2018年09月02日

メモ:山本宣治の闘い

 戦前の治安維持法による恐るべき弾圧・拷問と、衆議院議員・山本宣治らの闘いについて、ググれば出てくる程度の資料だが載せておく。「治安維持法 弾圧と抵抗の歴史」(松尾洋/著 新日本出版社 1971年11月20日初版)より引用。


 1925年(大正14年)5月に治安維持法が施行され、1928年(昭和3年)にはこの悪法によって日本共産党、労農党、日本労働組合評議会などの関係者多数が弾圧された三・一五事件が発生した。
 1929年2月8日の衆議院予算委員会にて労働農民党(労農党)の山本宣治議員が、弾圧被害者へ恐るべき拷問が行われたことを告発し厳しく糾弾している。
 (函館警察署に勾留された福津正雄という容疑者は)「コンクリート建の洗面所か浴室のようなところに、冬の寒空に真っ裸で四つ這いにさせられて」、(刑事が)「お前は労働者だから北海道の労働運動をするんだというので、竹刀でなぐって、そのコンクリートの上を這いまわらせた。そうして『もう』といわせ、あるいはその床をなめさせた。三〜四〇回も、つまり困迷におちいるまで竹刀で哀れなる青年の尻をたたいて、走り回らせた」

 (静秀雄という被告は)「これはまた竹刀で繰り返しなぐられて、じぶんは既に悶死した。ふと目がさめたら、枕もとに茶碗に線香が立ててあった。すなわち、責め殺したものと思うた人間が、さすがに死んだ者の恨みが怖いか、冥福をとむらうために、その死体と見られた者の枕辺に線香を立てておいた。こういう風な実例は多くあります」

 「用いられた道具は例えば、鉛筆を指のあいだにはさみ、あるいは三角型の柱のうえに坐らせてその膝のうえに石をおく、あるいは足をしばって逆さまに天井からぶら下げて、顔に血液が逆流して気絶するまでうっちゃらかしておく、あるいは頭に座布団をしばり付けて竹刀でなぐる。あるいは胸に手を当てて肋骨のうえをこすって困迷におとしいれる。あるいは生爪をはがして苦痛を与える、というような実例がいたるところにある」
 江戸時代のような拷問だな。そりゃ映画や劇画の中でしか知らん話だが、「カムイ伝」で百姓一揆の首謀者を役人が責め立てるような残忍さだ。こんなことが20世紀に行われていたんだな。

 (全国各地それぞれ別々の警察署で取調べを受けた被告らの証言が)「偶然暗合している。どう暗合しておるかというと、取調べの任にあたった人間は、いつも顔見知りの高等係ではなくして、泥棒や掏摸を相手にしている司法係や治安係という腕節の強い人間が来ていうには、お前がた三人、四人殺したところで上司は引き受けてくれる、昭和の甘粕だからうんとやるというようなことをいうてやった。
 これが偶然の暗合であるならば甚だ奇妙なことでありまするが、もしそういう風な事例が全国的に出たとするならば、これは由々しき大事でありまして、政府それ自身が行政警察規則の第何条でありますか、懇切丁寧にすべしということを、みずから蹂躙している・・」
 この質問に対する政府委員の秋田某の答弁は実にふざけたものだった。

 「・・この聖代において、想像するだに戦慄を覚ゆるような事態が果たしてあるでございましょうか。・・私は、明治大帝以来歴代大御心が国民の上にきわめて優渥である、また責任ある政府者は、その大御心を体して蹇々匪躬の節をつくしておりまして、部下、下僚の末にいたりまするまでもこれらの点については相当の注意と努力をいたしておるはずであります。
・・如何にしても左様な事態が、随時随処において、わが国内にあいておこなわれたりとのお話しには、断じて承服することができませぬ。私は、左様な事実のあったということを信じませぬ。
 したがって、これを基礎として政府が如何なる態度をとるか、それに対して政府が如何なる考えを持っておるかというお尋ねに対して、お答えを申し上ぐるの必要を感じませぬ」
 要するに、政府側としてはそういう話は信じたくない、だから事実だと認められない・・・ということだ。ネトウヨがよく使う言い草だな。自分としてはそれを信じたくない立場だ。自分の立場は絶対的に正しい、故にそれは事実ではない、という・・・。
 これは戦前の話だが、こういうあからさまな開き直りをする連中、現代でも多いな。だんだん増えてきているような気がするなあ。それにしても「この聖代」とは笑わせてくれる。1868年に天皇制がでっち上げられて以降、日帝がアジア人民に何をしてきたか知らんのか?知ってて言ってるんだろうな。


