本の侵略に危機感を覚え1907年から亡命し中国東北部を拠点とした義兵闘争に加わった。
 豆満江を超えて進撃するも圧倒的な兵力の日本軍の前になすすべもなく、敗走し同胞を訪ね歩いて資金提供を求めるような日々だったが、伊藤がハルビンを訪れることを聞きつけ、同志と手分けをしてチャンスを狙った。
 1909年10月26日、ハルビン駅で伊藤博文を銃殺。安は伊藤の顔を知らなかったが「ロシアの役人たちが護衛して来る人たちの一番前に、黄ばんだ顔に白い髭を生やした小さい老いぼれ」(安重根義士の〜 P-93)こそ伊藤だと直感し引き金を開いた。たしかにその「老いぼれ」こそ、韓国侵略の元凶(と、安らが考えていた)伊藤博文だった。
 ロシア官憲は拘束した安を直ちに日帝に引き渡した。しかし監獄では、看守らも揺るぎない信念を持った安を尊敬し、心を通じ合わせたという。そして安は「安應七歴史」に自分の半生を綴った。
 1910年2月14日に旅順の法廷で死刑判決が下されたが(他の同志らは懲役刑)、これが覆ることはないと覚悟した安は控訴せず、「東洋平和論」を書きあげるためせめて1ヶ月執行を伸ばしてほしいと願い、認められた。しかし「東洋平和論」は「序」と「前鑑」の一部を書いただけで未完に終わり、同年3月26日に処刑された。30歳だった(数えで32歳)。

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 銅の彫刻?

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「断指血盟」。1909年1月、安はロシア領「カリ」で、同志12人と共に左手の薬指を切り、その血で太極旗「大韓独立」と記し、韓国独立のため闘う決意を誓った。

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 安が伊藤を処断した瞬間!

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 安らを裁いた弾圧法廷

 安重根は伊藤博文の母国では犯罪者呼ばわりされているが、それを言うなら(塙保己一の息子の)塙忠宝暗殺やイギリス公使館焼き討ちに加わったとされる伊藤博文も、立派?な犯罪者だ。徳川幕府打倒のため実力行使に出た「幕末の志士」は全て殺人者・テロリスト・過激派ということになる。それどころか、イスラエルなど建国から現在に至るまで犯罪者の巣窟だ。アメリカも戦前の日本も同様だ。古今東西、軍隊などの武装組織の一員として敵を倒した者・そのように仕向けた者は全て犯罪者、ということになる。韓国の王妃である閔妃を惨殺し、義兵掃討の名の下に無関係な民衆を虐殺した末に韓国の独立を奪い、独立運動を弾圧し皇民化教育を行い侵略戦争に動員した日本国など、恐るべき犯罪国家ではないか?
 どこの国でも「国のため」に「敵」を殺した者らは称賛されるが、安重根も母国独立のために命をかけて闘った男だ。愛国心やら国防など喚く右側の連中こそ、立場こそ違えど安を称賛するべきではないか?そういう平衡感覚が無いから右側なんだろうな。
 多くの日本人は、当時の侵略者である日帝の視点から離れようとしない。伊藤を殺したからというよりも、日本政府に逆らった者だから安を犯罪者と呼ぶのだ。日帝のアジア侵略についての認識が全く欠けている。
 もっとも、こんなレッテル気にすることないかも。「犯罪」なんて観念は時代と共に変わっていくもんだし。特攻隊は英雄だけどイスラムの自爆攻撃はテロだとかいう区別は難しすぎて俺の脳じゃむりだし。犯罪上等!テロリスト上等(笑)
 それに伊藤博文は日本を侵略国家へと導いた一人だが、別に嫌いじゃないよ。伊藤と同じく山口県にルーツを持つ三世議員の安倍と違って、伊藤は農民からのし上がったんだから大したもんじゃんかよ。安倍なんて中身が何にもない張りぼてみたいなもんだ(笑)

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 ゆるキャラみたいになってる・・・

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 ハルビン駅に現れた伊藤を処断せんと走る安重根義士!かっこいい!

