2016年02月19日

【貧しい人 病人 非生産的な人 いて当たり前だ】

 2015年11月、NHK教育テレビで「ETV特集 それはホロコーストのリハーサルだった〜障害者虐殺70年目の真実」という特集番組が放送された。ナチスドイツにおける、ホロコーストに先行して行われた障害者虐殺のドキュメントである。
◇ それはホロコーストのリハーサルだった:T4作戦 障害者虐殺70年目の真実 - Dailymotion動画
 (消される前に見るべし!)
 
 ユダヤ人大虐殺と違って見逃されがちだが、1939年から終戦までのドイツ各地の精神科病院で、回復の見込みがないとされた患者や障害者が家族や外部には一切知らされぬまま、ガス室で、あるいは薬物の投与で虐殺され、遺体は施設の中で焼却されていたのだ。
 ※ご注意 以下はほとんどがこの番組内容のネタバレです!


 30代でパーキンソン病を患った靴職人の男性は、精神科病院に入院させられ極秘に虐殺された。彼は頻繁に妻子に手紙を書いていたが突然手紙が途絶え、病院からは脳卒中で亡くなったという通知が来た。妻は「突然亡くなるのはおかしい、何かが起きたに違いない」と市長に訴えたが、市長は「そんなことを言えばあなたの身が危なくなる」と警告したという。
 障害を持つ17歳の少女「ヘルガ」も虐殺された。彼女の兄の娘のギーゼラ・プッシュマンさん(62歳)はごく最近までヘルガの存在すら知らなかった。父は自分の妹について一切語らなかったのだ。調査の結果、ヘルガは1941年に虐殺されたことが明らかになった。
 「ヘルガ」は自宅の犬小屋に閉じ込められることもあったという。ギーゼラさんは、家族さえもヒトラーのように障害者を殺すべきだと思っていたのではないか、と思うこともあるという。
 障害者を虐殺していた病院から毎日、死体を焼却する黒い煙が上がっていたが、人々は沈黙していた。ナチスドイツの崩壊までに20万人以上の障害者が虐殺されたという。
 殺害に加担した医療関係者が沈黙していたため、ユダヤ人大虐殺と違って注目されなかった。2010年10月ドイツの精神医学会が公式に謝罪を表明し、歴史家に調査を依頼し2015年に記録が完成した。


 この調査の結果、医療従事者たちはナチスに強制されていたわけではなく、自ら進んで虐殺を行っていたことが明らかになった。20世紀初頭、精神病の治療法が開発され多くの患者が治癒したが、ドイツ各地の精神科病院は根本的に治療法の無い大勢の入院患者が重い負担になっていた。
 この時代、ダーウィンの「種の起源」が説く自然界の弱肉強食が歪められ、劣等な人間は淘汰されるという「社会ダーウィニズム」という思想を生んだ。これが、優秀な遺伝子を持つ人間だけを残して行こうという優生学と結びつき、医学界にも影響を与えた。ドイツ精神医学会のトップ、エルンスト・リューデン(精神科医/遺伝学者)も、優生学の研究を進め、研究所でドイツ人全員の家系図を調査して遺伝的価値を調べようとした。
 1920年には、精神科医と法律家らの共著「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」という本が出版され、「生きるに値しない障害者などを生かしてきたのは行き過ぎの行為だった。彼らの排除、つまり殺害は決して犯罪ではない。むしろ社会にとって有益である」と結論付けていた。
 そして、こうした思想にヒトラーが目を付けた。ヒトラーは「我が闘争」で
 肉体的にも精神的にも不健康で無価値な者は子孫の体にその苦悩を引き継がせてはならない。
 国家は幾千年も先まで見据えた保護者としてふるまわなければならず、個人の願いや我欲などは、なんでもないものとしてあきらめるべきである。
 と述べていたのだ。
 そしてナチスの政権掌握(1933年)の同年、「遺伝病の子孫を予防する法律」・・・通称「断種法」が制定され、知的障害者、身体的/精神的障害者、精神病患者やアルコール中毒者は子孫を作れないことにされた。エルンスト・リューデンは「ヒトラーのおかげで30年間私たちが夢見てきた優生思想が実現された」と語った。
 この法律によって多くの人々が断種手術を強制された。障害を抱えていた12歳の少女も断種手術を受けさせられ、妊娠している視覚障害者の女性は中絶、断種された。収用された施設から一歩も外に出ないと約束すれば断種手術を免れたという。


 ヒトラーは大規模なインフラ工事を進め景気回復と失業率改善を実現し、またナショナリズムを刺激することで、熱狂的な支持を得ていた。
 1936年にはベルリンオリンピックを開催しドイツ民族の優秀さを誇示する一方、福祉や社会保障は大幅に削減した。ポスターや映画で、遺伝病患者・障害者への費用が莫大な負担になっている、とプロパガンダを行った。こうして大衆を扇動してナショナリズム/レイシズムを増幅させ弱者を排除する政策と、医学者らの似非科学の目的が一致したのだ。
 1939年にポーランド侵攻が開始され、この混乱に乗じてヒトラーは、治癒できない患者を安楽死させることを承認する極秘の命令書にサインした。こうして「T4作戦」・・・障害者絶滅作戦が開始されるのである。
 病院に調査票が配られ、退院の見込みはあるか、労働者として使えるかを判定させた。「殺していい」と判定された患者は辺鄙な土地にある病院や施設で「最終的医学処置」が施された。ナチスや医学者はこれを「恵みの死」と呼んだという。