 山本宣治はこの言い逃れ(というか答弁拒否だな)に匙を投げることなく、鋭い論鋒で追及を続けた。
 「・・これが全部虚構の事実であるといわれるならば、私はその事実をこの委員会において許す限りお答え申したいと思う。現に各所における共産党裁判は、どこにおいてもその取調べの処置の当を得なかったというのは、被告がその事実を係官の名をあげて申し立てておるのを、弁護人は聞いておる。
 札幌における裁判のごとき、私は当日傍聴しましたが、ある婦人の被告は、その取調べの最中において、その被告の一五になる娘が、言語に絶したる辱しめをこの取調べの官吏から受けて、それを見て腸を断つ思いをした。あるいは、その女被告の鮮血に染まれる衣服の一点が残っておったが、それが何処ともなく消えていって、証拠が隠滅されたというようなことで、その話を聞いている裁判官、それらの方がたも面をそむけたというような例すらある」
 「私は決して嘘言を申し立てているのではない。もし、いまの政府が、種々なる政治をおこなう場合に当たって、かくの如き暗澹たる犠牲者をそのなかに生ぜしめねばならぬという風なことであれば、その政府の方針は非常に反社会的のものであるといわなければならぬ。
・・ただいま申し上げました実例にかんしては、全部責任ある事実にもとづいた陳述である。これにかんして当局が如何にせられるか、とにかく我々は、あくまでこの現代の社会における九七パーセントを占むる無産階級の政治的自由、これを獲得するために、こうした暗澹たるこの裏面には、犠牲と、血と、涙と、生命までをつくしておるということ申し述べて、私の質問を打ち切ります」
 しかし秋田某は先ほどと同様の言い逃れを続けるだけだった。

 「政府としては、ただいま山本君の述べられました事実のあるということを、断じて認めることはできませぬ。したがって、存在せざる事実を前提として、これに対して所見を述べる必要はありませぬ」
 すごいねえ、「認めることはできぬ」話=「存在せざる」話、になるんだから。これが日本帝国主義の基本スタンスだ。いまでも変わってないな。


 なお1929年にも四・一六事件と呼ばれる、共産党員への大弾圧が行われたが、この公判の代表陳述にて共産党幹部の国領五一郎が拷問の凄まじさを告発している。
 「・・日本の警察は、共産主義者をまったく一寸きざみ五分きざみになぶり殺しにするか、ほとんど死にいたるほどの激しい拷問によって当人の息の根を止め、気絶させる。気絶するとこれに注射をして蘇生させ、一週間か五日寝かしておいて、元気が回復すると、二度三度引きずり出してこの種の拷問をくり返す。
 私も一週間に半殺しになる程度の拷問を四回も四回もおこなわれたことがあるが、かくして例えば四・一六の検挙によって横浜警察に逮捕された同志窪田は、八五日間警察で拷問を加えられ、この間党の機密を一言も口外しなかったから、ついに死骸となって警察の門外に運び出されて来たのである。
 さらに神戸、たしか湊川署・・・ちがうかもしれないが神戸の警察において同志平井正雄は、逆さに縄をつけて天井に吊し上げられ、鼻の穴に唐辛しを入れられるというような残虐な拷問によってついに虐殺された。三重の松坂警察署において同志大沢がやはり拷問によって虐殺されてしまった。昨年は東京の警察署において同志大乃木が、やはり極端なる拷問によってこれは釈放されたが、警察ではまだ生きて出たといっているが、家族が受け取った時はすでに冷たくなっていた。
 この種の警察における白色テロルに対する実例は、これ以上なお多くの事実があるのである。要するに吸血鬼的な治安維持法によってわれわれ共産主義者を断罪せんとするに当り、日本ブルジョワジーは、その門口の警察においてすでに一〇人に近い共産主義者を虐殺しているのである・・」



