【追記のお知らせ 2017年4月9日】
 記事「【5月7日】雁屋哲さんの講演+井戸川克隆さんと対談」に、「美味しんぼ『鼻血問題』に答える」から福島現地での鼻血の症状についての報告例を引用しました

2015年11月27日

2015年6月、2年ぶりに花岡に行ってきた(1)

 もう半年前のことだが花岡を訪れたことを書く。2015年6月30日に秋田県大館市で行われた殉難者慰霊式、フィールドワーク、夜の講演会、そして7月1日のフィールドワークと「慰霊供養の集い」に参加した。もう4度目なので、まずは花岡現地闘争の基礎知識を記しておきたい・・・



 かつて銅や鉛などを産出していた秋田県花岡町(現・大館市)の花岡鉱山(1994年に閉山)は、戦時中、軍部の増産要求によって乱掘を続けていた。鉱山の維持に伴う土木工事は鹿島組(現・鹿島建設が請け負ったが、労働力不足のため強制連行された中国人が動員された。これは第一滝ノ沢ダム(鉱滓ダム。貯水の目的ではなく、鉱山から出る鉱滓を堆積させる)の維持のために暗渠(排水のためのトンネル)を掘削する重労働だった。
 採掘しつくした坑道の埋め戻しも行われていなかったため、44年5月29日に「七ッ館坑」が落盤し朝鮮人や日本人の労働者が生き埋めになる大事故が発生。そのため鉱床の真上を流れる花岡川の水路変更が計画された。これも鹿島組が請け負い、やはり中国人強制連行被害者が動員された。
 鹿島組は中国人たちを、時には命を奪うほどの残忍な暴力で支配し、粗末な食事と劣悪な環境下で長時間の重労働を強いた。こうして多くの仲間たちが虐殺されていくなかで中国人たちは1945年6月30日の夜に、「労工大隊長」だった耿諄さん(2012年逝去)を先頭に一斉蜂起し、逃走。しかし翌日には全員が捕縛あるいは虐殺された。当時町内にあった「共楽館」の前に捕えられた中国人たちが縛られ、炎天下に水も与えられず放置されていたという。

 こうして強制連行されて花岡に送られた中国人986人のうち、終戦までに418人が犠牲となった。戦後鹿島組は、占領軍の監視の下に中国人犠牲者の遺骨を信正寺の裏山に納骨堂を設け、「華人死没者追善供養塔」という小さい碑を建てた。しかし山野に放置されたままの遺骨も多く、日中の諸団体によって発掘が行われ母国に送還された。現在は「華人死没者追善供養塔」と並んで「中国人殉難者供養塔」が建つ。
 今では共楽館も取り壊され、中国人の宿舎になっていた「中山寮」も第二滝ノ沢ダム(第一滝ノ沢ダムと同じく鉱滓ダム)の土砂の下となった。(ここは汚染土壌も捨てられている。2010年6月30日に撮影堤防の下にはリサイクル工場や廃棄物処理工場が建つ)
 45年6月30日の事件は「花岡蜂起」あるいは「花岡事件」と呼ばれるが、花岡に於ける中国人強制連行被害者の受難を「花岡事件」と総称することもある。この日本帝国主義が行った残虐行為の記憶を残すものは旧花岡町内に点在する慰霊碑・祈念碑や、花岡川をはさんで信正寺の向かいに立つ「花岡平和記念館」のみである・・・。