 このような施設の一つだったハダマー精神科病院を、日本障害者協議会・代表の藤井克徳さんが訪問した(障害者の人権問題に取り組んできた藤井さん自身も視覚障害者である)。現地の研究者に案内された藤井さんは、かつてのガス室の壁の感触を確かめ、虐殺された障害者たちの無念さに思いを巡らせていた。
 藤井さんのドイツ訪問は、2015年11月1日・東京新聞【こちら特報部 戦時下 障害者切り捨て】でも取り上げられているので、この記事から引用する。
 T4作戦は遠い過去の遠い国の話とは思えない。今の日本と重ねながら、ドイツで起きた戦争の矛盾を自分で確かめたかった

 障害者や病人を積んだバスが車庫に入ると扉が閉まる。一つしかない出口を進むと脱衣所があり、服を脱いで診察を受ける。医師は、心臓まひや脳出血など60種類の死因から適当に選び、カルテに記入したという。
 続いて、階段を17段上がると12平方bの部屋に50人が入れられ扉が閉まる。医師は小窓から中を見ながらガス栓をひねる。10分間で死に至り、20分間放置して、今度は扉を開く。職員が死体の脇の下に手を入れ、滑りやすく加工した床の上をひきずり、焼き場へ運んだ

 高さ1bの壁面に残るガス管の穴の感触が忘れられない。T4作戦はユダヤ人虐殺前夜の壮大な殺りく実験だった。しかし、ユダヤ人虐殺に比べ、長らく目が向けられなかった。惨劇の闇の深さを物語っている


 当時、精神科病院の看護師や介護士は医者に無条件に従う時代だったという。障害者に生きる価値は無い、という「プロパガンダの連続射撃」を受けていたのだ。戦後尋問を受けた看護師は、障害者虐殺に加担したことを正直に語りながらも「私は生涯一度も悪いことをしたことはない」「私は真面目で良心的に働いた」と述べていたという。まるでアイヒマンのような「凡庸な悪」だな。
 障害者が虐殺されて焼却されていた施設からは常に煙がたなびいて不快な臭いが漂っていた。障害者を乗せた満席のバスが施設に入っていっても、出てくるときはいつも空席だった。周辺の住民は不審に思いながらも沈黙していた。戦場から帰って来た兵士が「死体が焼かれる臭いと同じだ」と言うと、「人々はびっくりして声を潜めた」という。
 市民たちは「どうせどうすることもできない」とあきらめていた。施設の中で行われていることは自分たちとは関係ない、と距離をとっていた。
 しかしこの事態に一人の宗教者が立ち上がった。


 ミュンスター司教のクレメンス・アウグスト・フォン・ガーレンも、信者たちの家族が殺されている噂を耳にして憤っていた。そして1941年の夏、(障害者虐殺は)「恵みの死ではなく、殺人だ」と断言した。ナチスの秘密警察は、フォン・ガーレンの説教の原稿を没収しようとしたが、彼の言葉は書き写されて全国の教会に広まった。彼が説教を行った教会の一つである聖ランベルティ教会に、その言葉が残されている。
 貧しい人 病人 非生産的な人 いて当たり前だ
 私たちは 他者から生産的であると認められたときだけ
 生きる権利があるというのか
 
 非生産的な市民を殺していい、という原則ができ 
 実行されるならば
 我々が老いて弱ったとき 我々も殺されるだろう

 非生産的な市民を殺してよいとするならば
 いま 弱者として標的にされている精神病者だけでなく
 非生産的な人 病人 傷病兵
 仕事で体が不自由になった人すべて
 老いて弱ったときの私たちすべてを
 殺すことが許されるだろう

 全く当然のことだ。人の生存権を他者が左右する権利がどこにあるのか?ある個人が国家と資本にとって「非生産的」だとしても、それがどうしたのか?
 それともここで指摘されているように、労働者は定年まで勤めた後は速やかに生涯を終えろというのか?労働災害で障害を負い就労が不可能になれば、さっさと首を吊れというのか?
 ふざけるなと言いたい。貧しい人、病人、非生産的な人、いて当たり前なのだ!この言葉を何度でも繰り返したい。
 この、あまりに的確かつ分かりやすくナチスと医学界の犯罪を糾弾したフォン・ガーレンの説教は、全国のキリスト教団体、教会、防空壕に避難している市民らに届けられた。動揺したヒトラーはこの説教が始まってからわずか20日後の1941年8月24日、T4作戦中止を命じた。

 障害者虐殺の第三者調査委員会委員・歴史家のハンス=ヴァルター・シュムール教授は次のように指摘する。
 「中止のきっかけは、司教が公然と患者殺害の事実を述べ、それは法律上殺人だと、正しく言ったからです。
 このことで分かるのは、市民として勇気を出して公然と声を上げれば、政府の行動を阻止する余地があったということです。
 ナチスのような政権も国民の感情をとても気にしていたのです」

 しかしT4作戦中止の後も、障害者虐殺は密かに行われていた。

 (つづく)
posted by 鷹嘴 at 01:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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