 ここで少し整理するが、三・一五事件は1928年、上記の山本宣治の国会質問は1929年2月8日である。
 1928年の三・一五事件によって打撃を受けた共産党、労農党、日本労働組合評議会は直ちに再建を目指したが、1928年4月10日、労農党、評議会、無産青年同盟の3団体は警視庁から治安警察法第8条2項に基づき結社禁止を命じられた(言うまでもなく当時は日本共産党は非合法組織)。しかし労農党書記長・細迫兼光は新聞記者に「当局が百たび解散すれば、百たび結党するまでだ」と語ったという。
 一方日本政府は同年6月29日、議会を通さずに「緊急勅令」によって治安維持法を「改正」し、最高刑は死刑となり、「結社の目的遂行の為にする行為を為したる者」も罪に問えるようになった。何も知らずにチラシ配りやポスター貼りを手伝った程度でも弾圧できるようになったのだ。
 このような重大な法改悪が、議会での審議を通さずに行われたのである。如何に戦前の日本が独裁国家であったか示している。当時の「東京朝日新聞」も「緊急勅令をもって人を死刑に処するということは前代未聞、而して必ず絶後なるべきことである」と批判した。
 そして1929年1月、第56回帝国議会に治安維持法改悪の事後承諾案が提出された。衆議院委員会に山本宣治は加われず、3月2日には衆院本会議に提出された。傍聴席からは「労働者・農民の死刑法=治安維持法を葬れ!第五六議会を即時解散しろ!労働者・農民の政府をつくれ!」と書かれたビラが撒かれたという(撒いた者は直ちに連行された)。
 
 なお山本宣治は採決の前日、大坂天王寺公会堂で行われた全国農民組合大会に参加し演説を行った。
 「・・・われわれの戦闘は日に日に激しくなり、いままでわれわれの味方として左翼的言辞を弄していた人まで日に日に退却し、われわれの頼みになると思っていた人まで、われわれの運動から没落していった。かれらは、合法主義とか何とかいって行く。・・・だが、こうした人びとに対して、われわれの与える言葉はこうである。“卑怯者は去れ、われわれは赤旗守る”。
・・・明日は、“死刑法=治安維持法”が上提される。私は、その反対のために今夜東上する。反対演説をやるつもりだが、質問打切りのためやられなくなるだろう。実に、いまや階級的立場を守るものはただ一人だ。だが、私は寂しくない。山宣ひとり孤塁を守る。しかし、背後には多数の同志が・・・
 ここまで話したところで警官に中止させられてしまった。
 そして3月5日衆院本会議にて、労農大衆党の水谷長三郎が反対演説を行うも、与党の政友会からの討論打切り動議が出され、山本宣治の発言の機会は失われた。こうして治安維持法「改正」の事後承諾案が可決された。


 その夜、山本が常宿としていた神田の旅館光栄館に、右翼団体「七生議団」の黒田保久二と名乗る男がやってきて、山本に「自決勧告書」を突きつけた。山本が「とにかくお預かりしましょう」と受け取ると、黒田は突然ナイフを山本に突き刺した。山本は頸動脈を切断させ骨に達する傷を負いながらも黒田に組み付き、「もつれるように階段を下りたが、玄関のところで引きちぎった男の袂を右手ににぎったまま絶命した」。
 3月8日、本郷の仏教青年会館で山本の告別式が行われ、1000人以上が参列に訪れた。京都府宇治市の墓石には彼の「山宣ひとり孤塁を守る、だが私は淋しくない、背後には大衆が支持しているから」という碑文が刻まれた。しかし宇治警察署これをセメントで塗りつぶし、「山本宣治の墓」も「山本家の墓」と訂正させた。しかし碑文はいつのまにか誰かが掘り起し、また官憲が塗りつぶすというイタチごっこが続いたという。
 前述のようにこの年には四・一六事件が行われ、共産党員や支持者、労組ら多数、それに国領五一郎ら共産党幹部のほとんどが弾圧された。
 以上、「治安維持法 弾圧と抵抗の歴史」より引用。

