石井四郎は千葉県千代田村(現在の芝山町)出身であり、大勢の地元民を自分の部隊に配属させていた。戦後、故郷の千代田村に戻った元七三一部隊の隊員らのうち、成田空港反対同盟に加わって闘った人々もいたらしい・・・。
石井四郎は1892年、千葉県千代田村大里加茂(現在は芝山町)で生まれた。石井家は地主であったが生糸・繭の仲買や酒造、さらに高利貸を手がけ財を成した。いわば地元の実力者だった。借金を返せない者からは農地を奪い、寄生地主となっていったという。秀才だった石井四郎は京都帝国大学医学部に入学し、卒業後は幹部候補生の待遇で陸軍に入隊した。
1931年、日本帝国主義は中国東北部を侵略し「満州国」をでっち上げた。そして石井は、ハルビン市平房区に設けられた「関東軍防疫給水部」を率い、残忍な人体実験と虐殺を始める。
終戦後、石井は人体実験の研究結果をアメリカ軍に提供することで戦犯としての訴追をかわし、都内で開業医をしていた。千代田村は1957年(昭和32年)に二川村と合併して芝山町となる。そして石井は1959年にガンで死去した。
1966年に新東京国際空港を千葉県成田市に建設する方針が明らかになると、千代田村大里加茂の農民も決起した。空港反対同盟を組織し現在も闘っている加瀬勉さんは、この活動の中で奇妙なことに気付いた。
(以降は「ABC企画NEWS」2018年4月・会報第113号 2018年3月3日・加瀬勉さん講演記録より引用)
芝山反対同盟は大里加茂の農協を拠点にしていたが、農協職員で反対同盟の世話もしていた石井という若い女性は、実は中国東北部の平房生まれだった。しかも彼女の父は(加瀬さんと同じく社会党の専従職員だった)、戦時中は七三一部隊に所属し虐殺された遺体を焼却する業務の責任者を任されていた。彼の家は自作農で財産もあり、わざわざ中国に渡る必要はないはずだった。実は彼は石井四郎の親戚であり、頼まれてこの任務についたという。極秘の任務であるから、医学者など専門性の高い業務以外はなるべく身内に任せたかったのだろうか。加瀬さんはこの石井氏に、七三一部隊のことを教えてほしいと懇願したが、全く応じてくれなかった。
「石井四郎の『秘密は墓場まで持って行け』の言葉通り、彼はそれを貫いた」
■ 加瀬さんは幼い頃から、地元と七三一部隊の繋がりを感じていたようだ。たとえば加瀬さんが7歳のとき(1940年)、大人たちが妙に騒いでいた記憶があるというが、それは「石井式濾水器」の実験だった。石井四郎が村民、村会議員、国防婦人会、在郷軍人ら大勢の見物人を集め、大里加茂の小川でくみ上げた水を自ら開発した濾水器で浄化し、石井自身が飲んでみせたという。
また叔父の加瀬桂さんから、軍隊経験を聞かされることもあった。1939年のノモンハン事件の際、上官から「我が軍は細菌戦を行っている」と注意を促されたこと、その時に「石井式濾水器」の水を飲んだこと。非戦闘員を「討伐」と称して拉致し平房へ連行したこと。石井四郎の部隊は航空機で低空飛行しノミを落していたこと(即ち細菌戦)など・・・。
そして加瀬さんはこの闘いの中で、反対同盟の中にも元七三一部隊関係者が少なからず存在することを知る。反対同盟が日中友好協会に招待されて訪中することになったとき、ある人は直前になって「一身上の都合」でキャンセルした。後に知ったが彼もやはり七三一部隊の元隊員だった。彼の兄も同じく元隊員であり、その人の農地の地主は石井家と親戚であり、その地主の一家にも七三一部隊の元関係者がいて、ある部門の責任者を務めていた。
石井家と縁故関係がある者や、石井家の小作人ら多くが、平房に渡り特設監獄の業務や、収容者(即ち「丸太」という隠語で呼ばれていた、人体実験の被害者)の監視など極秘任務を任され、当時としては破格の収入を得ていた。
また、加瀬さんは少年行動隊も組織したが、ある少年の親が「加瀬さん、うちの息子も15歳だから元服だ。お祝いだ。村の産土神にお礼参りに行ってくれ」というので、その少年ら数人を連れて地元の産土神である春日神社に行った。そこで目を引いたのは大きな「忠魂碑」で、「石井四郎医学博士 謹書」と刻まれていた。
千代田村は1957年に合併して芝山町となったが、その記念ということで村長ら有力者が中心となって資金を募り、この大きな忠魂碑が建てられた。そして千代田村の「出世頭」である石井四郎医学博士に揮毫を頼んだというのだ。貧しかった村人たちは平房で高い賃金で雇われた恩を忘れていなかった。
国際的に見れば石井四郎は残虐な人体実験と虐殺を率いた戦争犯罪人だ。東のヨーゼフ・メンゲレだ。しかしこの千代田村では、村を豊かにした「恩人」であり「偉人」だった。
だから芝山町の反対同盟の面々も、普段は大声で「機動隊、こん畜生!」と勇ましく闘っているが、加瀬さんが七三一部隊や石井家のことについて質問すると、「それは誰それに聞いたほうがいいよ・・・」と、「急に話のトーンが落ちてヒソヒソ話になってしまう」。「そしてそのことを本人は気付かない」。
■ 恥ずかしながら俺はこの事実を全く知らなかった。もちろん「七三一部隊の元関係者に空港反対運動に関わる資格など無い!」なんて言うつもりはない、全くない。しかし、自分が残虐な戦争犯罪に関わったことを率直に認め、それを乗り越えて闘うべきではないか。「話のトーン」を落とすことはない!