 ところで安が伊藤を銃殺したのは1909年10月26日だが韓国併合条約の調印は翌年8月22日だ。つまりまだ朝鮮半島が日帝の領土となる前の行為だった。それに安重根は韓国独立のために闘う義兵だ。故に日本の刑法で裁くのではなく、独立戦争の捕虜として遇するべきではなかったか?安重根自身も旅順の法廷で次のように述べている。
 「私は、大韓国義兵の参謀中将なる職務でハルビンから戦争を遂行する途中、捕虜の身になってここに来たのである。だから、地方裁判所とは全然関係がない、万国の刑法と国際公法で裁判するのが正しい」(安重根義士の生と国を愛するストーリー P-102)

 しかし安自身も覚悟していたことだが死刑判決が下った。安は獄中で、自分の行為が罪に値するものか自問自答したという。
 「1895年、京城にいた日本の公使、三浦は兵隊を伴って宮廷に侵入し、明成皇后を殺害したが、日本の政府は三浦を処刑せず、そのまま釈放した。その内幕は必ず命令した者があって、そのように行ったのが明らかである。ところが、私のことに例えると、せめて個人的な殺人罪であるとしても、三浦の罪と私の罪を比べたら誰の罪が重くて軽いのか、それはそれは、痛嘆するべきことではないだろうか。私に何の罪があると言うのか、私が何の罪を犯したと言うのか。
 と千辺万辺考えたが、ハッと悟り、手を叩いて大笑いしながら、
『私はいかにも大きい罪人だ。善良で弱い大韓帝国の人民になった罪人である』
 と思うと、全ての疑問が解かれるようであった」(安重根義士の生と国を愛するストーリー P-103〜104)

 つまり、「大韓帝国の人民」であること自体が、罪人扱いされることになると悟ったのだろう。強者の行為は全て正当化されるが、弱者は弱者であること自体が罪となる。安が現代に生きる我々全てに託した重要なメッセージだ。

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 屋外には安の遺墨を刻んだ碑が並ぶ。
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 「見利思義見危授命」(利益を見れば正義を思い、危ういのを見れば命をささげよ)

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 「人無遠慮難成大業」(人は遠くに考えなければ、大事を成し遂げ難い。論語・憲問編の言葉)

 ハルビンの日本領事館に連行された安重根は、1909年10月30日に日本の検察官による第一回の訊問を受けた。安は自分の名前を「安應七」、職業を「猟夫」、家も無く両親も妻子も無く、学問をしたこともないと答えた。しかし伊藤を敵視する理由として、15の伊藤の「罪状」を挙げた。「安重根義士の生と国を愛するストーリー」(P-93〜94)によると次のようになっている。

1. 大韓帝国の明成皇后を殺害した罪(1895年10月、駐朝公使・三浦梧楼陸軍中将の指示による閔妃斬殺事件。乙未事変)
2. 大韓帝国の皇帝を廃位した罪
3. 光武9年11月に保護条約5ヶ条を強引に締結した罪(1905年第二次日韓協約)
4. 隆熙元年7月に韓日条約7ヶ条を強引に締結した罪(1907年第三次日韓協約)
5. 国権を強引に奪った罪
6. 軍隊を解散した罪
7. 無辜な良民を虐殺した罪(義兵弾圧に伴う民間人殺害のこと)
8. 鉄道、鉱山、森林の利権を掠奪した罪
9. 教科書を押収して焼き捨てた罪
10. 新聞の購読を禁止した罪
11. 第一銀行券を発行した罪
12. 大韓人達の外国留学を禁止した罪
13. 東洋平和を乱した罪
14. 大韓人が自ら日本の保護を望んでいると嘘をついて天皇を欺瞞した罪
15. 日本の天皇陛下の父、孝明天皇を殺害した罪

