【追記のお知らせ 2017年4月9日】
 記事「【5月7日】雁屋哲さんの講演+井戸川克隆さんと対談」に、「美味しんぼ『鼻血問題』に答える」から福島現地での鼻血の症状についての報告例を引用しました

2015年12月20日

2015年 花岡事件70周年現地闘争! (2)

 遅くなったが、7月1日のこと。そもそも今年の花岡現地闘争については7月中には書き終えたいと思っていたのだが・・・。

 帰国後の耿諄さんと初めて面会した日本人であるジャーナリストの石飛仁さんは、70年代から花岡事件の調査を行っている。
 (以前にもこのブログに書いたが)石飛さんは、耿諄さんら花岡蜂起指導者の裁判記録などを元に蜂起が起こったのは7月1日の夜であると指摘している(この件については不勉強な俺には判断できないが)。そのため石飛さんらの研究グループは毎年7月1日に信正寺で慰霊式を行っている。まずは長年花岡事件を研究し鹿島建設と粘り強い交渉を行っていた石飛さんの活動歴を知っておきたい。


 戦時中の労働力不足は朝鮮人強制連行でも補えず、1942年11月「華人労務者内地移入に関する件」が閣議決定され、現地の傀儡組織「華北労工協会」を通じ「契約」に基づいて労務者を移入することになった。つまり「華人労務者」は、契約に基づいた労働者だったのだ。建前は。
 石飛仁さんは70年代から花岡事件の調査を行い、84年からは日本在住の受難者である劉智渠さんや李振平さんらの代理人として、鹿島建設に対し未払い賃金の支払いなどを求める交渉を始めていた。鹿島建設は支払い済みだと主張するが、賃金を受け取ったと証言する受難者はいない。
 85年に劉智渠さんが初めて石飛さんと共に鹿島建設本社を訪れた際も、鹿島の担当者は「賃金を受け取っていないというのなら、その証拠を見せて下さい」と言い放ったという。
 仮に鹿島が中国人強制連行被害者に賃金を払っていたとしたら、餓死者が出ることもなかっただろう。なお花岡鉱山を運営していた同和鉱山藤田組も298人の中国人強制連行被害者を働かせていたが、この「東亜寮」での1年間の犠牲者は11人。一方鹿島組の「中山寮」は、44年8月から45年6月の蜂起の前までに113人が亡くなっている。鹿島の中国人強制連行被害者への扱いは格段に劣悪だったのだ。


 1985年の花岡事件40周年慰霊式の直前、劉智渠さんら受難者と石飛仁さんは衆院議員会館にて記者会見を行った。これが中国でも報道され、耿諄さんは劉智渠さんに手紙を送り自分が健在であることを知らせた。そして同年11月、劉智渠さんと石飛さんは中国河南省を訪れ、耿諄さんと再会した。
 そして石飛さんは耿諄さんに、鹿島との「交渉の全権を劉智渠さんに与える」ことを提案し了承を得た。この交渉のために石飛さんが相談を持ちかけた弁護士が、新美隆氏と内田雅敏氏、西垣内氏だった。新美氏と内田氏を鹿島の担当者である栗田躬範法務部長に引き合わせたのが1986年だったという。
 この三人は「新左翼系の逮捕者の弁護を引き受けて活躍していた」そうだが、特に新美氏と内田氏は東アジア反日武装戦線の戦士の弁護人を務めていた。このような難しい事件の弁護を引き受けたこと自体は、尊敬したいが・・・。再審支援連の方々の話では内田弁護士は非常に情熱家で、とてもお世話になった、という。