 毎年6月30日の午前中に大館市の十瀬野公園墓地中国殉難烈士慰霊之碑の前で、市の主催の慰霊式が行われている。また、現地の市民団体「花岡の地・日中不再戦友好碑をまもる会」は、同じ6月30日の午後から信正寺で慰霊祭を行っている。そのあとにフィールドワークを行い、信正寺の近くの七ッ館弔魂碑、中国人殉難者供養塔、滝沢第二ダム、日中不再戦友好碑共楽館跡地などを見学する。
 一方、70年代から花岡事件の研究を行い帰国後の耿諄さんと初めて面会した日本人である石飛仁さんは、耿諄さんら花岡蜂起指導者の裁判記録などを元に、蜂起が起こったのは7月1日の夜であると指摘している(この件については不勉強な俺には判断できないが)。石飛仁さんらの研究グループは毎年7月1日に信正寺で慰霊祭を行っている。
 またNPO法人「花岡平和記念会」など地元の団体や「中国人強制連行を考える会」の協同によるフィールドワークも行われている。毎年6月30日の朝に大館市中心部からマイクロバスに乗り、慰霊式と午後のフィールドワークに参加することができる(有料、昼食付き)。俺が参加したときは事前の申し込みをせず、朝に集合場所に行き参加費を支払った。フィールドワークでは第一滝ノ沢ダムの暗渠も案内された。個人で初参加するにはこれが便利かもしれない。(滝沢第二ダムや日中不再戦友好碑が建つ丘は私有地なので許可を得ないと入れない)


 というわけで、花岡事件から70年後の現地の模様について非常に遅くなったが書いておく。6月30日午前10時20分から例年のように十瀬野公園墓地にて「中国人殉難者慰霊式」が始まった。花岡事件生存者の張広勲さん、宋明遠さんら遺族、中国大使館や紅十字会の代表、各市民団体や労組など、大館市議や秋田県議、大館市長や秋田県知事代理が参列。









 式典後、遺族の方々は「中国殉難烈士慰霊之碑」の前で紙を焼き(中国での故人を弔うときの習慣)、宋明遠さんは泣き崩れていた。











 午後からは信正寺で「日中不再戦友好碑をまもる会」主催の慰霊祭に参加。


 次に車に分乗してフィールドワーク。第二滝ノ沢ダムの堤防を通り、日中不再戦友好碑の前のミニ集会で、地元で活動している方々や県外からの参加者が発言。大東文化大学名誉教授・渡邊澄子さんも発言した。


 ところで、14年7月31日・東京新聞夕刊にて渡邊澄子さんが「七ッ館事件 70年前の罪に思う 地底からの悲鳴 今も」と題して、七ッ館事件について記している。70周年となった14年5月29日、現地で5年ぶりに殉難者追悼会が行われたという。韓国から来日した殉難者の娘は、貧しさのため親戚筋を転々とし小学校も出ていない。異国で亡くなった父の顔も憶えていないという。彼女は「弔魂碑の裏に刻まれた父の名をなぞり撫で」、号泣したという。
 この弔魂碑の揮毫者は、かつて財界のトップを渡り歩いた人物だった。
 この碑の揮毫者が、藤田組会長、東京電力会長、日本原子力産業会議初代会長、原子力研究所理事を歴任して勲一等瑞宝章を受けた菅礼之助なのが、私には耐えがたい。70年たった今も、地底から彼らの苦悶の悲鳴が聞こえてくる。こんな時代を再来させてはならないと、強く思う
 このミニ集会でも渡邊澄子さんは上記の指摘を行い、戦前への回帰を阻止するため安倍政権打倒を訴えた!
 また、七ッ館弔魂碑に刻まれた22人の殉難者の名前について「日中不再戦友好碑をまもる会」から解説があった。19人分の日本人風の名前が刻まれているが、殉難者のうち11人は朝鮮人労働者なのだ。創氏改名を余儀なくされ、異国の地で不慮の死を遂げ、その名前のまま碑に刻まれている殉難者の無念を忘れてはならない。


 そしてこの日の夜、大館中央公民館にて「花岡事件を学び・考える集い」が行われ、花岡和解の欺瞞を厳しく追及している研究員の石田隆至さん(明治学院大学国際平和研究所研究員)が、張宏波さん(明治学院大学教養教育センター准教授)との共同研究を元に、花岡訴訟の和解決着について講演した。「日中不再戦友好碑をまもる会」は、この6月30日の活動を「花岡事件七〇周年記念誌」として発行し、石田さんの講演記録も収録された。内容をかいつまんで紹介すると・・・、