参考:
◇ 山本宣治ってどんな人?
◇ 小林多喜二、山本宣治が殺されたわけは?
◇ JCP京都山本 宣治〈墓〉
◇ 日本の墓:著名人のお墓:山本宣治


 山本宣治を暗殺した黒田保久二という男について、ウィキペディアの記事によると、みじめな晩年の中で山本暗殺の黒幕の存在をほのめかしていたという・・・。ともかく、右翼団体だろうがそこらのネトウヨだろうが、それぞれの時代の日本の統治機構や資本家の忠実な下僕であり、時として凶刃を振りかざすことを忘れてはならない。自滅に向かっていることに気付かない愚か者ではあるが、社会に対して極めて危険な存在だ。
 こういう愚か者どもの支持を集めて増長しているのか、現在の日本政府は戦前への回帰を恥じることはない。
 (何度も言うが)戦前の治安維持法と、昨年成立した共謀罪、この二つの悪法の性質と目的は同一だ。一方は「国体の変革」「私有財産の否認」を罰し、一方はテロや犯罪の相談(プラス下見)を罰するというが、これらは単なる口実に過ぎない。日帝にとっては共産主義だろうがテロだろうがどうでもいいんだよ。
 これら悪法は権力によって曲解も可能だ。誰でもいつでも弾圧される危険がある。仲間を集めてサークルを作れば「共産主義の勉強会だろう」と疑われる。仲間を集めて話し合えば「テロの相談をしだろう」と疑われる。ほぼ同じではないか。
 要はどちらも、現政権への批判の声を封殺するための弾圧法だ。国家による脅しだ。

 それにしても、この「治安維持法 弾圧と抵抗の歴史」を読んでみると・・・治安維持法阻止のため多くの国会議員、活動家らが命を賭して闘っていたのは勿論のこと・・・明治時代の初期から労働者が、日帝・資本家と非和解に闘っていたことに気付く(たとえば長崎県高島炭鉱で初めて炭鉱労働者が決起したのは1870年(明治3年)、山梨県甲府の雨宮製糸工場における女工ストライキは1886年(明治19年)だという)。明治以降の・・・すなわち日本の近代の歴史は、労働者人民の闘いの歴史だったのだ。
 昨年、治安維持法が「共謀罪」と名を変えて復活した。この悪法は何としても廃止に追い込まなければならない。我々も山本宣治のような覚悟で・・・とまでは言えないが、この社会は統治機構や資本家のためにあるのではなく、我々労働者人民のものであることを改めて確認しよう。そうすれば我々の勝利は目前だろう。



※ 追記: 2018年11月19日、長野県上田市の別所温泉に一泊し、翌日全くの偶然だが山本宣治の記念碑に出会った。





 山本宣治と文学者のタカクラ・テル、地元議員の齋藤房雄の記念碑が並んでいる。別所温泉観光案内図のBの部分。常楽寺から安楽寺に行く途中にあるから分かりやすいと思う。





 山本の義兄弟にあたるというタカクラ・テル(高倉輝)は「上田自由大学」で講師を務め、別所温泉に在住していた。1929年3月1日、長野県上田市や小県郡の農民組合連合会の招きで山本が講演を行い、一千人以上の聴衆が集まった。山本暗殺の4日前である。
 翌年農民組合連合会は山本を追悼する記念碑建立を計画した。しかし権力の妨害によって設置する場所が定まらない。村議会にて齋藤房雄が自分の土地(タカクラ・テルが住んでいた借家)に設置すると宣言し、1930年5月1日(メーデー)に設置された。
 しかし1933年の「二・四事件」でタカクラは弾圧された。警察は齋藤に山本の碑の破壊を命じたが、齋藤は密かに碑を自宅の庭に埋めて隠し、警察には破壊したと説明した。
 1971年、この場所に再建された(以上、現地の説明パネルより)







posted by 鷹嘴 at 23:27| Comment(0) | 共謀罪は廃止だ! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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