 ところがある時、石飛さんが鹿島建設の栗田氏と面談したところ「石飛さんはもう交渉から降りたと、新美弁護士が言っている」と告げられた。もちろん石飛さんは降りたつもりはない。「新美弁護士はもう未払い賃金のことは言っていない、金額が少ないと言っている」という。(前にも記したが)既にこの時、【耿諄・新美隆・内田雅敏・田中宏】グループと、【石飛仁・劉智渠・李振平】グループに分裂していたようだ。
 石飛さんは、日中共同声明で賠償問題は放棄されたので(俺はそうは思わないが)、賠償金を要求することは日中友好に反する・・・という立場だった。故に鹿島に対しては賠償要求ではなく、未払い賃金の支払いなどを求めて交渉していた。これが路線の対立を生んだのだろう。
 何度も言うが、日中共同声明は国家間の請求権を放棄したものであり、個人の請求権まで否定するものではない(日韓請求権協定も同様だ)。しかし2007年4月最高裁は、日中共同声明で個人の請求権も放棄されたとして4件の戦後補償裁判を上告棄却した(参考)。国と戦犯企業の賠償責任を否定するためのまやかしに過ぎない。


 新美弁護士・内田弁護士の主導による鹿島との交渉は進展を見せていた。1989年12月、耿諄さんら受難者の連名で、鹿島建設に対し謝罪、紀念館の建設、一人当たり500万円の賠償を求める「公開書簡」が発表された。90年7月には受難者、弁護団/支援者、鹿島の三者が問題解決を目指すことを約束する「共同発表」が行われた。
 これを危惧した石飛さんは、日本在住の受難者と自分を中心にした交渉に軸を戻すため、「全権を持っていた劉智渠さん」に「新美弁護士と内田弁護士を解任してもらい」、「三人の友人弁護士のうちただ一人、私を裏切らなかった」西垣内弁護士を立てた。
 そして石飛さんはこれらのことを鹿島に通告した。なお石飛さんは、この新たな交渉から耿諄さんの名を外した。「なぜなら、耿諄さんらは日本に残った幹部と私に委託書を書いていた経緯を棚上げしてそれを自ら破っていたからである」
 1991年6月、石飛さんと鹿島の担当者は、会社代表の謝罪、慰霊碑設置、慰霊事業のための5000万円+αの拠出、平和友好基金の設立・・・などで合意を見た。新美氏らの提示よりこちらのほうが鹿島にとって好都合なのは言うまでもない(金額が100分の1だ)。この合意内容は新美氏にも伝えられた。
 しかし1995年6月、耿諄さんら受難者は新美氏・内田氏を弁護人に立てて鹿島を提訴した。石飛さんは交渉継続を断念せざるを得なかった。

 以上は、「花岡事件『鹿島交渉』の軌跡」(石飛仁/著 金子博文/解説 彩流社)より引用。鹿島との交渉の過程については「尊厳 半世紀を歩いた『花岡事件』」(旻子(ミンズ)/著 山邉悠喜子/訳 「私の戦後処理を問う」会/編集 日本僑報社)にも記されているので読み合せてみると興味深い。


 「鹿島交渉の軌跡」を読んでみて、正直言って石飛さんの選択についても支持出来ない部分があるが、新美氏・内田氏ら弁護団とその支援者は鹿島交渉の主導権を得るためになりふり構わぬ行動に出ていたようだ。再び同書より引用。
 95年6月30日、花岡現地のホテルに宿泊していた劉智渠さん・石飛仁さんのもとに来日中の耿諄さんが訪れ、二人と握手した。翌日石飛さんは信正寺で講演会を行う予定だった。劉さんも発言する予定だったという。(ちなみに6月28日に耿諄さんら原告団は東京地裁に訴状を提出していた)
 ところが翌日、新美氏・内田氏の支持者らが乗ったバスが予定のコース(フィールドワークか?)を外れて信正寺に乗り込み、講演していた石飛さんに襲いかかり、ネクタイを引きちぎり、ムチウチ症を負わせた。石飛さんの仲間二人も負傷した。受難者の目前で行われた暴力事件だった。
 しかも彼らは「劉智渠はどこだ」と喚きながら、劉さんが宿泊しているホテルに向かった。劉さんは襲撃を予見してホテルの部屋から一歩も出なかったという。石飛さんは、彼らは劉さんと耿諄さんが和解し受難者が団結することを恐れたようだ、と述べている。
 俺も花岡を訪れた際、この暴力事件を目撃した人から話を聞いた。受難者は唖然として「あれは何をやっているんだ?」と呟いていたという。花岡訴訟の支援者の暴力的行為については以前にも記したが、彼らは和解決着より以前から暴力性を隠さなかったようだ。まるでSEALDs/反原連界隈/日共シンパのようだな。(もちろん両者には直接的な関連は無い。大館市の共産党支持者は「和解」に対して批判的だったと聞いている。しかし行動は似ているなあ)