● 花岡訴訟は2000年11月29日に東京高裁で「和解」が成立したが、11人の原告のうち1人(受難者の遺族の孫力さん)と、2人の原告の遺族が、現在でも和解受け入れを拒否している。
 原告団長だった耿諄さん自身が和解内容に抗議する声明を出し、和解受け入れを拒否したまま逝去した。耿諄さんの次男の耿碩宇さんも和解の撤回を求めた。
 受難者の孫基武さんの遺族で、原告団に加わった孫力さんも抗議を表明し、和解受け入れを拒否している。弁護団に対しても公開書簡を送付している。同様に孟繁武さんの遺族も拒否している。
 原告ではないが受難者の遺族の魯堂鎖さんも、和解成立直後にその欺瞞性を見抜き、東京高裁鹿島建設宛てに公開書簡を送付した。

● 日本のメディアはこぞって花岡和解を評価する一方、中国のメディアは「法的責任も道義的責任も認めず、賠償もせず、原告の要求から大きく乖離した」この和解決着について批判的だ。
 原告の要求は、鹿島建設が事実を認めて謝罪すること、記念館を建設すること、賠償することだった。しかし2000年11月に「和解」が成立したが、東京高裁が下した和解条項は鹿島建設の責任を認めないものだった。
 この第一項にて「当事者双方は、平成2年(1990年)7月5日の『共同発表』を再確認する」としつつも、「ただし、被控訴人は、 右「共同発表」は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、 控訴人らはこれを了解した」と続く。
 「ただし」以降で鹿島建設が責任を認めない姿勢を示し、しかもそれを原告が「了解」した、という。つまり鹿島建設には責任がないことを原告が認めたことにされてしまっているのだ。
 また記念館建設については一切言及がない。原告への賠償も認められなかった。第二項では(受難者に対する)「慰霊等の念の表明として、 利害関係人中国紅十字会に対し金5億円を信託する」となっている。賠償金ではなく、慰霊などが目的の「信託金」だという。本来、加害者である鹿島建設は「慰霊を行う前にその罪を償うべき立場」なのだ。

● しかし当時弁護団長だった新美隆弁護士は、和解当日の「談話メモ」にて、非常に分かりにくい表現だが(参考)決して原告が、鹿島には責任が無いことを認めたわけではない・・・という趣旨のことを述べている。「了解」という言葉は、「単に、『聞いておきます』という程度の意味」、とでも言うのだろうか?

● 耿諄さんら原告は和解条項に激怒し絶望した。このような決着になるとは夢にも思わなかった。もっとも弁護団は「和解」成立直前の2000年11月18日の原告団を交えた会議で、和解の内容について説明していたが、それは日本語で行われていた。通訳も行われていたが、肝心の「ただし、控訴人らはこれを(鹿島に責任は無いことを)了解した」という部分は通訳されなかった。説明を怠ったも同然だ。原告が「弁護士に騙された」と感じて当然だ。

● 2000年11月19日、弁護団は耿諄さんに揮毫を頼んだが、耿諄さんの書の「維護人類尊厳」という行が、「人間の尊厳は守られた」と翻訳された。正確には「人間の尊厳を守ろう」と訳すべきだ。意図的な誤訳だろう。裁判の和解によって受難者の尊厳が守られた、という体裁を取りたかったのだろうか。
 支援の中心人物だった田中宏氏(一橋大学名誉教授、中国人強制連行を考える会・代表)は中国語の教師でもあり、この誤訳に気付かぬわけがない。訴訟の支援者だった劉彩品さんと張宏波さんがこれを田中氏に問い質したところ、田中氏も誤りを認め修正すると述べた。しかしこの約束は未だに果たされていない。