 しかし日本の官憲の捜査によって身元が割れると、11月6日についに「安重根」という名を明かし、10月30日のものとほぼ同様の伊藤の「罪状15箇条」を挙げた。
 これらは・・・伊藤の「罪状」というよりも、日帝による韓国侵略・植民地化計画を一つずつ挙げているようだが。それに閔妃斬殺事件は伊藤と関係ないと思うが?孝明天皇の死は暗殺だったなんていうのは陰謀論だろ?
安は拘束後に、「韓国の独立と東洋平和の維持」のため伊藤を処断したのであり、伊藤への「個人的怨恨によるものではない」と述べつつも、上記のように日帝の韓国侵略の責任は全て伊藤にあるかのように述べている。かつ、日本の天皇自身にはそのような意図は無いかのように述べている。
 しかし伊藤を処断しても韓国併合は阻止できなかった。伊藤が消えれば別の者が併合への道を進めるだけだ(何度も言うが伊藤は元々韓国併合には反対だったが後に併合賛成に転じている。政治家の変節など古今東西珍しいことではない)。
 それに明治天皇個人を「欺く」も何も、天皇は政治の実権を持たない。薩長の指導者は「天皇」という権威を利用して徳川幕府を倒した。そして彼らが作った政権は、この「天皇」という権威を利用してアジアを侵略している。だから明治天皇に韓国独立の期待を寄せるのは全くナンセンスな話だ。

 伊藤を銃殺し拘束された直後には「日本の協力のもとに韓国が独立できる」と述べていた。その後旅順の監獄では自分の時代認識が欠けていたことを悟ったが、なおも明治天皇は東洋の平和と韓国の独立を願っている、と信じていたという。(伊藤博文を撃った男 革命義士安重根の原像 斎藤充功 時事通信社 P-185)
 安はこの時点では、「天皇」という権威こそ日本帝国主義の根源であり、この人民を欺き従わせるためのシステムを打倒しなければ韓国独立も「東洋平和」もあり得ない、と悟るに至らなかったのだ。もしも伊藤処断後に逃げおおせていれば、『私はいかにも大きい罪人だ。善良で弱い大韓帝国の人民になった罪人である』と喝破したほどの男であるから、日帝による植民地朝鮮への残忍な支配・皇民化政策を見て、考えを変えたかもしれない。と勝手に想像しているけどね。

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 繰り返すが伊藤を処断しても韓国併合を止められなかった。しかしこれが無意味だったとは思わない。
 たとえば現代日本の労働者人民は、安倍政権打倒のため闘わなくてはならない。もっとも安倍など単なるお飾りで、あの空虚な男が失脚すれば「中の人」たちが別のお飾りをこしらえるだろう(笑) しかし、まずは自民党政治のシンボルである安倍打倒を叫ぶことが、自民党(的な)政治の打倒へと・・・我々を支配し搾取する構造全ての打倒につながるのではないか?
 安が、日帝の韓国侵略のシンボルである伊藤を倒したことは、多くの韓国人たちに独立に立ち向かう勇気を与えたはずだ。そして現在でも、悪政に苦しむ全世界の人民に勇気を与えているのではないか?
 民族の尊厳のために、世界平和のために闘い散った安重根の魂は、我々全世界の労働者人民に永遠に語りかけてくるだろう。
 そういうわけでソウルを訪れたら是非、安重根義士紀念館を訪れてほしいな。観光スポットのNソウルタワーがある南山公園の中にあるから、ちょっと足をのばしてみたらどうですか?
posted by 鷹嘴 at 23:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今日は安重根義士のご命日です。個人の志をしのび、謹んでご冥福をお祈りいたします。
Posted by コピ at 2016年03月26日 22:41
「多くの平和主義者の友人と付き合っていて、彼らの見解にはもちろん共感するんだが、戦争の廃絶について私をほとんど絶望させることがあまりにも多い。というのも、彼らの熱烈な平和主義の中にある好戦的な要素が目の前にちらつくからだ」B.H.リデル=ハート
Posted by east at 2016年04月04日 17:36
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