 なお「画期的な和解」と報じられた2000年11月の花岡訴訟和解決着だったが、石飛さんは和解条項を読んでびっくりしたという。当然だろう。賠償を求めて提訴したのに「信託金」で妥協したのだから。
 「よくぞまあ、これまで私の交渉を排撃し誹謗してきた張本人たちが鹿島建設側のいいなりになって何もかも呑んだものだとおどろいたのである。言っていることとやっていることがまるで違うのである」


 というわけで、2015年7月1日の石飛仁さん主催によるフィールドワークと慰霊式について。石飛さんは毎年7月1日に信正寺で同志の皆さんと慰霊式を行い、花岡川(の河岸)で灯明供養を行っている。午後1時に信正寺からレンタカーに分乗して出発。各所を見学し石飛さんの説明を受けた。


 花岡鉱山事務所跡地


 鉄道引込線の跡地


 第二滝ノ沢ダム(中国人が収用されていた中山寮は土砂の下)

 そして大館郷土博物館の前で一時待機した後、車で獅子ヶ森(標高225m)の東側に廻った。
 蜂起の夜、中山寮から脱出した中国人たちは多くが獅子ヶ森に逃げ込んだが朝までにほとんど鎮圧・捕縛された。獅子ヶ森のそばの芦田子沼の畔でも虐殺が行われた。地元に住む目撃者の男性(当時は小学生)が、中国人が殴打されていた模様を語った。(以前石飛さんがこの地域を調査していたとき、その男性に偶然声をかけられ、虐殺事件の目撃証言を得たという)


 芦田子沼


 このあたりが虐殺現場だったらしい

 この虐殺現場の目印は全く無いので、「TBKリサイクルセンター」の看板だけが頼り(左の山道を入る。車は無理っぽい)



 そして信正寺に戻り、歩いて七ッ館弔魂碑に向かった。この碑から少し離れたところにある公園(管理されておらず、雑草が生い茂っている)が、1944年5月29日の七ッ館坑崩落事故現場だった。

 つまり花岡川は当時この周辺を流れていたのだが、坑道の維持のため水路変更工事が計画され、強制連行された中国人が動員されることになる。


 続いて中国人殉難者供養塔に献花。信正寺の先代のご住職の蔦谷達元さんも発言したが、「以前、6月30日が日曜日だったので慰霊式が行われたことがあり、それが定着してしまった」と仰っていた。なお石飛さんは鹿島建設に、この供養塔を永代供養とするように交渉しているという。

 石飛さんのグループは毎年、慰霊式のあとに花岡川(の河岸)で灯明供養を行っているが、今年は雨天のため信正寺の軒先で行われた。

 ロウソクを入れた紙コップ一つずつに、419人の中国人殉難者の名前が記されていた。

 そして信正寺の本堂で「花岡音楽祭」が行われた。今年は花岡事件70周年ということで、信正寺に数十人が集まった。「サスケ&リリー」というアーティストが「花岡川の赤い花」を歌った。サスケさんは長年音楽活動を続けていてもう還暦を過ぎたという(元々は双子のデュオだったが2年前に弟さんのほうが亡くなられた)。リリーさんは張麗華さんという中国人の女性。


 その後、リリーさんは定番の「時の流れに身をまかせ」などを歌ったが、我々はレンタカーを返却する時間が迫っているのでお暇した。そして高速バスに乗る前に近くの居酒屋でミニ総括集会を行ったが、店員さんがなかなかドジっ子で好感が持てました。せっかちな関東の人間の常識は通用しないんだよ(笑)
 花岡事件70周年の現地闘争はなかなか実りの多いものだった。また今回は久しぶりに花岡を訪れた関係者も多かったようで、埋もれていた事実が明らかになっていくかもしれない。今後の展開に目が離せないだろう。