● この裁判の新村正人裁判長は、2000年11月29日の和解発表の日に「所感」を発表した。弁護団の内田雅敏氏もその内容を絶賛している。
 これは和解の二日後の12月1日に行われた報告会で配布されたが、一部分が白く消されていた。 後に田中宏氏は「スペースがなかったから」と説明したそうだが、ならば配布されたコピーに不自然に空いたスペースは何なのか?
 張宏波さんが田中氏に問い合わせたところ、弁護団長の新美隆氏に確認した結果だとして「未発表で、誰も内容を知らない」との回答を得た。そのため張さんは新聞社に勤務する知人に依頼し、各社に配信された「所感」を入手した。そして報告会で配布されたコピーでは隠されていた部分を確認できたのである。
  控訴人らの主張の基調は、受難者は、第二次世界大戦中の日本政府の方針、 すなわち戦時中の労働力の不足に対応するため中国人俘虜等を利用するという 国際法に違反する扱いによって強制連行され強制労働に従事させられるとともに 虐待を受けたというものである。 これに対し、被控訴人の主張の基調は、花岡出張所における生活については、 戦争中の日本国内の社会的・経済的状況に起因するもので、 被控訴人は国が定めた詳細な処遇基準の下で 食糧面等各般において最大限の配慮を尽くしており、なお、 戦争に伴う事象については昭和47年の日中共同声明により すでに解決された等というものである。
 このように、鹿島が加害事実も責任も一切認めない立場であることに言及している。「鹿島に謝罪と賠償を行わせた」という弁護団・支援者の説明が全くの虚偽だと明らかになってしまうことを恐れ、不自然な白抜きを行って配布したのだろう。
 ただし鹿島は和解の当日、「花岡事案和解に関するコメント」(アーカイブ)を発表し、上記の「所感」に記された主張と同様なことを述べていた。弁護団・支援者らの小細工も徒労に終わったようだ。

● 花岡訴訟支援者の団体である「中国人強制連行を考える会」のHPには、(鹿島が)「謝罪して賠償金を払った」という記述がある。しかし鹿島は謝罪も「賠償」もしていない。鹿島が拠出した5億円は、「慰霊」などを目的とする「信託金」だ。これ以上の追及を避けるための解決金だ。加害責任を認めたくない鹿島には「賠償」は行えないのだ。花岡和解決着の実態を捻じ曲げても自画自賛したいのだろう。

 ところでこの講演は2015年6月30日に行われた。記念誌発行は同年8月24日である。俺も「考える会」のHPに上記のような記述があったことを記憶しているが、11月に閲覧したところ若干記述が変わっていた(最終更新は11月8日だという)。
 2000年11月29日、鹿島建設が「責任を認め謝罪をした」共同発表を再確認し、986人全体の解決のための基金を設立することで和解が成立し,賠償金の支払い、慰霊事業などの和解事業が始まりました。
 しかし「賠償金」という語句が残っているので、姿勢を改めたとは言えないな。そもそも「賠償金」と「基金」じゃ矛盾している。

● 花岡受難者986名のうち連絡のついた受難者本人及び遺族は520人、そのうち約500人は「和解金」を受け取っているという。
 2003年に北京の裁判所の仲介で、中国紅十字会が鹿島から受け取った5億円基金の経理の公開が約束されていたが、未だ公開されていない。2011年には中国の各紙が、5億円基金の使途が不明だと報じた。基金運営委員会は記者会見を開き、監督機関(審計署)による経理チェックを毎年受けている、今後は順次公開すると述べた。
 しかし2013年6月に中国の市民活動家が審計署に基金経理の実態について情報公開請求を行ったところ、審計署は「花岡基金を監査したことは一度もない」と回答したという・・・。


・・・以上のように石田隆至さんが、耿諄さんら原告を激怒させ絶望させた「花岡和解」の欺瞞を詳しくかつ分かりやすく説明した。かなり立ち入った話も出てくるので理解を得られるのか不安だったが、参加された方々は息を飲んで聞き入っていた。実に痛快、大成功だった!これを是非東京でやってほしいな。

(つづく)
posted by 鷹嘴 at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 花岡事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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