加瀬さんは長年三里塚で闘う中で、「つくづく感じる」ことは、
「我々は、戦争の事実に対してちゃんと向き合って、その真実に対し理解し正しい歴史観を、私自身も含めみんなが身に付けていくことを、怠った」ということである・・・。
三里塚闘争が始まり、全国から何万人という人々が集まってきた。しかし誰も、七三一部隊の石井四郎が千代田村で生まれたことを知らない。森村誠一が赤旗に「悪魔の飽食」の連載を始めたのは1981年、ようやくこの恐るべき戦争犯罪が広く知れ渡った。三里塚芝山連合空港反対同盟が結成されたのは1966年だ。「その間、私を含めて、731部隊に対しては何の知識も無いわけですよ」
「天皇の軍隊の凶暴性を余すことなく発揮したのが731部隊です。もっとも典型的な天皇の軍隊の凶暴性の所、即ち千代田村加茂ですよ。そこに反対同盟を組織したわけです。ここに本物の闘争が出来れば日本は変わる。空港闘争に勝利すれば、日本は変わる。絶対の確信がありましたよ。ここで敗北したら、ここでお手上げになる(ような)闘争をしたら、日本は変わらない。そういうことで頑張ってきました」
■ というわけで・・・今年6月の三里塚フィールドワークの際に訪れた、石井四郎と関連のある場所の写真を貼っておく。ほんの数枚だが。訪れた場所はこのグーグルマップにピンを刺しておいたのでご参考にどうぞ。
石井四郎が揮毫した忠魂碑がある春日神社
裏側には多くの地元の人々の名前が刻まれているが・・・どういう関りなのか不明。
「石井式濾水器」の実験が行われた、どこにでもあるような小川。田畑の排水路と思われる。「高谷川」というらしい。
この橋自体は昭和39年竣工か。
また機会があれば三里塚フィールドワークに参加したい。元七三一部隊と芝山町の歴史を、日帝の加害事実を追及するのは勿論のこと、市東孝雄さんの農地を守るため、成田廃港のため、微力ながら闘おうと思う。
※追記1: 以降は「悪魔の飽食」(森村誠一/著 光文社 昭和57年3月25日 18刷)より引用。石井四郎という人間は、その頭脳、バイタリティなど大したものだったようだが、夜の遊び方も驚くべきものだったらしい。
1932年頃、毎晩のように(???)市ヶ谷から神楽坂の料亭へ車で乗り付け、ただ芸者遊びするだけではない「神楽坂のお大尽」がいる、という噂が立つほどだった。
神楽坂と言えば歴史を感じさせるオシャレな街というイメージだが、戦前は「芸妓置屋」が軒を連ねた「花街」だった。人身売買された貧しい家庭の少女が働かされ、ときには売春を強いられたようだ。
石井は料亭の奥座敷にあがるなり「若い別嬪の妓は入っとらんか。お前の店はババアばかりじゃないか」などと騒ぎ、店に入ったばかりの15、16の娘がいると聞けば女将に「半玉として座敷に出せ、寝させろ」と要求し、水揚げ代として100円を渡した。当時の若いサラリーマンの3ヶ月分に相当するという。
※余談だが、当時の100円とはどれほどの価値だったのか、以下のページを参考にして当時の米価と比較してみた。
◇ お米を表す単位 お米とごはんの基礎知識
◇ 米価 - Wikipedia
1932年の1石あたりの米価が25.16円。
1石は1000合であり、1合は約160gであるから、1石は160s。
ということは米1sで約0.157円。10kgで1.57円。
石井が支払った100円は、米にすると約636kgということになる。10sの米袋が63袋か。米屋が開けちゃうね?
料亭というのは政治家などが密談するような高級料理店だと思っていたが、こういうオプションもあったようだな(戦前は)。石井四郎とは・・・お調子者だったと言われていたようだが、こういう人間だったのか。
それどころか、時には「実験」と称し、芸妓を何人も連れてハイヤーで湘南方面の旅館に出かけてトライしていたんだと。羨ましい性豪ぶりだなあ?この実験が成功したかは定かではないが、一体そんな金がどこから出てくるのか?