 それにしても・・・「中国人強制連行を考える会」代表の田中宏氏は、宇都宮健児氏や法政大学総長・田中優子氏やと共に「のりこえねっと」の共同代表に名を連ねている。内田雅敏弁護士は戦争法案反対集会で度々発言していた。
 また、鎌田慧氏も和解を評価している。ドイツ語翻訳家の池田香代子氏も何度も花岡現地を訪れているようだが、訴訟の支援者との関係も浅くないようだ(池田氏はしばき隊界隈とも交流があるようだな)。それに前にも書いたがジャーナリストの梶村太一郎氏や岩波「世界」編集者の熊谷伸一郎氏も和解を称賛している。花岡和解を称賛する「花岡平和記念館」の2010年オープニングセレモニーには福島瑞穂氏(当時社民党党首)も招かれた。
 要するに各界の実力者?が花岡和解を肯定する立場になびいているわけで、花岡和解を非難する識者は極めて少数だ。花岡和解の欺瞞を訴えても大多数の声に押し流されてしまう現状だ。(なおNPO花岡平和記念会理事で秋田県議の石田寛氏は東京を訪れることも多く、志葉玲氏や座間宮ガレイ氏ら影響力のある若手活動家を花岡平和記念館に招いたこともある。花岡和解の評価を浸透させたいのだろうか)。

 これも「野合」というものだ。今まで見てきたように花岡訴訟の弁護団・支援者は、加害企業に謝罪させ受難者の尊厳を回復する、という本来の目的を忘れ、運動の成果を得るため「和解」で妥協した。「画期的な和解」という評価を維持するため少数の声を押しつぶしてきた。全ては自分たちの運動のためだ。そして彼らの声の大きさに、「和解」の実態を知らない(知ろうともしない)人々がなびいていく。SEALDs/反原連界隈が世間の評価を得ているのと同様の現象だ(もっともシールズは下らんトラブルで自壊しつつあるが)。
 もっともこれは、彼らだけを批判すればいいことではない。日本の社会運動の歪みが、日本の社会構造が生んだ現象ではないだろうか。今一度原点に立ち返り、運動の目的は何なのか、それを目指すためどうあるべきかを自問するべきだ。国家/資本家と非和解に闘い、常に被害者の方々の立場を尊重し、見返りなど期待してはならない。決して多勢になびかず、自分で判断しなければならない。そのような闘いこそが情勢を動かすだろう。


 ところで今年、花岡事件の受難者と遺族の宋明遠さんらが大阪地裁に国家賠償を求めて提訴し、10月30日に第一回口頭弁論が行われたという。

◇ 中国人強制連行 受難者を支援する会の墨面さんから「中国人強制連行 国賠訴訟... - 撫順の奇蹟を受け継ぐ会  関西支部


◇ 「大阪・花岡 中国人強制連行 国賠訴訟 第1回公判」チラシに 法廷を埋めつくそう!... - 撫順の奇蹟を受け継ぐ会  関西支部



 実際のところ非常に困難な裁判になると思うが、弁護団は初心を貫徹し闘ってほしいものだ。花岡和解の直前、耿諄さんが新美弁護士に告げた言葉を再び引用する。
耿諄 「もし裁判に負けたら、弁護団にどんな損害があるのですか?」

新美 「いや、何の損害もない」

耿諄 「もし、弁護団にも何の影響も無いのなら、裁判は負けよう!たとえ負けても妥協はしません!歴史的に私たちが踏みとどまるなら、我々は道義の上では勝利したことになります」 「我々は絶対に妥協してはならない!もし妥協してしまったら、我々は上告できません」

新美 「日本の法律は暗い」

耿諄 「日本の法律が暗いのだから、たとえ裁判で敗訴しても、政治的、歴史的には勝訴したことになり、百年後でも私たちは彼らの罪行を暴露する権利があるのです」「我々は絶対に屈服しません。中国人には中国人の尊厳があります。あなた方が『花岡事件』を支持したのは正義感からでしょうが、もし妥協したらあなた方だって不名誉なことでしょう」
 「尊厳 半世紀を歩いた『花岡事件』」P-355〜356
posted by 鷹嘴 at 02:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 花岡事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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