ただの金持ちスケベオヤジならまだしも、妙に目立つ。身の丈六尺、容貌魁偉、武道を学んだ者らしい機敏な動きで、三つ揃いの背広を着こなし、態度も尊大だ。しかも市ヶ谷から通っている。いかにも怪しい。
通報を受けた牛込警察署は、職業軍人ではないかと判断し牛込憲兵隊に報告した(戦前は警察が軍人を取り調べることは出来なかったという)。そして憲兵隊はこのお大尽の身元は陸軍軍医学校教官の石井四郎三等軍医正であることを突き止めた。さらにはこの軍医と、「帝国医療株式会社」のただならぬ関係も明らかになった。
石井が開発した「石井式濾水器」は、中国侵略やノモンハン事件を通じて、日本軍にとっての防疫上重要な装備となっていく。この生産を一手に引き受けたのが「帝国医療株式会社」だった。この企業関係者と石井の双方を逮捕した憲兵隊は、5万円という大金が動いていたことを知る。この企業が陸軍に売り込みをかけていた時期かもしれない。
こうして石井の軍人生命も終わり・・・になるはずだったが、陸軍上層部から「内命」が下り、石井はわずか10日間で不起訴釈放された。牛込憲兵隊は地団駄踏んで悔しがったそうだが、何しろ憲兵隊は日本軍の組織だからな。滅茶苦茶な時代だなあ(そりゃ今でも日本は変な社会だけど)。
石井の上司である永田鉄山という軍人が「石井はやがて役に立つ男。縄を打たせるには惜しい」と、裏工作をしたおかげだという。石井は七三一部隊の隊長に永田の胸像を飾るなど、終生永田への恩義を忘れなかったそうな・・・。それにしても、永田とは相当に評価の高い軍人だったそうだが(1935年に皇道派に暗殺された)、このとき彼が石井を見捨てていれば、七三一部隊による残忍な人体実験・大虐殺も起こり得なかったのだが。
※追記2: これも「悪魔の飽食」(森村誠一/著 光文社 昭和57年3月25日 18刷)より引用。
1945年8月9日、ソ連軍の「満州」侵攻が開始され、七三一部隊は直ちに非人道的行為の隠滅、生き残っている収容者(即ち「丸太」という隠語で呼ばれていた、人体実験の被害者)の虐殺、建屋の爆破に取りかかり、そして逃走を始めた。もし数々の所業の証拠がソ連軍の手に落ちれば必ず戦犯として裁かれ「全員銃殺は免れない・・・」と恐れたのだ。
専用の貨物列車によって七三一部隊の隊員とその家族らが逃走を始めたが、1945年8月16日の夜、新京駅に停車中に、「只今から石井閣下のお話しがあるから」と、家族らが一旦ホームに降ろされた。
「日本は負けた。お前たちは今から内地へ帰す。だが七三一の秘密をどこまでも守り通してもらいたい。もし軍事機密をもらした者がいれば、この石井はどこまでもしゃべった人間を追いかけるぞ!いいな」部下が持つロウソクに照らされた石井の顔はまるで悪鬼のようだったという。
さてこの石井の脅しが効いたせいではないだろうが・・・著者の森村誠一氏の取材は核心部分で、加瀬さんと同様の壁に当たった。七三一部隊にて「丸太」が収用されていた特設監獄「7棟」「8棟」に勤務していた「特別班員」らが、「それは石井四郎閣下の軍機に係わることなので他言無用です」などと、取材を拒むのだ。彼ら特別班員の多くが石井四郎と同郷、つまり千葉県千代田村出身だった。既に(当時で)戦後30年を超えている。石井は亡くなっている。今さら何を言おうと咎められることもないはずだ。しかし彼らの中では石井四郎は依然として「閣下」であり、「軍機」は「他言無用」だった。
森村氏の取材当時、ある大学で講師を務めていた元隊員によると・・・「オヤジ」(石井四郎のこと)が、七三一部隊を設けるのに際し、もっとも留意したのが特設監獄の秘密保持だった。だからオヤジは実家の小作人や、村内の次男坊三男坊を集め、満州に連れて来たのだ。「戦前、貧農や小作人からみて地主は大旦那であり村の殿様だった」。「オヤジは小作農や貧農の、こうした地縁帰属意識」と、彼らに与えた「農民としては信じられないような」報酬によって、秘密を守り通そうとしたという・・・。
悲しいことだが、我々に彼らを批判する資格があるだろうか。給料の額はともかく、雇ってくれた恩を忘れてはならない、辞めたからといっても会社の悪口など言ってはならない・・・などという意識が働いているよな、我々にも。ひいてはお上に逆らってはならない、天皇陛下に逆らってはならない、に繋がるだろう。
こうして我々は自分を縛ってきたんだよ。まずはこの呪縛から自らを解放しなければならない。それが加瀬さんの言う「本物の闘い」への第一歩だ。